その昔、リンドバークという人物伝について、聞いたことがある。
アメリカの飛行(冒険)家、という程度の知識しか持ち合わせていない。
そして、リンドバークと言えば、自伝の映画化とされる「翼よ、あれが巴里の灯だ」を思い出す人も居ると思う。
先の日記「古き記録 西日本サイクル・チーム・レースの結末」の資料(当時の新聞記事)を調べていると興味ある記事を見つけた。
「リ大佐夫妻 第一目的地 着陸か」という表題の記事である。
以下は、記事の内容である。
リンドバーク大佐夫妻は1日9時45分オッタワを出発したがその後何度の消息ないが、恐らく既に1日、目的地たるハドソン湾南端のムースフアクトリに無事着水したものであろうと見られる。
というものである。(注:新聞記事には「オッタワ」との記述であるが、カナダの首都と理解している)
私は、リンドバーク氏と、日本とは関わりは無いと思っていた。
しかし、何で新聞記事になったのだろう? 疑問がうまれた。
調べた結果、以下の”歴史”を突き止めた。
「リンドバーク夫妻は1931年、北太平洋航路調査のため、ニューヨークを飛び立ち、カナダからアラスカ州を経て、中国までロッキード社製の水上機で飛行した」と言うものである。
経由地として、当時の日本が大きく関わっていることも分った。
「(1931年)8月23日:国後島 8月24日:根室市 8月26日:霞ヶ浦、その後、大阪・福岡を経て中国の南京・漢口まで飛行した」と言うものである。
ただ、新聞記事の日付は、昭和6年(1931年)8月3日で、日本の「国後島」まで20日間を要していることに疑問はのこる。
父への思い出である「西日本サイクル・チーム・レース」の結末を日記にしたことで、この記事を見つけた。
そして、伝記での人物が実在した証しを、リアルタイムに報じている新聞記事を、現在に至って観ている。
時間の経過の不思議さを感じるのである。
なお、このリンドバーク氏に関する記事は、西日本サイクル・チームレースのゴール模様を報じる写真の裏面にあった。
アメリカの飛行(冒険)家、という程度の知識しか持ち合わせていない。
そして、リンドバークと言えば、自伝の映画化とされる「翼よ、あれが巴里の灯だ」を思い出す人も居ると思う。
先の日記「古き記録 西日本サイクル・チーム・レースの結末」の資料(当時の新聞記事)を調べていると興味ある記事を見つけた。
「リ大佐夫妻 第一目的地 着陸か」という表題の記事である。
以下は、記事の内容である。
リンドバーク大佐夫妻は1日9時45分オッタワを出発したがその後何度の消息ないが、恐らく既に1日、目的地たるハドソン湾南端のムースフアクトリに無事着水したものであろうと見られる。
というものである。(注:新聞記事には「オッタワ」との記述であるが、カナダの首都と理解している)
私は、リンドバーク氏と、日本とは関わりは無いと思っていた。
しかし、何で新聞記事になったのだろう? 疑問がうまれた。
調べた結果、以下の”歴史”を突き止めた。
「リンドバーク夫妻は1931年、北太平洋航路調査のため、ニューヨークを飛び立ち、カナダからアラスカ州を経て、中国までロッキード社製の水上機で飛行した」と言うものである。
経由地として、当時の日本が大きく関わっていることも分った。
「(1931年)8月23日:国後島 8月24日:根室市 8月26日:霞ヶ浦、その後、大阪・福岡を経て中国の南京・漢口まで飛行した」と言うものである。
ただ、新聞記事の日付は、昭和6年(1931年)8月3日で、日本の「国後島」まで20日間を要していることに疑問はのこる。
父への思い出である「西日本サイクル・チーム・レース」の結末を日記にしたことで、この記事を見つけた。
そして、伝記での人物が実在した証しを、リアルタイムに報じている新聞記事を、現在に至って観ている。
時間の経過の不思議さを感じるのである。
なお、このリンドバーク氏に関する記事は、西日本サイクル・チームレースのゴール模様を報じる写真の裏面にあった。