東日本大震災では報道する側も被災者となった。震災からちょうど2ヵ月の5月11日に気仙沼市、そして翌12日に仙台市に向かった。仙台に本社があるKHB東日本放送を訪ねた。自身のテレビ局時代に懇意にしてもらった報道関係者がいて、震災当時の報道現場の様子を聴くことができた。
報道する側も被災者、命を救う情報発信に徹する
案内された部屋に入ると天井からボードが落ちていて、当時の揺れの激しさを目の当たりにした。震災直後の報道現場の様子を生々しく語ってくれた。余震が続く中、14時53分に特番を始めた。それ以降4日間、15日深夜まで緊急マナ対応を継続した。空からの取材をするため、14時49分に契約している航空会社にヘリコプターを要請した。しかし、仙台空港に駐機していたヘリは津波で機体が損壊していた=写真・上=。空撮ができなければ被害全体を掌握できない。さらに、21時19分、テレビ朝日からのニュース速報で「福島原発周辺住民に避難要請」のテロップを流した。震災、津波、火災、そして原発の未曽有の災害の輪郭が徐々に浮き彫りになってきた。
同社の社長は社員を集め指示した。「万人単位の犠牲者が出る。長期戦になるだろうが、報道部門だけでなく全社一丸となって震災報道にあたる」と、報道最優先の方針を明確に打ち出した。それは、命を救うための情報発信に専念せよとの指示だった。また、被害を全国に向けて発信し、一刻も早く救援を呼ぶことも当面の方針だった。そのため、全国へは「被災の詳報」、そして宮城県の放送エリアへは「安否情報」「ライフライン情報」を最優先とした。
持久戦に備えてロジスティックス(補給管理活動)を手厚くした。取材人員・伝送機材を確保し、応援到着まで社員全員で乗り切る初動態勢を組んだ。テレビ取材の要(かなめ)である収録用テープの確保を最優先した。さらに、食料補給の充実が欠かせない。数種類の弁当の他、常時大鍋で味噌汁、スープを提供、コーヒー、紅茶、お茶、カップ麺のためにお湯も沸かした。ロジ担当が常駐して疲れて帰る取材スタッフへの声掛け、ねぎらいの言葉を張り出すなどした。情報共有のための「立会い朝会議」をほぼ毎日午前9時から実施した(3月16日-4月28日まで)。立会い朝会議は録音、議事録を当日中に作成し全社にメール配信した。非常事態であるがゆえに徹底した情報共有や気配りが必要なのだと教えられた。
被災しながらも報道を続けたのは新聞も同じだった。宮城県の地域紙「石巻日日新聞」は停電と輪転工場の損壊で新聞発行ができなくなった。そのとき記者たちはどのような行動をとったのか。そのドキュメンタリーが新書本『6枚の壁新聞 石巻日日新聞・東日本大震災後7日間の記録』(角川SSC新書)で描かれている。同紙は夕刊紙で、県東部の石巻市や東松島市、女川町などエリアに1万4000部を発行し、翌年には創刊100周年を迎える老舗だった。新聞発行がストップして社長は決断した。「今、伝えなければ地域の新聞社なんか存在する意味がない」「紙とペンさえあれば」「休刊はしたくない。手書きでいこうや」と。そして、3月12日付=写真・下=から6回にわたって壁新聞づくりが始まり、避難所などに貼り出した。おそらく、大手紙やブロック紙と呼ばれる新聞社だったら思いもつかなかったことだろう。
伝える使命感が手書きの壁新聞へと記者たちを走らせた。ただ、記者にたちとって忸怩(じくじ)たる思いがなかったわけではない。壁新聞は量産できないので、貼り出した場所(避難所など)でしか読まれない。手書きの壁新聞では字数が限られ、取材した情報のほとんどは掲載されない。電気が来て、パソコン入力でA4版のコピー新聞を配布できたのは18日。そのコピー新聞を手にした記者デスクは「サイズは小さくとも、活字で情報を伝えられることに喜びがあふれた。早くいつもの新聞を作りたい」と記している。そして、輪転機が再稼働したのは翌日19日だった。
⇒9日(火)午前・金沢の天気 はれ
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