石川県の新知事、馳浩氏がきのう28日に初登庁した=写真=。今月13日の知事選では前金沢市長の山野之義氏を7982票の僅差で破り激戦を制した。馳氏の政治家人生は実にドラマチックだ。
馳氏は母校の星稜高校で国語の教員をしていたときにロサンゼルス・オリンピック(1984年)のレスリング競技グレコローマンスタイルのライトヘビー級に出場。予選敗退だったものの、高校教諭でありオリンピック出場選手として県民は誇りに感じたものだ。それが一転、翌年85年にジャパンプロレスに入り、87年には新日本プロレスに入団してリングで戦う。北陸の精神風土は保守的だ。県民の多くは「教員辞めて、タレントになり下がった」という思いで受け止めていたのではないだろうか。
そのタレント性を政治家として引き出したのが当時、自民党幹事長だった森喜朗氏だった。1995年7月の参院選で石川選挙区に森氏からスカウトされて立候補し、民主改革連合の現職を破り当選した。その後、タレント議員の巣窟のように称されていた参院から鞍替えして、2000年6月の衆院選で石川1区から出馬。かつての森氏と奥田敬和氏の両代議士による熾烈な戦いは「森奥戦争」とも呼ばれた。その代理選挙とも称された選挙で、民主党現職で奥田氏の息子・建氏を破る。しかし、03年11月の衆院選では奥田氏に敗れる。比例復活で再選。05年9月の衆院選では奥田氏を破り3選。プロレスラーは続けていたが、05年11月に文部科学副大臣に就いたので、政治家が本業となり、06年8月に両国国技館で引退試合を行った。
その後も「森奥代理戦争」は続く。民主党が政権を奪取した09年8月の衆院選では奥田氏に敗れるも、比例復活で4選。12年12月の選挙では奥田氏を破り5選。14年12月の衆院選では、リタイヤした奥田氏に代わって立候補した民主党の田中美絵子氏を破り6選。2015年10月には文科大臣に就任し、翌16年8月まで務めた。ここまで実績を積み上げると、石川県における政治的な地位は不動となるとなり、17年4月には自民党県連会長に就任。同年10月の衆院選では田中氏を大差で破り7選。そして、21年7月に来る知事選への意欲を見せ、次期衆院選に出馬しないことを表明した。
では、馳氏の政治手腕とは何か。結論から述べると、提案型ではない。面倒見のよさなのだ。地域から課題が持ち込まれるとそれと徹底して向き合う姿勢だ。その話を聞いたのは、奥能登・珠洲市の泉谷満寿裕市長からだった。奥能登国際芸術祭(2017、2021年)を開催するにあたって、馳氏に相談を持ち掛けたところ、「文化庁との連携や国からの支援など、選挙区でもないのによく面倒を見てくれた」と。ちなみに、当時の馳氏の選挙区は石川1区(金沢市)、能登は3区。
確かに、馳氏は知事選で真新しい選挙公約を掲げたわけでもない。むしろ、徹底した面倒見のよさを発揮させることが県政を盛り上げることになるのかもしれない。県政として新たな方針を打ち出すより、珠洲市のように県内の各自治体から地域創りや地方創生の本気度を引き出し、理にかなったものであれば県政として徹底的に面倒を見るという施策が必要だ。
馳氏はプロレスラー時代、ジャイアントスイングが得意技だった。相手の両足を抱え込んで振り回し、放り投げるあの技だ。やる気のない県内自治体にジャイアントスイングをかける意気込みで県政を活性化させてほしいと願う。
⇒29日(火)夜・金沢の天気 はれ時々くもり
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