自在コラム

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☆東京の「金沢町内会」

2006年05月13日 | ⇒トピック往来
 東京で「金沢町内会」と呼ばれているエリアがある。東京都板橋区の一角である。その「町内会」の話は、先日訪れた国立極地研究所で聞いた。同研究所の広報担当のS氏が「金沢大学の人ですか、この地区の人たちは金沢に親しみを持っていますよ。金沢町内会と自ら呼んでいます」と。

 確かに、同研究所は板橋区加賀1丁目9番10号が所在地だ。加賀といえば加賀藩、つまり金沢なのである。加賀という地名は偶然ではない。かつて、加賀藩の江戸の下屋敷があったエリアなのである。それが今でも地名として残っている。

 歴史をたどると、参勤交代で加賀藩は2000人余りの大名行列を編成して金沢を出発し、富山、高田、善光寺、高崎を経由して江戸に入った。金沢-江戸間約120里(480㌔㍍)、12泊13日の旅程だった。そして江戸に入る際、中山道沿いの板橋に下屋敷を設け、ここで旅装を粋な羽織はかまに整え、江戸市中を通り本郷の加賀藩上屋敷(現在の東京大学)へと向かったのである。この参勤交代は加賀藩の場合、227年間に参勤が93回、交代が97回で合計190回も往来した。

 ところで、板橋区と加賀藩について調べるにうちに面白い史実を発見した。明治以降の加賀藩下屋敷についてである。新政府になって、藩主の前田氏は下屋敷とその周囲の荒地を開墾する目的で藩士に帰農を奨励した。その中に、備前(岡山)の戦国武将、宇喜多秀家の子孫8家75人がいた。実は、加賀藩の初代・利家の四女・豪姫は豊臣秀吉の養女となり、後に秀家に嫁ぐ。関が原の戦い(1600年)で西軍にくみした夫・秀家とその子は、徳川家康によって助命と引きかえに八丈島に遠島島流しとなる。豪姫は加賀に戻されたが、夫と子を不憫に思い、父・利家、そして二代の兄・利長に頼んで八丈島に援助物資(米70俵、金35両、その他衣類薬品など)の仕送りを続けた。

 この援助の仕送りは三代・利常でいったん打ち切りとなった。物語はここから続く。秀家一行が八丈島に流されるとき、二男・秀継の乳母が3歳になる息子を豪姫に託して一家の世話のため自ら島に同行した。残された息子はその後、沢橋兵太夫と名乗り、加賀藩士として取り立てられた、この沢橋は母を慕う気持ちを抑えきれずに幕府の老中・土井利勝に直訴を繰り返し、八丈島にいる母との再会を願って自らを流刑にしほしいと訴えた。同情した土井の計らいで、母に帰還を願う手紙を送ることに成功する。しかし母の返事は主家への奉公を第一とし、これを理解しない息子を叱り飛ばす内容だった。

 母に会いたいという沢橋の願いはかなわなかった。が、この話はその後、意外な方向に展開していく。当時の幕府の方針である儒教精神の柱「忠と孝」の模範として高く評価され、幕府は加賀藩に八丈島の宇喜多家への仕送りを続けるよう命じたのである。加賀藩の仕送りは実に明治新政府が誕生するまでの270年間に及んだ。そして、新政府の恩赦で流罪が解かれ、一族は内地に帰還し、加賀藩預かりとなる。一族は浮田を名乗り、前述の加賀藩下屋敷跡と周辺の開墾事業に携わることになる。前田家の援助で浮田一族の八丈島から板橋への移住は成功したのである(「板橋区史 通史編下巻」)。

 板橋区史に出ているくらいだから当地では有名な話なのだろう。とすれば、加賀という文字が地名となり、「金沢町内会」と親しみを込めて呼ばれる歴史的な背景が理解できなくもない。

⇒13日(土)夜・金沢の天気  くもり

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