「四畳半で隠居生活を送る」。ひょっとして人生の最高の贅沢かもしれないと思い勉強会に参加した。きょう(28日)富山市で開催された「茶の湯文化にふれる市民講座」(主催:表千家同門会富山県支部)。講師は歴史学者(日本文化史・茶道史)の熊倉功夫氏でテーマは「家元の代替わりと隠居」。昨年2月に表千家が14代家元・而妙斎(じみょうさい)から15代・猶有斎(ゆうゆうさい)に引き継がれたことからこのタイトルになったようだ。家元の隠居はどのような人生スタイルだったのか。
茶道の流派のうち、三千家(さんせんけ)は表千家・裏千家・武者小路千家を総称する呼び名で、その三千家の祖が千利休の孫の宗旦(そうたん)であることは知られる。祖父の利休が豊臣秀吉により自刃に追い込まれたことから、自らは大名との関わりを避けたといわれる。「懸念(けんねん)の病(やまい)」、いわゆる心配性でノイローゼ状態だったともいわれる。大名というスポンサーがいないので清貧だった。「収入がないので利休の道具を売って暮らしていた」(熊倉氏)。
その分、宗旦は侘び茶の精神を磨き上げた。隠居生活は4畳半の住まいで、2畳の広さの茶室だった。宗旦が80歳のときに描いた「茶杓絵賛」がある。「チヲハナレ ヤツノトシヨリ シナライテ ヤトセニナレト クラカリハヤミ」(乳離れして、八歳から(茶の湯を)習ってきたが、八十歳になっても、暗がりは闇である)と。茶道の暗中模索の心境が生涯続いたと表現している。
代は飛ぶが、8代家元・啐啄斎(そくたくさい)は8歳で父の7代・如心斎(じょしんさい)を亡くし、父の高弟たちに家元として必要な知識を教えられた。40代半ばに京都の天明の大火(1788)で伝来道具を残して全てを失い、再興に全力を注ぐことになる。還暦60歳で9代・了々斎(りょうりょうさい)に家元を譲り、宗旦を名乗った。「木槿(むくげ)にも恥す二畳に大あくら」という句を残している。隠居生活は畳が2畳があれば十分だ、「一亭二客」の茶の湯を十分に楽しめると。火災を経験した人物の諦念というものを感じさせる。
幕末から明治維新という大変革のときに10代・吸江斎(きゅうこうさい)、11代・碌々斎(ろくそくさい)は生きた。吸江斎は幼くして千家に入り、家元を襲名した。大津絵の「鬼の念仏図」というユーモラスなタッチで描かれた絵がある。吸江斎筆の「不苦者有智」が賛がある。「福は内」の当て字である。その意味は「苦しまざる者に智有り」。その意味をかみしめると実に哲学的である。時代を生き抜く知恵があれば不安から解き放たれる、と。吸江斎は38歳で子の碌々斎に代を譲り隠居号・宗旦を名乗るが、43歳でその生涯を閉じる。
碌々斎は天保8年(1837)に生まれ、19歳で家元を継ぐ。31歳のときに明治維新の時代の大波が押し寄せ、京都から東京に遷都。混沌とした世情の中で茶の湯も苦難の道を歩むことになる。大名というスポンサーを失ったことは言うまでもないが、追い打ちをかけたのが文明開化だった。時代の価値観が和の伝統文化から西洋文明へと向かう。当時の財閥の支援もあったとされるものの、家元は全国を行脚し、神社仏閣などで献茶式を行うことで茶の湯の普及にいそしんだ。この努力が地方の茶人とのコミュニケーションの場を創り出し、茶道復興の道筋をつくる。56歳で隠居して父同様に宗旦を名乗る。しかし、その直後、家元の屋敷が火災に遭う。74歳で生涯を終える。
講演で聴いた家元の隠居スタイルは実にリアリティのあるものだったが、もちろん、すべてが苦行続きだったわけではないだろう。話は現代に戻る。「生涯現役」という言葉もあり、隠居という言葉自体が時代遅れかもしれない。熊倉氏は講演の最後に「会場のみなさん、楽隠居されてはいかがですか」と参加者に投げかけた。楽をするためにあえて隠居するという考えもあるだろう。また、苦を背負い込んで人生を全うすることこそが人生を楽しむという生き方と考える人もいるだろう。そして最後に「即今(そっこん)」という言葉を付け加えた。「今という瞬間を大切に生きましょう。今日庵、不審庵という茶室名は今を生きてこそという生き方を問うています」。胸に刺さる一言だった。
で、自身はどうするのか。4畳半の隠居生活で茶を点てる。同好の士が集えばそれでよい。隠居は楽しい。あとは何も考えない、か…。
⇒28日(日)夜・金沢の天気 はれ