きょうから5月、新緑がまぶしほどに樹木や山野草の生命力もあふれる。庭には、ドクダミやチドメグサ、スギナ、ヨモギ、ヤブカラシが顔を出している。きょう午後、2時間ほど草むしり(雑草取り)をした。地面と向き合うと、不思議と無心になる。
知識豊富な友人から「草むしりは禅修行のようなものだよ」と聞かされたことがある。座禅を組みながら自分と向き合い悟りの境地を目指すように、草むしりは地面と向き合いながらひたすら手を動かし無心の境地に入る。草取りを終えて地面を眺めると、雑念が払われたかようにすっきりとした空間が広がる。その瞬間、草むしりという作業ができたことに感謝の念と充実感が心に漂う。
草むしりをしていて、かつて読んだ本を思い出すことがある。ドイツの詩人、ヘルマン・ヘッセの庭仕事に関する詩やエッセイを集めて出版された『庭仕事の愉しみ』(草思社)。その著書に、「青春時代の庭」という詩が載っている。「あの涼しい庭の梢のざわめきが 私から遠のけば遠のくほど 私はいっそう深く心から耳をすまさずにはいられない その頃よりもずっと美しくひびく歌声に」(一部引用)。ヘッセには庭の梢(こずえ)のざわめきがハーモニーのような美しい歌声に聞こえたのだろう。
ヘッセのこの心境を表現するような床の間の掛け物がある。「閑坐聴松風」(かんざして しょうふうをきく)という禅語で、茶席によく掛かる。静かに心落ち着かせて坐り、松林を通り抜ける風の音を聴く。松に限らず、近くにある木が風に揺られ、サラサラと鳴っている音、鳥や虫の音が心地よく聴こえるという意味と解釈している。五月晴れのもと梢のざわめきを聴きながら草むしりをする。至福のひとときでもある。
⇒1日(月)夜・金沢の天気 はれ
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