自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★「ベト7」のこと(下)

2007年03月11日 | ⇒トピック往来

  「ヒトはどこから来て、どこへ行くのか」というフレーズは、これまでお会いした中で霊長類学者の河合雅雄氏から、そして動物行動学者の日高敏隆氏からご教示いただいた言葉である。それぞれの研究の立場からのアプローチは異にするものの、この先、人類はどこに向かっていくのか、進化か退化といった遠大な命題が仕込まれたフレーズなのである。

  ヒトは都市化する動物であるとすれば地域の過疎化は当然至極、流れに棹をさす地域再生に向けた研究自体は無駄である。しかし、商品経済にほだされて、都会へと流れ生きる現代人の姿がヒトの一時的な迷いであるとすれば、自然と共生しながら生きようとするヒトを地域に招待し応援することは有意義である。私なりにこの命題を自問自答していたとき、これまで聴こうとしなかった7番の第1楽章と第2楽章に耳を傾けたみた。第2楽章の短調の哀愁的な響きにヒトの営みの深淵を感じ、目頭が熱くなるほどの感動を得た。そして、ベートーベンの曲想の壮大なスケールに気づき、7番の主題は「ヒトはどこから来て、どこへ行くのか」のテーマそのものではないのか、と考えるようになった。ここから「つまみ食い」の愚かさを知り、第1楽章から第4楽章までをトータルで聴くようになった。1月上旬のことだった。

  2月下旬、研究費の申請を終えて、自宅に帰り、ある意味で孤独な戦いを精神的に支えてくれたベト7に、そして指揮した岩城さんとオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)に感謝した。

  私は音楽的な教養や才能を持ち合わせてはいない。ネットで調べると、ベートーベンは5番運命を1808年に完成させ、スランプに入り、4年後に7番を完成させた。42歳のとき。初演は1813年12月。ナポレオンに抗したドイツ解放戦争で負傷した兵士のための義援金調達のチャリティーコンサート(ウィーン大学講堂)で自ら指揮を執った、という。戦時中なので聴衆の士気を高めるテンポのよさ、未来へと突き進む確信とっいったものが当然込められていた。そして、静かに心を振るわせる前段の葬送風の響きはこの戦争で亡くなった者たちへの弔い、あるいは戦争の理不尽さを嘆き悲しむメッセージかもしれないとも想像する。

  先日、学生の携帯電話の着メロで7番が鳴っているのを聴いた。テレビドラマの「のだめカンタービレ」で人気だとか。7番はいろいろなCDが出ている。私だったら、岩城指揮のOEKのベト7を推薦する。1番から9番までを2度も連続演奏するほどにベートーベンを愛した指揮者の演奏には「違い」というものあるからだ。

 ⇒11日(日)午後・金沢の天気   雪

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☆「べト7」のこと(上)

2007年03月10日 | ⇒トピック往来

 ベートーベンの交響曲第7番のことをオーケストラの奏者たちは「ベト7(べとしち)」と読んでいる。そのベト7を去年12月中ごろから、愛用のICレコーダーにダウンロードして毎日聴いている。通勤の徒歩、バスの中、自宅で聴いているから1日に3回は聴く。ということはもう300回ぐらいか。実はいまも聴いている。はまり込んでいるのである。

  聴いているベト7は2002年9月にオーケストラ・アンサンブル金沢が石川県立音楽堂コンサートホールで録音したものだ。指揮者は岩城宏之さん(故人)。はまり込んだきっかけは、岩城さんがベートーベンのすべての交響曲を一晩で演奏したコンサート(2004年12月31日-05年1月1日・東京文化会館)での言葉を思い出したからだ。演奏会を仕掛けた三枝成彰さんとのトークの中で岩城さんはこんな風に話した。「ベートーベンの1番から9番はすべてホームラン。3番、5番、7番、9番は場外ホームランだね」「5番は運命、9番は合唱付だけど、7番には題名がない。でも、7番にはリズム感と同時に深さを感じる。一番好きなのは7番」と。

  そのトークを耳にしたころ、7番は第4楽章の狂気乱舞するような強いリズム感ぐらいの印象しかなかった。が、去年の12月、文部科学省への研究費の申請書類で宿題を背負い、行き詰ったときがあった。苦しさ紛れに、ふと岩城さんの言葉を思い出し、岩城さんが指揮した7番のCDを買い求めた。狂喜乱舞するリズム感に救いを求めたのである。だから、当初は、葬送風の暗い響きがある第1楽章と第2楽章を飛ばして、第3楽章と第4楽章をダウンロードして聴いていた。効果はあった。書類の作成作業はテンポよく進みアイデアも湧く感じで、「ベト7のおかげで何とか乗り切った」とも思った。

  ところが、これが打ちのめされるのである。実は申請書類のテーマは大学がかかわる奥能登の地域再生である。奥能登に何度も足を運び、現地でヒアリングをした。奥能登は過疎・高齢化が進む。ある古老がこう言う。「この集落はそのうち誰もいなくなる。今のうちから(集落の)墓をまとめて一つにして、最後の人が手を合わせくれればよい。一村一墓だよ」と。

  その帰り道、ふと奥まった道に入ると、廃村となった集落があった。崩れ落ちた屋根の民家、草木が生い茂り原野化するかつての田畑がそこにあった。その光景に立ち尽くしてしまった。おそらく数百年、千年にもわたって先祖が心血注いで開墾したであろう田畑があっけなく原野に戻ろうとしている。そこでの人の営みや文化はおろか、その痕跡さえも消えようとしている。おそらく子や孫は都会に出たまま帰ってこない。親を引き取ったか、親が亡くなって廃村となった。これが過疎が行き着く先である。

  それでは、その地を捨てた子孫はいま都会で幸せに暮らしているのだろうか。さらにその子や孫に「私たちはどこから来たの」と聞かれたら、「それじゃ先祖の地へ行ってみようか」と言えるのだろうか。その廃村の光景をその子や孫に見せるには躊躇するだろう。暗鬱になった。そのとき思い出したのは「ヒトはどこから来て、どこへ行くのか」というフレーズだった。その打ちのめされた気分をなんとか救ってくれたのもベト7だった。(つづく)

⇒10日(土)夜・金沢の天気   あめ                

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★メディアのツボ-46-

2007年03月07日 | ⇒メディア時評

 日本の裁判で、弁護手法はこれでよいのか、と思う。被告を精神鑑定に持ち込んで、量刑を軽くする。その落とし込み先は決まって、外見は健常のように見えるが、健常ではない、いわゆる発達障害である。しかも、発達障害の中でも名前が聞き慣れない、アスペルガー症候群である。「病名からして精神病様状態なんです、だから量刑を軽く」と弁護士は公判の中でまくしたて、あえて争点にする。

  精神鑑定という弁護手法

  2005年12月、京都・宇治市の学習塾で女児(当時12歳)がアルバイト講師に刺殺された事件の裁判の判決が6日あり、被告に懲役18年の刑が言い渡された。この裁判で、責任能力の有無のために精神鑑定があり、上記のアスペルガー症候群と診断された。

  きょうの記事を丹念に読むと、「アスペルガー症候群に罹患(りかん)し…」という記事(朝日新聞)が出てくる。発達障害は先天性であり、伝染病などのように罹(かか)る病気ではないのである。この罹患という言葉を弁護側が使ったのか、裁判官が使ったのか、この記事では定かではないが、アスペルガー症候群や発達障害がきちんと理解がされないまま公判が進んだように思えてならない。

  発達障害ならば過去の診断歴があるはずである。第一段階として、小学校に入る前の予備検診があり、普通教育なのか養護教育なのかの判断にされる。中学、高校ではどうだったのか。発達障害でよく見られる奇声や繰り返し行動、言葉のオウム返し、ノッキング(体の前後ゆすり)などの行動のうち、いくつかあったはずである。裁判で罹患という言葉が使われていたとなると、「何かのきっかけ(後天的)に病気になった」という誤った認識が法廷にあったのではないか。

  これまでの公判では、謝罪の言葉を述べる一方、「僕を殺してください」「助けてください」と大声をあげるなど、異常な言動も目立った、と記事にある。アスペルガー症候群を裁判官に印象づけるための陽動作戦ではないのか、と私は勘ぐる。発達障害者は自分を対象化することができない。だから罪を苛(さいな)んで「僕を殺してください」などとは言わない。言うとすれば、死刑に対する恐怖から「僕は死ぬのですか。僕は死ぬのですか」と繰り返し叫ぶだろう。

  罪を軽くするために、精神鑑定で発達障害に持ち込み、それを声高に争点にすることに不信感を持つ。一人の被告の量刑を減らすために、罪なきアスペルガー症候群の人たちに「犯罪者予備軍」のレッテルを貼っているのと等しい。発達障害者支援法ができるなど社会救済の法整備が進んでいる一方で、このような障害を背負った人たちを巻き添えにする弁護手法がまかり通っている。一度ではない。犯罪が繰り返される度にエンドレスに病名が使われる。これこそ発達障害者に対する人権侵害ではないのか。

  判決を傍聴した被害者の父親は「反省はしていないと思う。『うそつき。娘を返せ』と言いたい」と話したという。被告は、被害者の入塾から事件当日まで9ヵ月間、個別指導と称して女児を繰り返し呼び出していた。公判を傍聴してきた母親は「平然と反省もなく娘のことを悪く言い、うそをつき、罪を逃れようとしています。人間ではありません。悪魔です」と非難した、という。一連の記事を読んで、桶川ストーカー殺人事件を連想した。 計画的な執拗さ。発達障害者と人の病(やまい)のジャンルが違う。

⇒7日(水)夜・金沢の天気   雪

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☆メディアのツボ-45-

2007年03月06日 | ⇒メディア時評

 3月5日付の読売新聞インターネット版で、「スポーツ」に関する全国世論調査の結果が出ていた。少し不可解に思ったのは、聞き慣れないキーワードでの設問だった。

   世論調査と設問

  そのキーワードは「ポストシーズンゲーム」(PSG)。世論調査の結果によると、「ポストシーズンゲームによって、プロ野球が面白くなると思うか」との設問で、「そう思う」が44%となり、「そうは思わない」14%、「どちらとも言えない」28%を上まわったとの内容だ。

  そこで「ポストシーズンゲーム」でインターネット検索をかけてみる。Googleで56000件余り(6日2時現在)。プロ野球改革の目玉として、今季新たに取り組むにしては、件数がちょっと少ない。しかも、この論議は04年からスタートしているのに、である。ともあれ、ポストシーズンゲームとは、ペナントレースで優勝チームを決めた後、各リーグの上位3チームが日本シリーズ出場権をかけて戦う。2位と3位が戦い、勝者が1位と対戦する。「クライマックスシリーズ」という名称だ。翻して言えば、リーグ優勝チーム同士で日本一を争ってきた、57回の歴史を持つ日本シリーズは昨シーズンを最後に消滅している。

  話を世論調査に戻す。それほど認知されていないようなPSGについて、「プロ野球が面白くなると思うか」と質問されて、「そう思う」と答える人が果たして44%もいるものだろうか。そこで調査方法を検証する。調査時期は2月17、18日に実施し、方法は面接方式だった。世論調査における面接方式は、調査員が調査対象者を自宅を訪問し、口頭で質問を行い、その回答を調査員が調査票に記入する方式である。ここがポイントだが、設問がいかにも誘導的な場合がある。これは私の想像だが、「新しいプロ野球改革で、日本シリーズと違ってこんな面白さが特徴としてあります。名称はクライマックスシリーズといいます…」と設問にあって、それを調査員が読み上げた場合、対象者は「初めて聞いた名称だけど、面白そう」などと答えてしまう。こんな調査現場のやりとりが目に浮かぶのである。

  国民に広く認知されていないアイテムの設問には無理があるのではないか。Googleで56000件余りしかない設問アイテムである。むしろ、「日本シリーズがなくなったことをご存知ですか」と聞いたほうがスポーツ世論調査としては意義があったのではないだろうか。

  プロ野球に対する関心度が落ちていることは否めない。2月26日、日本テレビの久保伸太郎社長が記者会見でプロ野球巨人戦の中継で放送延長はしないと述べた。すると翌日27日の日テレの株価は社長発言を好感して、一時前日比420円(2.15%)高の1万9940円まで上昇した。この数字は現実である。

 ⇒6日(火)朝・金沢の天気    あめ

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★気になるニュース3題

2007年03月01日 | ⇒トピック往来

 3月に入った。季節の変わり目である。こんなときに面白い、奇妙な、驚くニュースが飛び込んでくるものだ。

  ミツバチの集団失踪が相次いでいる。アメリカでのこと。全米養蜂協会によると、元気だったハチが翌朝に巣箱に戻らないまま数匹を残して消える現象は、昨年の10月あたりから報告され始め、フロリダ州など24州で確認された。しかし、ハチの失踪数に見合うだけの死骸は行動圏で確認されないケースが多く、失踪したのか死んだのかも完全には特定できないという。そんな中、原因の一つとされているのが、養蜂業者の減少で、みつの採集などの作業で過度のノルマを課せられたことによる“過労死説”だ。国家養蜂局(NHB)が緊急調査に乗り出した。ハチを介した受粉に依存するアーモンドやブルーベリーといった140億ドル(約1兆6000億円)規模の農作物への深刻な影響が懸念され始めた。(3月1日・産経新聞インターネット版より)

  「発掘!あるある大事典Ⅱ」のデータ捏造問題の続報。2月28日、総務省へ再報告書を提出した後、関テレの千草社長が記者会見した。再報告書をまとめるにあたって、社員220人以上が作業延べ1860時間かけ520回の番組をすべてチェックした。さらに調査が必要な回に関しては社員20人が延べ4000時間以上をかけて精査した。疑問点などを洗い出し、外部の調査委員会に提出し、検討してもらうのだという(3月1日付・朝日新聞より)。ここからは私見が入る。ざっと6000時間をかけた社内調査だが、むしろダイエットの専門家による調査が必要ではないのか。外部調査委員会にしても5人の委員の職業構成は大学助教授(メディア論)、弁護士、大学大学院教授(メディア法)、メディア・プロデューサー、作家であり、医学的な見地から述べる人がいない。最終的な報告書をまとめ上げるにしてはバランスが悪い。

  江戸時代に加賀藩主に仕えた料理人の史料を読み解いている富山短大の陶智子(すえ・ともこ)助教授が2月28日に金沢市内で講演をした。その講演内容の紹介記事(3月1日付・北陸中日新聞)。17世紀の前田家の料理人、舟木伝蔵が子孫にレシピや食材を伝えるために多数の文書を残した。その分析から、陶氏は「金沢は北前船がもたらした昆布でだしを取る文化だが、前田家は赤いみそを多く使い、尾張に近い味付けをしていた」と。藩祖の利家は赤みそ文化の尾張国愛知郡(現・名古屋市中川区)の生まれ。味覚というのは、その後の前田家ではDNAのように引きつがれていたようだ。いまのご当主は18代目、関東に住んでおられるが、許されれば、「いまでも赤みそですか」とたずねてみたいものである。食の文化史の事例研究になりそうだ。

 ⇒1日(木)夜・金沢の天気    はれ

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