「幼き頃の想い出 PotⅡ」を書くに至って”ラジオ”についての思いが込みあがっている。
思い起こせば、ラジオと言う”道具”を意識したのは何時だろう?
NHKのラジオ番組であった「新諸国物語」に興味を抱き、聴取する事に熱中した時期もあった。
ラジオは、聴きたいとの思い(物語(新諸国物語))を届けてくれるモノ(道具=ラジオ)と言う程度の認識であったろうか・・?
加えて、夏休み中の”ラジオ体操”が(ラジオと言うメディアで)全国一斉に進行していることを知る事になるのには、もう少し時間の経過が必要となる。
即ち”一斉放送”としてのラジオと言う、機能を知る必要があった。
余談ながら、夏休み前の最後の授業には「ラジオ体操出席帳(?)」が手渡(配布)された。
牛乳メーカーの宣伝(?)が裏面に印刷されたモノであった。
持ち帰ったら、母か姉が、毛糸で首からぶら下げる様に、細工を施していた記憶がある。
それは「毎日・出席しろ!頑張れ!!」と言う、暗黙の”威圧”を感じていた。
そして、毎朝・ラジオ体操に参加した証拠の”印”を貰って帰宅するのである。
夏休みのある日、親類で祝い事があり、母に連れられ私も、出席した。
朝、母が「ラジオ体操が始まるよ!」と教えられ、参加した。
椅子の上にラジオがあり、其処から聴き慣れた声で、ラジオ体操が始まった。
そして、参加の”証し”をもらって母の元に帰った。
自宅では、塀を隔てた向こう側が、小学校のグランドで、拡声器(スピーカー)からの、音声であったり、演奏であった。
音源が”ラジオであるとは気付かなかった。
また、祖母は、歌を唄う事が好きであった。
小学校の講堂で、ラジオ放送局(地元・民放局)が催した”のど自慢的”な、公開録音があった。
スポンサーは、農機具メーカーのヤンマーであったと記憶している。
自薦・他薦かは、知らないが、祖母は、出場していた。
後日、放送されたと言う話しは聞いたが、ラジオからの祖母の歌声を聴いた記憶はない。
ラジオ放送と言うものを意識し始めたことであった。
当時の大人達が言う、放送局・空間・電波・受信機(ラジオ)の”カラクリ”が知りたいと!
私が、ラジオと言う”正体”に直接触れる事になるのは、小学生の3~4年生であっただろうか?
以前に日記にした”船を漕ぐ櫓の操作(日記「小さな願い (2014.12.21)」)”を経験した夏休みである。
従兄弟の叔父(?)に当たる会社員の人が(従兄弟宅に)下宿していた。
この人が帰宅すると、会話をもとめ、部屋を訪ねていた。
そして、滞在中に得た情報(知識)は”ラジオは造れる”と言う事であった。
”手品を観る”様な想いであった事が思い出される。
スパイラルコイル(今の知識で)を巻き、見た事もない電気ハンダコテ(注)で組立てた。
所謂”鉱石ラジオ”であった。
この鉱石ラジオは、記念に頂いて帰る事になったが、聴く為には「レシーバー」が必要である。
従兄弟の叔父が所有する”両耳式マグネチック・レシーバー”は高額だった様で、頂けたのは、ラジオ本体であった。
両耳に装着する、黒くてメカニックな形状が堪らなく”格好良かった”
叔母が、私に付き添って帰宅させる際に、駅の近くの電気店で”クリスタル・レシーバー”を買い与えてくれた。
叔母には申し訳ないが、少しガッカリした。
この経験が、私と”ラジオ=電波・無線通信”を結びつける結果になったと、思う。
・
注:ハンダ付けと云えば、父の真似事で体験した、コテを炭で熱して、鉛と希塩酸で接合する”コテ”しか知らなかった。
そして、クリスタル・レシーバーや両耳式マグネチック・レシーバー等の知識は当時(*)は無かった。
(*:この項、21日加筆)
当時(小学生の頃)の形状の記憶から、両耳式のレシーバーは「マグチック・レシーバー」
そして、叔母が買い与えてくれた、乳白色の耳孔に装着するモノは「クリスタル・レシーバー」であったと思っている。
思い起こせば、ラジオと言う”道具”を意識したのは何時だろう?
NHKのラジオ番組であった「新諸国物語」に興味を抱き、聴取する事に熱中した時期もあった。
ラジオは、聴きたいとの思い(物語(新諸国物語))を届けてくれるモノ(道具=ラジオ)と言う程度の認識であったろうか・・?
加えて、夏休み中の”ラジオ体操”が(ラジオと言うメディアで)全国一斉に進行していることを知る事になるのには、もう少し時間の経過が必要となる。
即ち”一斉放送”としてのラジオと言う、機能を知る必要があった。
余談ながら、夏休み前の最後の授業には「ラジオ体操出席帳(?)」が手渡(配布)された。
牛乳メーカーの宣伝(?)が裏面に印刷されたモノであった。
持ち帰ったら、母か姉が、毛糸で首からぶら下げる様に、細工を施していた記憶がある。
それは「毎日・出席しろ!頑張れ!!」と言う、暗黙の”威圧”を感じていた。
そして、毎朝・ラジオ体操に参加した証拠の”印”を貰って帰宅するのである。
夏休みのある日、親類で祝い事があり、母に連れられ私も、出席した。
朝、母が「ラジオ体操が始まるよ!」と教えられ、参加した。
椅子の上にラジオがあり、其処から聴き慣れた声で、ラジオ体操が始まった。
そして、参加の”証し”をもらって母の元に帰った。
自宅では、塀を隔てた向こう側が、小学校のグランドで、拡声器(スピーカー)からの、音声であったり、演奏であった。
音源が”ラジオであるとは気付かなかった。
また、祖母は、歌を唄う事が好きであった。
小学校の講堂で、ラジオ放送局(地元・民放局)が催した”のど自慢的”な、公開録音があった。
スポンサーは、農機具メーカーのヤンマーであったと記憶している。
自薦・他薦かは、知らないが、祖母は、出場していた。
後日、放送されたと言う話しは聞いたが、ラジオからの祖母の歌声を聴いた記憶はない。
ラジオ放送と言うものを意識し始めたことであった。
当時の大人達が言う、放送局・空間・電波・受信機(ラジオ)の”カラクリ”が知りたいと!
私が、ラジオと言う”正体”に直接触れる事になるのは、小学生の3~4年生であっただろうか?
以前に日記にした”船を漕ぐ櫓の操作(日記「小さな願い (2014.12.21)」)”を経験した夏休みである。
従兄弟の叔父(?)に当たる会社員の人が(従兄弟宅に)下宿していた。
この人が帰宅すると、会話をもとめ、部屋を訪ねていた。
そして、滞在中に得た情報(知識)は”ラジオは造れる”と言う事であった。
”手品を観る”様な想いであった事が思い出される。
スパイラルコイル(今の知識で)を巻き、見た事もない電気ハンダコテ(注)で組立てた。
所謂”鉱石ラジオ”であった。
この鉱石ラジオは、記念に頂いて帰る事になったが、聴く為には「レシーバー」が必要である。
従兄弟の叔父が所有する”両耳式マグネチック・レシーバー”は高額だった様で、頂けたのは、ラジオ本体であった。
両耳に装着する、黒くてメカニックな形状が堪らなく”格好良かった”
叔母が、私に付き添って帰宅させる際に、駅の近くの電気店で”クリスタル・レシーバー”を買い与えてくれた。
叔母には申し訳ないが、少しガッカリした。
この経験が、私と”ラジオ=電波・無線通信”を結びつける結果になったと、思う。
・
注:ハンダ付けと云えば、父の真似事で体験した、コテを炭で熱して、鉛と希塩酸で接合する”コテ”しか知らなかった。
そして、クリスタル・レシーバーや両耳式マグネチック・レシーバー等の知識は当時(*)は無かった。
(*:この項、21日加筆)
当時(小学生の頃)の形状の記憶から、両耳式のレシーバーは「マグチック・レシーバー」
そして、叔母が買い与えてくれた、乳白色の耳孔に装着するモノは「クリスタル・レシーバー」であったと思っている。