みぃちゃんの頭の中はおもちゃ箱

略してみちゃばこ。泣いたり笑ったり

やさしさ強化週間

2012年07月21日 23時01分54秒 | お仕事・学び
「やさしい」って、どういうことだろう。
「温かい」って、どういうことだろう。

レッスン中には、講師から冷たいとかやさしさが足りないとかさんざん言われています。この壁を乗り越えるために、やさしさ追究のための素材を集めてきました。昨夜から研究をスタートしています。

次のレッスンまで、やさしさ強化週間です。

独自の研究を重ね、その成果をレッスンにぶつけて、講師の反応を見てみます。

次のレッスンがやさしさ不要の課題だったらどうしよう? レッスン前や後の時間に講師をつかまえようにも、最近は忙しいみたいで、レッスン時間以外は構ってくれないのです。それでも強引につかまえてみようかな。

講師は肝心なことを教えてくれない

2012年07月20日 23時08分06秒 | お仕事・学び
レッスン中に受けるダメ出しには、「突き放した感じがする」「冷たい」「やさしさがない」「気がない」など、素地からアウト、という感じのコメントがよく付きます。私は全力でやっているつもりですが、それでも及ばないようです。

そのとき、講師はどこをどう修正したらよいかを指摘してくれません。いいえ、指摘はしてくれるのですが、指摘が漠然としていて捉えどころがないのです。
「もっとやさしく」
「ここを大事に」

「やさしく」と言っても「やさしいとはどういうことか」が私には分かりません。その生徒に対して、手を変え品を変え説明してくれることもありません。聞き返しても似たような言葉で「温かく」と返ってきたり、しばらく「うーん」と言葉を探した後にまた「やさしく」という言葉が返ってきたりします。

この点が、レッスン中にもどかしいところです。私が指導者の立場であれば、もっと具体的なイメージを伝えます。例えば、「卵からかえったばかりのヒナを両手でそっと包んで目の前にいる人に渡すように」という感じで。そして、それで伝わらなければ、また別の言い方を考えます。

講師の頭の中にはきっと何らかのイメージがあるのでしょうが、それを伝える手段を見つけられないようです。と同時に、何とかして伝えようと手を尽くしてくれることもありません。文章を書くわけでもない普通の人なので、心の中にあるもやもやしたイメージを表現する訓練は積んでいないはずです。講師と同じ次元の視点を持たない限り講師の考えが伝わってこないのは当然のことでしょう。

しかし、私はこのレッスンを受け続けようと考えています。

講師から何かを教えてもらおうとするとこのようなレッスンから得るものは少ないでしょうが、学習の基本は自学自習です。レッスンはあくまで、自力で模索した結果を講師にぶつけ、その反応 (ダメ出しやコメントなど) を得る場です。得た反応から次の模索をしてまた講師にぶつける、ということを繰り返す道場だと考えれば、現状のレッスンで特に不都合はありません。講師が懇切丁寧に教えてくれるわけではない、というのは、独学派の私にはちょうどいいかも知れません。

まものが あらわれた!

2012年07月19日 23時07分16秒 | お仕事・学び
レッスン中には、容赦ないことを言われます。

全力でやっているつもりでも「突き放した感じがする」「冷たい」「やさしさがない」「気がない」と評価されることが多いです。

私としては頑張っているのですが、最低限の水準にも届かないようです。

そして、もうひとつ問題が。

突き放すとはどういう感覚なのか。冷たさとはどういう感覚なのか。やさしさとは何か。抽象的な言葉が並ぶだけで、理解ができません。意味を探ろうと手を伸ばしても指は空をつかむばかりで、足元に張られているはずの床さえも空気のかたまりのように頼りなく、やがて上下左右の感覚を失い、実体をなくした思考の残骸が着地点を見つけられないままいつまでも宙を漂い続け……

どうやらこの問題は、私という人間のかなり深いところまで根を張っているようです。

私は人間が嫌いで、人付き合いを最低限に (できればゼロに) 抑えたいと考えます。自分のことを誰かに分かってもらおうとする意思も希薄で、誰かに何かを伝えようとする意欲も弱いです。その反映か、このブログも情報提供や感じたことの記録がメインです。自分のことを書く場合でも、似たような状況にある人の参考になれば、と思って書いています。突き放した感じがすると言われるのも無理からぬことです。

人間には寿命がありますから、自分の心に根を張る魔物と向き合わなくても、その魔物が暴れ出さないように心の奥底に沈めたまま死を迎えることができれば、それもひとつの対処方法だと思っていました。

小さい頃に好きだったことを本格的に追究しようとスクールに通い始めましたが、魔物と真正面から向き合わされるとは、通い始めの頃は予想もしませんでした。

こんなところで魔物の存在を再認識させられるとは。

私の人生は、この時期に魔物と向き合うようにストーリーが組まれているのかも知れません。

まものが あらわれた!
どうしますか?

1. たたかう
2. じゅもん
3. どうぐ
4. にげる

Facebookで写真をチェック

2012年07月18日 23時51分11秒 | IT・デジタル
「Facebookで●●さんの写真をチェック」

心当たりのない件名のメールが届いていました。Facebookへの参加を招待するメールのようです。生まれて初めてFacebookへの招待メールを受け取りました。

どうやら、以前にメールアドレスを交換したものの縁が遠くなっていた人がFacebookにユーザー登録し、アドレス情報をFacebookに登録したのでしょう。そのアドレス情報の中に私のメールアドレスも含まれていたために招待メールが送られてきたと考えられます。

Facebookにはほかにも、複数のユーザーの連絡先リストの登録内容を照合して、互いに知り合いではないかと推測し、提案する機能も実装されています。このようにメールアドレスから人をたどっていく仕組みができていると、予想もしない人を媒介として、つながりたくない人とつながってしまうこともあるでしょう。

人に教えるメールアドレスにはよくよく注意を払わないといけないことが、今回の事例からもよく分かります。今回のメールアドレスは捨ててもよいアドレスだったので、たいした問題にはならないでしょう。

私は、メールアドレスを人に教えるときには、捨ててもよいアドレスを教えることにしています。親密になるに従って、捨てアドレスから常用アドレスに切り替えていきます。今後もその方針でいきます。

さて、Facebookに招待されたわけですが、SNSには興味がないので、Facebookに参加するつもりはありません。付き合いのある人であっても、関係が近い人もいれば遠い人もいます。Facebookのページではそのような人たちがみんな同じようにフラットに私とかかわることになります。結構うっとうしいですよ。

仕事上、どうしてもFacebookページが必要になったら、営業目的で参加します。

感情と体の連動

2012年07月17日 22時47分02秒 | 日常のあれこれ
テレビドラマが苦手です。

映画ならOKですが、実写のテレビドラマはどうしても拒絶してしまいます。

テレビドラマでは、登場人物がすぐに感情を高ぶらせてぶつかり合います。そんなささいなことで怒らなくてもいいのに、と思うところで怒り、相手につかみかかったり殴りかかったりします。

そのような感情のぶつけ合いになると、拒絶する気持ちが瞬時にわき上がります。なぜ拒絶したくなるのか分かりませんが、しりぞけたくなります。

ただし映画の場合は、感情の爆発があっても拒絶する気持ちが起きにくいです。テレビ放送であっても、アニメの場合も拒絶する気持ちが起きにくいです。

拒絶と関係するかどうか分かりませんが、映画とテレビドラマの違いにひとつ気づきました。

感情と体が連動しているかどうか、です。

今まで私が見てきた映画では、感情と体が連動していました。怒っているときには体に力がみなぎり、悲しんでいるときには体から力が抜けています。

それに対してテレビドラマの場合は、感情をあらわにしていても、感情と体が連動していない (怒っているのに体に力が入っているように見えない) ので、ケンカの場面であっても相手を殴っているようには見えませんし、殴られていないはずの相手が勝手に飛んで倒れます。互いに両腕で組み合っても取っ組み合いには見えず、一緒によろよろよろと数歩よろめいて「せーの」で仲よく寝転びます。紙相撲 (ずもう) よりひどいです。紙相撲なら、ちゃんと組み合って相手に体重がかかった上で倒すのですが、テレビドラマでは力が見えません。

どうしてテレビドラマは感情と体が連動しないのでしょうか。この不連動は何かに応用できないでしょうか。