この日「自転車競技法」なる法律が施行されている。
各県ごと(一箇所)に”競輪場”が整備された。
娯楽であった自転車競技が戦後復興財源として”国家”挙げてのギャンブルの対象となったのである。
幼かった時、何処かの”おじさん”が「警察に守られて(公認で)賭け事が出来る」と云っていたことを思い出される。
そして、悲喜交々の物語が語られる事に成る。
私は、この事によって”助かった=負担が無くなった”と幼き過去を振り返る。
私が誕生する12年前、父は「鹿児島から大阪間1000余Kmに及ぶ自転車ロードレース」に出場している。
娯楽としての自転車競技は戦前・戦後を通じて盛んであった様である。
大きな大会となると新聞社主催であったり、地方の興行主が主催していた様である。
主催者と思われる新聞社の名の入った優勝旗を持った父の写真は幾つかある。
父のファンと言う、有名な女優さんから”ユニフォーム”を贈られた事もあったと、母が言っていたことも思い出される。
当時の競技場は、グランドであったり、ロードであったようである。
この様な父の影響を受けたのか、気が付けば私も自転車に乗って着順を競う競技に参加していた。
強要された思い出はない。自然の成り行きであったのかも知れない。
青年の部・少年の部・幼年の部とランク別されていた。
そして、競技場はロードはなく、グラウンドであった。
私は、小学校入学までの「幼年の部」であった。
兄は、少年の部で真剣に競技していた”姿勢”を今も思い出される。
兄は、強かった。
父のDNA(自転車競技に関する)は兄が引き継いだのかも知れない。
私は、三輪車なる遊具=乗り物で遊んだ思い出が無い。
3歳位には自転車に乗っていた様である。
昭和20年位で、子供用の自転車等は一般的に流通していなかった。
父の手造りである。
フレームを構成するフランジ等は”部品”として販売されていた様である。
しかし、私のは、フレームも小さく、フランジ(フレームの力の架かる処は二重に成っていた)等は無く、ガス溶接で直結されたものであった。
フレームのヘッドチューブやクランク受け等の構造物は大人用のフレームを転用されていた。
ブレーキはない。
前・後輪、フレーム、ハンドル、クランク・ペダルとチェーン、及びサドルで成り立つ極めてシンプルな自転車(「軟弱?(2014.7.26)」の写真)であった。
後輪とクランク・ペダルはチェーンで直結されていて、減速や停止しようとするとペダルに後ろ向きの負荷をかけなければならなかった。
停車させるにも”技術”が必要であったのである。
そして、下り坂では、ペダルが強制的に回転するから、忙しく足を回転させていた姿は”滑稽”と思えるものであった。
フリー・ホイールを発明した人は”偉い!”
乗り始めた当初は、ペダルの操作で減速や停止させる技術は無かった。
そして、一人では乗ることも出来なかった。
父(若しくは誰かに)に支えてもらってスタートする。
一周、約1Kmの周回道があって、一周回って家に帰る。
家に近づくと「帰ったよ!」と大声を発する。
父が仕事の手を休めて、支えてくれて一連の動作が完了する。
大声を出したにも関わらず、父が出てくれなければ転倒して、泣いていたと聞かされている。
この様な私が、当時の娯楽であった「自転車競技」に出る様になった経緯については記憶はない。
しかし、大勢の観衆のなか”力走”した思い出は、写真と伴にある。
普段着のままでの競技で、当時の様子が伺える。
そして、昭和23年8月1日までの間の、少なくても二年間程は”自転車競走選手”としての過去がある。
自転車競技が当時の”最大の娯楽”?であったという点について裏付ける記憶がある。
中学生の時、体育の先生が「この中学校の運動場を拡幅したのは自転車競技をするためで、当時は野球より人気があった」と語ったことである。
確かに、この中学校の広いグランドでの自転車競走に、出場したことを覚えている。
そして、水田であった用地に、隣接する山の土で整地するためのトロッコが軌道と伴に存在していた記憶が鮮明にある。
造成は、自転車競技をこよなく愛する「ファン」が中心となった”勤労奉仕”であったことも、後日談で判明している。
各県ごと(一箇所)に”競輪場”が整備された。
娯楽であった自転車競技が戦後復興財源として”国家”挙げてのギャンブルの対象となったのである。
幼かった時、何処かの”おじさん”が「警察に守られて(公認で)賭け事が出来る」と云っていたことを思い出される。
そして、悲喜交々の物語が語られる事に成る。
私は、この事によって”助かった=負担が無くなった”と幼き過去を振り返る。
私が誕生する12年前、父は「鹿児島から大阪間1000余Kmに及ぶ自転車ロードレース」に出場している。
娯楽としての自転車競技は戦前・戦後を通じて盛んであった様である。
大きな大会となると新聞社主催であったり、地方の興行主が主催していた様である。
主催者と思われる新聞社の名の入った優勝旗を持った父の写真は幾つかある。
父のファンと言う、有名な女優さんから”ユニフォーム”を贈られた事もあったと、母が言っていたことも思い出される。
当時の競技場は、グランドであったり、ロードであったようである。
この様な父の影響を受けたのか、気が付けば私も自転車に乗って着順を競う競技に参加していた。
強要された思い出はない。自然の成り行きであったのかも知れない。
青年の部・少年の部・幼年の部とランク別されていた。
そして、競技場はロードはなく、グラウンドであった。
私は、小学校入学までの「幼年の部」であった。
兄は、少年の部で真剣に競技していた”姿勢”を今も思い出される。
兄は、強かった。
父のDNA(自転車競技に関する)は兄が引き継いだのかも知れない。
私は、三輪車なる遊具=乗り物で遊んだ思い出が無い。
3歳位には自転車に乗っていた様である。
昭和20年位で、子供用の自転車等は一般的に流通していなかった。
父の手造りである。
フレームを構成するフランジ等は”部品”として販売されていた様である。
しかし、私のは、フレームも小さく、フランジ(フレームの力の架かる処は二重に成っていた)等は無く、ガス溶接で直結されたものであった。
フレームのヘッドチューブやクランク受け等の構造物は大人用のフレームを転用されていた。
ブレーキはない。
前・後輪、フレーム、ハンドル、クランク・ペダルとチェーン、及びサドルで成り立つ極めてシンプルな自転車(「軟弱?(2014.7.26)」の写真)であった。
後輪とクランク・ペダルはチェーンで直結されていて、減速や停止しようとするとペダルに後ろ向きの負荷をかけなければならなかった。
停車させるにも”技術”が必要であったのである。
そして、下り坂では、ペダルが強制的に回転するから、忙しく足を回転させていた姿は”滑稽”と思えるものであった。
フリー・ホイールを発明した人は”偉い!”
乗り始めた当初は、ペダルの操作で減速や停止させる技術は無かった。
そして、一人では乗ることも出来なかった。
父(若しくは誰かに)に支えてもらってスタートする。
一周、約1Kmの周回道があって、一周回って家に帰る。
家に近づくと「帰ったよ!」と大声を発する。
父が仕事の手を休めて、支えてくれて一連の動作が完了する。
大声を出したにも関わらず、父が出てくれなければ転倒して、泣いていたと聞かされている。
この様な私が、当時の娯楽であった「自転車競技」に出る様になった経緯については記憶はない。
しかし、大勢の観衆のなか”力走”した思い出は、写真と伴にある。
普段着のままでの競技で、当時の様子が伺える。
そして、昭和23年8月1日までの間の、少なくても二年間程は”自転車競走選手”としての過去がある。
自転車競技が当時の”最大の娯楽”?であったという点について裏付ける記憶がある。
中学生の時、体育の先生が「この中学校の運動場を拡幅したのは自転車競技をするためで、当時は野球より人気があった」と語ったことである。
確かに、この中学校の広いグランドでの自転車競走に、出場したことを覚えている。
そして、水田であった用地に、隣接する山の土で整地するためのトロッコが軌道と伴に存在していた記憶が鮮明にある。
造成は、自転車競技をこよなく愛する「ファン」が中心となった”勤労奉仕”であったことも、後日談で判明している。