自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

☆「忘れざる日々」

2009年06月20日 | ⇒ドキュメント回廊
 6月20日の75歳の誕生日を前にして一人のジャーナリストが逝った。鳥毛佳宣(とりげ・よしのり)さん。中日新聞の記者として、石川と東京で政経、文化、事件を担当した。後に文化事業も担当し、北陸で初めての開催となる中華人民共和国展覧会を誘致するなど腕利きのプロモーターでもあった。退職後に記者生活30年余の回想をつづった本を著した。そのタイトルが「忘れざる日々」(1994年6月出版)である。出版のときに贈呈されたその本を読み返して、故人を偲んだ。

 記者の生活には日曜日や休み、時間外、オフという概念がない。いつでも、どこでも事件は記者を駆り立てる。そのエピソードが「忘れざる日々」で紹介されている。鳥毛さんが結婚して間もなく金沢市内で3日続けて深夜の火災があった。警察担当だったが、一夜、二夜とも気づかず、出社して先輩記者に大目玉を食らった。しかし、さすがに三夜目は「きょうは寝ない」と覚悟を決めた。事件に予定はないが、消防団の半鐘が鳴り、鳥毛さんは真っ先に現場に駆けつけた。記者としての瞬発力は定評だったが、若き日の苦い経験をバネとした。東京報道時代にはホテルニュージャパンの火災、日航機の墜落事故などを担当した。このエピードは妻の美智子さんが本のあとがきで紹介している。

 鳥毛さんはある意味で目利きだった。筋をきっちりと掴んで真贋を見分けていく。「忘れざる日々」で面白い記事が紹介されている。「禅の壁」というコラムで、金沢・湯涌にある康楽寺のことを書いている。昭和19年に建てられたその寺は、仏教王国と称される北陸では「乳飲み子」のような歴史しか持たない。が、この寺はかつて加賀藩前田家の重臣、横山章家氏の別邸だったもので、明治時代の金沢の代表的な建物だった。それを戦前の政治家、桜井兵五郎氏(1880‐1951年)が譲り受け、同氏が経営する白雲楼ホテル(今は廃業)の近くに寺として再建した。鳥毛氏の謎解きはここから始まる。なぜ寺としたのか、釈迦の遺骨と称されるものをビルマの要人からもらった桜井氏が寺を建て安泰したと、桜井氏の関係者から取材している。おそらく普通の記者だったら、このエピソードを持って、この取材は終わっていたかもしれない。鳥毛氏の真骨頂はここからである。その関係者から「昭和40年4月に東京・三越本店で開催された鶴見・総持寺展で展示された仏像10体のうち7体がこの康楽寺のものだった」と聞きつける。さらに、東急電鉄の創業者で美術品収集家として知られた五島慶太氏(1882-1959年)が寺の愛染明王像を所望したが、適わなかったとのエピソードを五島氏の周辺に取材して紹介している。寺とは言え、実質的に個人が収集した仏教美術の「倉庫」と化している寺の有り様に、鳥毛氏は「言い表せないむなしさを覚えた」とジャーナリスとしての感性をこぼしている。

 鳥毛さんは1934年6月20日、東京生まれ。戦時下の空襲で父方の親戚を頼って、能登半島・柳田村(現・能登町)に疎開し、終戦を迎える。その縁で、「故郷は柳田」と言い、能登半島にも眼差しを注いだ。私が鳥毛さんと親しくさせてもらったのも、同郷のよしみだった。

 病の床でうわごとのように「つくづく疲れた、精も根も」と言っていたと、美智子さんは19日の通夜の式場で話した。全力投球するタイプ、そんな記者時代の思い出の一つ一つが走馬灯のように死の直前の脳裏を駆け巡っていたのだろうか。

※写真は鳥毛さんが愛用したペンと原稿=「忘れざる日々」より。

⇒6月20日(日)朝・金沢の天気 はれ

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