日々進歩を願って!

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マンホールと庚申塔

2016年09月03日 07時32分10秒 | 庚申塔
歩かなくては…と、思い立って与野駅まで行ってきました。
2001年5月1日に浦和市、大宮市、与野市が合併して、さいたま市となりました。。


と言うことで、マンホールは3種類ありました。

旧与野市のマンホール
与野市の花:サクラ、旧与野市内を流れる鴻沼川の魚がデザインされていました。


旧浦和市のマンホール
中央に浦和市の市章、周囲には市の花:サクラソウがデザインされていました。

そして、今のさいたま市のマンホールです。

さいたま市のマンホール
さいたま市の木:ケヤキ、市の花:サクラソウ、市の花木:サクラがデザインされています。

ネットで調べて、庚申塔を見るのが目的で与野駅まで行きました。
駅から歩いて5分くらいで庚申塔がありました。
 
針ヶ谷の庚申塔                 笠つきの青面金剛像です。
正徳4年(1714年)4月の建立、今から302年前の庚申塔です。

足元には三猿も刻んでありました。

左から見ざる、聞かざる、言わざるの順に並んでいました。

帰りは花を見ながら、ゆっくりと北浦和駅まで歩きました。
花は明日アップします。 
歩いた歩数は6,740歩、意外と少なかった。


追加の写真
昨夜、寝込みを襲いました。

21時半過ぎの カタバミ です。
葉も花も熟睡中でした(笑)。

久しぶりの庚申塔

2016年03月17日 09時26分36秒 | 庚申塔
頼まれて息子の家の留守番に出かけました。
孫娘のお守りが主な仕事です。
お母さんが出かけると、泣き止みません。


以前に聞いていた庚申塔を探しにベビーカーに孫を載せて向かいました、
近所の人に『庚申塔はどこですか?』と2人に聞きましたがわかりませんでした。
3人目に『お地蔵様はどこにありますか?」とお聞きしたら教えてくださいました。

やはり、お地蔵様ではなく、庚申塔でした。

庚申塔2基


左の庚申塔  延宝5年(1677)の庚申塔 339年前の建立

三猿です。

左から 見ざる 聞かざる 言わざる 


右の庚申塔  貞享2年(1685)の庚申塔  331年前の建立

三猿です。

左から  言わざる 聞かざる 見ざる

二つの庚申塔は三猿の並び順など違いはありますが、同年代のものです。
一番上の写真で見えるように横の彫ってある蓮の花は同じに見えます。
久しぶりの庚申塔、そして三猿…歩いた甲斐がありました。

孫をベビーカーに乗せて、知らない道を歩きました。
花もたくさん咲いていて、春を実感した散歩でした。

大谷口上町の庚申塔

2014年08月13日 08時12分42秒 | 庚申塔
息子の家のそばに庚申塔があるのは前から知っていました。
けれどなかなか行く時間が取れずに我慢していましたが、やっとチャンスに恵まれました。
一方通行の道は、どこから行っても辿り着かず、最後はバイクを押して歩きました。


大きな家の角に目的の庚申塔がありました。

2基の庚申塔 青面金剛像塔と文字塔の2基です。
右は享保16年(1731年)、左は元文5年(1740年)の庚申塔です。


享保16年(283年前)の庚申塔の三猿は左から言わざる・聞かざる・見ざるに並んでいました。
この庚申塔には尊像である一身四手の青面金剛像と邪鬼、鶏も刻まれていました。
昔からここにあったのか、武州豊島郡上板橋村大谷口の人が願人として名前が残っています。


青面金剛の足元の邪鬼と二羽の鶏が左右にいます。


元文5年(274年前)の庚申塔の三猿も左から言わざる・聞かざる・見ざるに並んでいました。
この石碑には「奉供養庚申 二世安樂所」と刻まれています。
古い時代の造立された庚申塔には長い主銘が刻まれている物が多いとのことです。


一方通行出口で見た看板

へのへのもへじ 赤ちょうちんのお店ですね。

鬼瓦作りが面白くて、あまり休憩を取らず作り続けたためか、左腰と左肩が痛くなりました。
近所の整形外科で電気治療を受け、痛み止めの薬をもらってきました。
去年までと違う体調に老いを感じています。



矢切の庚申塔

2014年04月17日 16時20分03秒 | 庚申塔
駅の案内図に庚申塔の所在地がありました。
やはり見ずに帰るわけにはいきません。
地図では近くにあります。
と言うことで出発です。


松戸市矢切はネギの生産地です。

矢切ねぎ
太くて甘みがあり、「矢切ねぎ」として2007年、地域団体商標に登録されています。

畑にはいろいろな花が咲いていました。
    
キヌサヤや空豆の花

矢切の名前の由来と庚申塚の由来の石碑がありました。


この塚には3基の庚申塔がありました。

安永5年(1776年)238年前の青面金剛の文字塔

聞かざる 見ざる 言わざる


寛政12年(1800年)214年前の青面金剛の文字塔

見ざる 聞かざる 言わざる

青面金剛像の庚申塔です。

寛文8年(1668年)346年前の庚申塔です。

言わざる 見ざる 聞かざる

 
やまぶき                     ヒメシャガ

途中の本久寺門前にも庚申塔がありました。

右の石塔です。 いたみがひどいのですが、遠くから三猿が見えました。
地図には載っていない庚申塔でした。


言わざる 聞かざる 見ざる


たんぽぽ                       つくし      忘れな草         菜の花 

この日は17,911歩歩きました。
何度も休憩…また休憩。
花を見ながら歩くと歩けるのが実感です。

道端の庚申塔…練馬北町

2013年12月24日 08時38分24秒 | 庚申塔
久しぶりに庚申塔に出合いました。
東武東上線東武練馬駅下車5分の道端にありました。



4基の石像が並んでいました。このうちの2基が庚申塔でした。

左から2番目のものです。
 
青面金剛像          三猿は言わざるしか残っていませんでした。
寛延3年(1750年)263年前の笠つき庚申塔でした。

右端のものも庚申塔です。
  
青面金剛像          三猿は言わざる、聞かざる、見ざる(上に2羽の酉)
正徳4年(1714年)299年前の笠つき庚申塔でした。

江戸時代初期、庚申塔には本尊とされる青面金剛と三猿が彫られることが多くなりました。
江戸中期から後期にかけては「庚申塔」「庚申」と文字のみ彫り付ける形式に変化していきました。
ですから、三猿が刻まれていると、嬉しくなります。
明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを撤去した。
また、その後の街道の拡張整備工事によって庚申塔のほとんどが撤去や移転されてしまいました。


隣りには正観世音菩薩堂がありました。

仁王門だと思います。
  
仁王像は背中の彫刻が読めず、制作年月日は不明です。

多くの地蔵尊は前垂れや帽子をかぶらされ、彫刻が見られなくなっています。
背面に制作年月や奉納者の氏名が刻まれています。
先日のピンコロ地蔵の左手にも帽子がかぶらされていました。
お地蔵さまは寒くないはずです。
ちょっと迷惑なおせっかいだと私は思っています。