自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★2017 ミサ・ソレニムス~4

2017年12月28日 | ⇒ドキュメント回廊

   この1年、プライベートで2つのことにチャレンジした。「挑戦」と日本語表現すると仰々しい感じだが、「課題に取り組んだ」と言った方がよいかもしれない。

    父の遺影を持参しベトナム「戦地」巡礼の4日間

         一つ目の課題は、15年前にさかのぼる。平成14年(2002)8月に父が他界した。亡くなる前「一度仏印に連れて行ってほしい。空の上からでもいい」と病床で懇願された。仏印は戦時中の仏領インドシナ、つまりベトナムのことだ。父の所属した連隊はハノイ、サイゴンと転戦し、フランス軍と戦った。同時に多くの戦友たちを失ってもいる。父はベトナムに亡き戦友たちの慰霊に訪れたかったのだろう。病状は思わしくなかったので、まもなく他界したが、兄弟3人にはその言葉が脳裏に焼き付いていた。11月、父のベトナムへの想いをかなえようと遺影を持参して3泊4日のベトナムの旅に出かけた。

    23日夜、ハノイに到着。24日にハノイから100㌔ほど離れたハナム省モックバック村に向かった。ここに「革命烈士の墓」がある。ベトナムは1954年のディエンビエンフーの戦いでフランスを破り、その後、ベトナム戦争でアメリカを相手に壮絶な戦いを繰り広げた。革命烈士の墓は普段は入口の門の鍵がかかる、まさに聖地なのだ。日本名は分からないが、ベトナム独立のために命を捧げた日本人の墓地があると管理人の女性が案内してくれた。

   では、なぜベトナムの革命烈士の墓になぜ元日本兵の墓があるのか。父が所属したのは歩兵第八十三連隊第六中隊。日本の敗戦色が濃くなった昭和20年1月、それまでハノイに駐屯していた部隊は「明号作戦」と呼ばれた戦いに入る。フランス軍との戦闘で、カンボジアとの国境の町、ロクニンに転戦。ところが、8月15日、敗戦の報をこの地で聞くことになる。終戦処理の占領軍はイギリスがあたり、父の部隊はサイゴンで捕虜となる。

   このころから部隊を逃亡する兵士が続出。その数は600人とも言われている。多くは、ベトナムの解放をスローガンに掲げる現地のゲリラ組織に加わり、再植民地化をもくろむフランス軍との戦いに加わった。中にはベトナム独立同盟(ベトミン)の解放軍の中核として作戦を指揮する元日本兵たちもいた。

   父の想いは仏印という戦地で散った戦友たちへの供養だったろう。そこで、いろいろ調べたが、現地ベトナムでは日本兵の戦死者たちを祀る慰霊碑は見当たらない。そこで、ベトナムのために戦った元日本兵の墓がモックバックにあるとの情報を得て墓参することにした。ベトナムは社会主義の国だが仏教信仰が盛んだ。革命烈士の墓の近くの商店で線香を買い求め、近くに野ギクが自生していたので切って、元日本人の墓に線香と花を手向けた。

   25日、ホーチミン市で父たちが捕虜生活を送った場所を訪ねた。ベトナム戦争を経て、サイゴンからホーチミンへと市の改名がなされたのは1975年5月のこと。ところが、40数年たった今も現地ではサイゴンの方が普通に使われている。現地のガイド氏によると、ホーチミンはベトナム革命を指導した建国の父である指導者、ホー・チ・ミンに由来する。そこで、市名と人名が混同しないように市名を語る場合は「カイフォ・ホーチミン」(ホーチミン市)と言う。それに比べ「サイゴン」は言いやすい。また、生活や文化でサイゴンの独自性があり、市名が替わったからと言って簡単に「サイゴン」という地名が消えるわでもない。

    サイゴンのラジオ局に向かった。父の部隊の捕虜収容所があった場所がかつての「無線台敷地」、現在のラジオ局の周辺だった。生活ぶりはイギリスやフランスの監視兵もおらず、食事も部隊で自炊、外出もできる平常の兵営生活だった。無線台敷地の周囲で畑をつくり、近くの川で魚を釣りながら、戦闘のない日常を楽しんでいたようだ。

   ラジオ局の近くを流れるのはティ・ゲー川。生前父から見せてもらった捕虜生活の写真が数枚あり、その一枚がこの川で魚釣りをしている写真だった。兄弟でこの川の遊覧船に乗った。川面を走る風が頬をなでるようにして流れ、捕虜生活の様子を偲ぶことができた。

   1946年5月、母国への帰還が迫ったころ、部隊に事件が起きる。中隊の少尉ら3人が、ベトナム解放のゲリラ部隊に参加した同僚の兵士たちに部隊に戻り帰国を促す帰順の呼びかけに出かけたまま全員帰らぬ人となった。中隊では「ミイラ取りがミイラになった」と騒然となった。フランスとゲリラの戦闘に巻き込まれたのか定かではない。

   旅の最後に、父たちの部隊が帰還の船に乗り込んだサイゴン港に行った。父からかつて聞いた話だが、乗船の際は一人一人が名前を大声で名乗りタラップを上った。地元民に危害を加えた者がいないか、民衆が見守る中、「首実験」が行われたのだ。父が所属した部隊では幸い「戦犯者」はいなかった。別の部隊では軍属として働いていた地元民にゴボウの煮つけを出したことがある炊事兵が、乗船の際に「あいつはオレらに木の根っこを食わせた」と地元民が叫び、イギリス軍によりタラップから引きづリ降ろされた。そう語る父の残念そうな顔を今でも覚えている。

   父たちがサイゴンの港を出たのは1946年5月2日だった。港を出て行く船を見ていると、父たちの帰還船を見送っているような不思議な感覚になった。まるでタイムマシーンに乗って、港に来たような。「無事日本に帰ってくれてありがとう」と心の中で叫んだ。父は同月13日に鹿児島港に上陸して復員。能登半島に戻り結婚し、1949年に兄が、私は54年に、そして弟は58年に生まれた。

   ベトナム「戦地」巡礼の旅を終え、兄弟は26日に帰国の途に就いた。機体が離陸してベトナムと遠ざかるとき、遺影をそっと窓にかざした。(※写真はハノイの露店の花屋さん。ベトナム人は花好きだ=ガイドのゴックさん提供)

⇒28日(木)午前・金沢の天気    あめ 


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