ふくちゃんの絵日記

バイク等での旅行記や、日常生活で感じたことを、絵(写真)に描けるものは描き(添付)絵日記風にしたいと思います。

☆自転車競技を嫌った時期 =連記 最終話=

2014年10月14日 | 日記
 私が六歳位であったろうか?
 実家より、それ程遠くない距離にあったグランドで、自転車競技会があった。
 私が出場する予定の幼年レースは、昼休みを挟んで午後の最初であった。
 「(走るの)嫌やなぁ!!」と思っていた。
 この時期、走る楽しみもなく、出来る事なら”棄権”したいと思う様になっていた。
 棄権する口実はないかと、無い知恵を廻らせた。
 この日、開催されたグランドは、広大な埋立て地のなかにあった。
 広大な一角ではあるが、足を伸ばせば海で、防波堤がある立地であった。
 防波堤に向って歩いていると、男女がボートに乗っているのが観えた。
 この時、勇気を出したんだ!と今になっても、自分自身で感心している。
 「〇〇、載せて!」
 〇〇をおじさんだか、どの様な声かけをしたのかについての記憶はない。
 ”お楽しみ中のお二人さん”ではあったが、載せてくれたのである。
  蛇足:お楽しみ中であったかどうかは、当時としては、分からない。大人となって思うに”お楽しみ中”ではなかったかなぁ?と・・
 始めて載るボート(貸しボート)であった。
 舳先に載せられた。
 私が艫では、オールを操作する男性とお見合いの格好になってしまう。
 それは不味かろう!!
 艫であろうが舳先であろうが、載る場所などどうでも良かった。
 「しめしめ、これで出なくても良いぞ!」と思っていると、一人の女性が此方に向って歩いて来る。
 もっと沖に出ようよ!と心で叫んだが、時既に遅しであった。
 姉であった。 ああ無情!
 「なんしょんで! 始まるでょ!」シッカリと声の聞こえる距離であった。
 姉は、父に指示されて探しに来た様であった。
 この(棄権したくてボートに載った)こと意外は、何位でゴールしたか等、全く記憶にない。
 そして、此れ以降、自転車競技に関する記憶が無いのである。
 時あたかも、昭和23年8月1日・自転車競技法が成立し、昭和25年には各県一箇所(特例もあった様であるが・・)の所謂”競輪場”が整備されていった。
 そして、幼年レースとか少年レースと云った枠組みでなく、プロとアマの競技という枠組みとなった。
 ただし、プロになるためには、伊豆半島にある”競輪学校”に入学し、卒業することが条件となった。
 ヨーロッパ等のロード・レースと異なり、整備された走路(競輪場)で競技する”競輪”は”ケイリン”として世界語にも成っているのである。
 そして、先の絵日記「昭和23年8月1日 =連記 その1=(2014,10.05)」で記述した「私は、この事によって”助かった=負担が無くなった”と幼き過去を振り返る」につながるのである。
 時は流れ、此れより10年程経った、高校入学の時、母から一冊の郵便預金通帳が手渡された。
 略、決まった金額が数ページにわたって、記されたものであった。
 私が、幼年レースに出場した時の「報奨金・賞金・(出場の)お礼金(のどれか)」を預金されたものであった。
 出場に伴って、頂いていた”お金”の名目(〇等賞等)ついては知らされていない。
 母は、私が高校生になったら”引き継ごう”と思っていた様であった。
 自転車競技の思い出とともに、熱いものがこみ上げてきた事を、今も思い出される。
コメント

☆ツバメの思い出 =連記 その5=

2014年10月14日 | 日記
 昭和22・23年頃の事である。
 何処であったか、場所は忘れた。
 自転車競技の遠征先での思い出である。
 この日は、宿泊所(旅館?)で目覚める。
 宿泊所の前(路上)で、選手や同行した競技役員達が、競技用の自転車を組立てたり、整備をしている。
 私の自転車は小さかったこともあり、そのまま”手荷物”で持ち込めた様であった。
 私たちのグループは、10人程であったと、記憶している。
 私は、異様な気配を感じて、空を見上げた。
 電線に、驚く程の数のツバメがいた。
 今まで、観たことの無い光景であった。
 父から「南の国に帰るのだ!」と言う様な説明を受けた。

 近年、ツバメが減少している様である。
 私の思いや・知識が間違っているのかも知れないが、昭和40年代まで使われていた”農薬”による影響ではないだろうか?と、思うのである。
 水田に小さな看板(表札)が立てられていると、稲や水に触れてはいけないと教えられていた。



 現在に至っても、ゲンゴロウやミズスマシ・アメンボウ等の水生昆虫、蛍・トンボ等の昆虫類、そして、キギン(アカザ?)やナマズ・ドジョウといった淡水魚を見かけなくなっている。
 このうち、水質の改善でトンボが復活してきている様で、連鎖的に蛍も復調の兆しが見られるようである。
 ツバメの話にもどして、日本の風情として”ツバメは益鳥”として慈しみ、ツバメが出入りする家は”繁栄のシンボル”とされ大切にされていた。
 天敵の危険もない、屋内の鴨居等に巣造りをし、子育てが終わった後も、家人は「来年もおいで!」と大切に残していた。
 しかし、農薬によって餌となる”ムシ”類が少なくなったこと。
 価値観の違いからか”巣”を取り壊したり、夏であっても戸を閉め切る人間の生活スタイルの変化が、ツバメの生活環境を変えてしまったのだろうか?
 そして”越冬ツバメ”の如く、日本に遠路、渡って行かなくても南国で子育てしよう!とツバメは考えをかえたのであろうか!?
 日本が住み難くなったと思われれば、何千キロもの距離を命を掛けて、渡ってくる事もなくなる。
 来ることが無くなれば、帰ることも無くなる。
 幼き頃に「南の国に渡って行く・・・」と言う父の教えから、集団で行動するものと思っていた。
 しかし、ツバメは単独で飛行する事が分った。
 そして、巣立ちをむかえば、川岸等の葦(昔は良く見かけた)等の草むらで集団で生活する習性があること等も学んだ。
 確かに、川岸に多く見られた”萱や葦”の群生する姿は、今はない。
 ツバメにも倦厭される”日本”・・・・なのだろうか?
 寂しい気持ちにさせられた思い出である。

コメント