ふくちゃんの絵日記

バイク等での旅行記や、日常生活で感じたことを、絵(写真)に描けるものは描き(添付)絵日記風にしたいと思います。

☆私と自転車競技 Part2 幼年自転車競技選手

2014年10月06日 | 日記
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 今日の絵日記の一枚の絵(写真)は、自転車競技に出場した記念の写真である。
 私は6歳、兄が11歳である。
 私は幼年レース、兄は少年レースへの参戦予定であった。
 この写真を観て”変!”と思われると思う。
 兄弟で”優勝”と紛う記念の写真であるが、兄は優勝を果たし、優勝旗・賞状を獲得している。
 何故に私は、優勝旗だけ!?
 この日、幼年レースに出場出来た(出場した)のは、私だけであったのである。
 兄と同じ少年レースに、半周前からのスタートではあったが、一周を回る頃には追越されていた。
 ユニホームを着て、準備は出来ていたとしても、この様な配慮(参加させてあげよう!的な)は無しにしてもらいたいものである。
 結果は、最下位でゴールした。
 従って、幼年レースとしては正規な競技として確立しなかったため”御褒美”で頂いた”優勝旗”である。
 幼年レースへの出場者は常に2~3人で、試合として成立しなかった事も多かった。
 兄は期待される選手であり、父は競技会役員として事あるごとに参加していた。
 他の幼年レースの選手とは、少しばかり環境が異なっていた。
 私の意志に関わり無く、競技会には出場していた=出場させられていたことである。
 
 追記:この写真の出処の詳細は不明であるが、新聞記者から頂いたモノと言う情報が有力であるようだ。
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☆写真と私

2014年10月06日 | 日記
 9月末、友人宅に友人の兄弟と伴に参集する機会を得て、酒宴を催して頂いた。
 その時に「ふくちゃんは幼き頃の写真が多い!」という話題になった。
 小学校に入学するまでを”幼き頃”とするならば10枚位の写真があって、当時を偲ぶことができる。
 友人、そして(五歳年下の)弟さんが口を揃えて「兄貴の誕生写真はあっても我々のはない!」と言う。
 「写真で幼き頃を思い出すことはない」と云うのである。
 思い起こせば、私の育った環境も”写真で思い出を!”というものでなかった。
 父がカメラを構えて被写体として、私達を捉えた記憶はない。
 我家にはカメラは無かったし、写真撮影できる余裕は無かったと理解している。
 少なくとも兄が自立し、カメラを所有するまでは・・・!
 幼き頃の私を撮影できたのは、祖父の弟さんであったと思う。
 祖父は私が小学校の三年生の時に他界した。
 伯父さんは、御先祖を含め、墓参り等の帰省で、年に数度のお泊りがあった。
 当時としては”ハイカラ”な伯父さんでバイク(陸王)で来たり、水上飛行機便しかなかった時代にあって飛行機で来たり、話題性の多い”叔父さん”であった。
 それと、私が被写体の写真は”自転車競技”に関するものが多いことから、撮影された環境によるものであったと思うのである。
 何はともあれ、戦後の混乱期にあって、撮影して頂いた人、そして、それを大切に保存してもらった母に感謝したい。
 ”自分史”を正確性をもって語れるのは「写真」という歴然とした当時の姿が確認出来るものがあって成し遂げられると思うからである。 時間の経過とともに、兄がカメラを所有した(私が中学生)頃から、私自身の写真は俄然、多くなっている。
 兄は自立後、ブロニーのカメラ(ミノルタ製・二眼レフ・カメラ)を所有し、撮影したものを、現像に出し、ネガから木製の印画機で焼付けをして楽しんでいた。
 兄が居ない時は、カメラはある・印画紙に焼き付ける器具は揃っている。
 カメラ・写真に目覚める環境であったと思う。
 因みに、私が社会人になって、始めての大きな買物は”カメラ”であった。
 当時、ペンタックスに代表される”一眼レフ”全盛期であったと思う。
 何故か私は、ミノルタ製の一眼レフ・カメラを選んでいた。

 蛇足:カラー写真が高価であった時代、白黒写真に彩色を施す”絵の具”があった。
 何度、塗り重ねても”濃く・鮮明なカラー写真”とは成り得なかった。
 しかし、当時は、この様な手を加える事で喜んでもらったことを思い出す。
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