私が六歳位であったろうか?
実家より、それ程遠くない距離にあったグランドで、自転車競技会があった。
私が出場する予定の幼年レースは、昼休みを挟んで午後の最初であった。
「(走るの)嫌やなぁ!!」と思っていた。
この時期、走る楽しみもなく、出来る事なら”棄権”したいと思う様になっていた。
棄権する口実はないかと、無い知恵を廻らせた。
この日、開催されたグランドは、広大な埋立て地のなかにあった。
広大な一角ではあるが、足を伸ばせば海で、防波堤がある立地であった。
防波堤に向って歩いていると、男女がボートに乗っているのが観えた。
この時、勇気を出したんだ!と今になっても、自分自身で感心している。
「〇〇、載せて!」
〇〇をおじさんだか、どの様な声かけをしたのかについての記憶はない。
”お楽しみ中のお二人さん”ではあったが、載せてくれたのである。
蛇足:お楽しみ中であったかどうかは、当時としては、分からない。大人となって思うに”お楽しみ中”ではなかったかなぁ?と・・
始めて載るボート(貸しボート)であった。
舳先に載せられた。
私が艫では、オールを操作する男性とお見合いの格好になってしまう。
それは不味かろう!!
艫であろうが舳先であろうが、載る場所などどうでも良かった。
「しめしめ、これで出なくても良いぞ!」と思っていると、一人の女性が此方に向って歩いて来る。
もっと沖に出ようよ!と心で叫んだが、時既に遅しであった。
姉であった。 ああ無情!
「なんしょんで! 始まるでょ!」シッカリと声の聞こえる距離であった。
姉は、父に指示されて探しに来た様であった。
この(棄権したくてボートに載った)こと意外は、何位でゴールしたか等、全く記憶にない。
そして、此れ以降、自転車競技に関する記憶が無いのである。
時あたかも、昭和23年8月1日・自転車競技法が成立し、昭和25年には各県一箇所(特例もあった様であるが・・)の所謂”競輪場”が整備されていった。
そして、幼年レースとか少年レースと云った枠組みでなく、プロとアマの競技という枠組みとなった。
ただし、プロになるためには、伊豆半島にある”競輪学校”に入学し、卒業することが条件となった。
ヨーロッパ等のロード・レースと異なり、整備された走路(競輪場)で競技する”競輪”は”ケイリン”として世界語にも成っているのである。
そして、先の絵日記「昭和23年8月1日 =連記 その1=(2014,10.05)」で記述した「私は、この事によって”助かった=負担が無くなった”と幼き過去を振り返る」につながるのである。
時は流れ、此れより10年程経った、高校入学の時、母から一冊の郵便預金通帳が手渡された。
略、決まった金額が数ページにわたって、記されたものであった。
私が、幼年レースに出場した時の「報奨金・賞金・(出場の)お礼金(のどれか)」を預金されたものであった。
出場に伴って、頂いていた”お金”の名目(〇等賞等)ついては知らされていない。
母は、私が高校生になったら”引き継ごう”と思っていた様であった。
自転車競技の思い出とともに、熱いものがこみ上げてきた事を、今も思い出される。
実家より、それ程遠くない距離にあったグランドで、自転車競技会があった。
私が出場する予定の幼年レースは、昼休みを挟んで午後の最初であった。
「(走るの)嫌やなぁ!!」と思っていた。
この時期、走る楽しみもなく、出来る事なら”棄権”したいと思う様になっていた。
棄権する口実はないかと、無い知恵を廻らせた。
この日、開催されたグランドは、広大な埋立て地のなかにあった。
広大な一角ではあるが、足を伸ばせば海で、防波堤がある立地であった。
防波堤に向って歩いていると、男女がボートに乗っているのが観えた。
この時、勇気を出したんだ!と今になっても、自分自身で感心している。
「〇〇、載せて!」
〇〇をおじさんだか、どの様な声かけをしたのかについての記憶はない。
”お楽しみ中のお二人さん”ではあったが、載せてくれたのである。
蛇足:お楽しみ中であったかどうかは、当時としては、分からない。大人となって思うに”お楽しみ中”ではなかったかなぁ?と・・
始めて載るボート(貸しボート)であった。
舳先に載せられた。
私が艫では、オールを操作する男性とお見合いの格好になってしまう。
それは不味かろう!!
艫であろうが舳先であろうが、載る場所などどうでも良かった。
「しめしめ、これで出なくても良いぞ!」と思っていると、一人の女性が此方に向って歩いて来る。
もっと沖に出ようよ!と心で叫んだが、時既に遅しであった。
姉であった。 ああ無情!
「なんしょんで! 始まるでょ!」シッカリと声の聞こえる距離であった。
姉は、父に指示されて探しに来た様であった。
この(棄権したくてボートに載った)こと意外は、何位でゴールしたか等、全く記憶にない。
そして、此れ以降、自転車競技に関する記憶が無いのである。
時あたかも、昭和23年8月1日・自転車競技法が成立し、昭和25年には各県一箇所(特例もあった様であるが・・)の所謂”競輪場”が整備されていった。
そして、幼年レースとか少年レースと云った枠組みでなく、プロとアマの競技という枠組みとなった。
ただし、プロになるためには、伊豆半島にある”競輪学校”に入学し、卒業することが条件となった。
ヨーロッパ等のロード・レースと異なり、整備された走路(競輪場)で競技する”競輪”は”ケイリン”として世界語にも成っているのである。
そして、先の絵日記「昭和23年8月1日 =連記 その1=(2014,10.05)」で記述した「私は、この事によって”助かった=負担が無くなった”と幼き過去を振り返る」につながるのである。
時は流れ、此れより10年程経った、高校入学の時、母から一冊の郵便預金通帳が手渡された。
略、決まった金額が数ページにわたって、記されたものであった。
私が、幼年レースに出場した時の「報奨金・賞金・(出場の)お礼金(のどれか)」を預金されたものであった。
出場に伴って、頂いていた”お金”の名目(〇等賞等)ついては知らされていない。
母は、私が高校生になったら”引き継ごう”と思っていた様であった。
自転車競技の思い出とともに、熱いものがこみ上げてきた事を、今も思い出される。