震災・津波を自身が初めて経験したのは1983年(昭和58年)5月26日の日本海中部地震だった。午前11時59分に秋田県能代市沖の日本海側で発生した地震で、マグニチュード7.7、10㍍を超える津波が発生した。そのころ、地方紙の記者で能登半島の輪島支局に赴任していた。金沢本社のデスクから電話で「津波が能登半島にまもなく来る」との連絡だった。急いで輪島漁港に行くと、漁港内に巨大な渦が巻いていて、渦に飲み込まれる寸前の漁船があり、足元まで波が来ていたが写真を1枚だけ撮って一目散に現場から離れた。欲を出して2、3枚と撮っていたら逃げ遅れるところだった。それ以来、震災・津波の現場を訪れるようになった。
大漁旗に込められた「祈」、気仙沼で見た復興の願い
2011年3月11日の東日本大震災。14時46分、その時、金沢大学の公開講座で社会人を対象に広報をテーマに講義をしていた。すると、事務室でテレビを見た講座の主任教授が血相を変えて講義室に駆け込んできた。そして耳打ちしてくれた。「東北が地震と津波で大変なことになっている」と。受講生にはそのまま伝えた。講義室は一瞬ざわめいたが、講義はそのまま続けた。2005年から金沢大学に転職していたが、自身の中では被災地をこの目で確認したいとい思いが募った。
2ヵ月後の5月11日に仙台市と気仙沼市を調査取材に訪れた。当時、気仙沼の街には海水の饐(す)えたような、腐海の匂いが立ち込めていた。ガレキは路肩に整理されていたので歩くことはできた。岸壁付近では、津波で陸に打ち上げられた大型巻き網漁船「第十八共徳丸」(330㌧)があった。津波のすさまじさを思い知らされた。
気仙沼市役所にほど近い公園では、数多くの大漁旗を掲げた慰霊祭が営まれていた。気仙沼は漁師町。津波で漁船もろとも大漁旗も多く流されドロまみれになっていた。その大漁旗を市民の有志が拾い集め、何度も洗濯して慰霊祭で掲げた=写真・上=。この日は曇天だったが、色とりどりの大漁旗は大空に映えていた。その旗には「祝 大漁」の「祝」の文字を別の布で覆い、「祈」を書き入れたものが数枚あった=写真・下=。漁船は使えず、漁に出たくとも出れない、せめて祈るしかない、あるいは亡き漁師仲間の冥福を祈ったのかもしれない。「14時46分」に黙とうが始まり、一瞬の静けさの中で、祈る人々、すすり泣く人々の姿が今でも忘れられない。
2015年2月10日、気仙沼を再び訪れた。同市に住む、「森は海の恋人」運動の提唱者、畠山重篤氏に講演をお願いするためだった。畠山氏との交渉を終えて、4年前に訪れた市内の同じ場所に立ってみた。「第十八共徳丸」はすでに解体されていた。が、震災から2ヵ月後に見た街並みの記憶とそう違わなかった。当時でも街のあちこちでガレキの処理が行われていた。テレビを視聴していて復興が随分と進んでいるとのイメージを抱いていたが、現地を眺めて愕然としたのだった。
⇒8日(月)午後・金沢の天気 くもり
「⇒ドキュメント回廊」カテゴリの最新記事
- ★金沢も能登の二重被災地も選挙戦に突入 季節の花も咲き競う
- ☆豪雨被害の農地復元に4、5年 世界農業遺産の能登が問われるレジリエンス
- ★能登震災から280日余り 変わる風景・変わらぬ風景~風車停止、転落車そのまま~
- ☆解散いろいろ「バカヤロー解散」や「郵政解散」 選挙手始めはポスター掲示板
- ★能登震災から280日余り 変わる風景・変わらぬ風景~倒壊ビル解体へ、3D住宅~
- ☆自民裏金問題で石破総理の決断 20日後の総選挙は果たして「吉」と出るのか
- ★日曜アラカルト~大の里が凱旋巡業、総理の「置き土産」は激甚指定と自衛隊風呂~
- ☆就任早々に能登の被災地視察 石破総理の足で稼ぐ政権の存在感
- ★「防災庁」設立を石破総理が所信表明 あす能登視察で切なる叫びを聴いてほしい
- ☆災難続く能登の農家 大雨冠水で横倒しの稲をどうする
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます