ふくちゃんの絵日記

バイク等での旅行記や、日常生活で感じたことを、絵(写真)に描けるものは描き(添付)絵日記風にしたいと思います。

☆我輩は、ふくちゃんチの犬くんである  Part2

2014年10月12日 | 日記
 早いもので、前回「我輩は、ふくちゃんチ・・・」の日記を書いてもらって一ヶ月と成りましたよ!
 一ヶ月を経過したことから今日も、病院へ連れて行かれました。
 診察が始まって、ふくちゃんと先生の会話です。
 ヤヤコシイ事は判りません。 私が理解できた要旨は次の様な内容でした。
 先生:体重も増えましたね!様子はどうですか?
 ふくちゃん:食欲もあり、問題ないように思います。
 先生:血液検査は辞めて、耳の治療だけにしますか?
  私、そうしましょう! 血を採られるの嫌!
 しかし、ふくちゃんは、先生と話しを続けた。
 ふくちゃん:一度、輸血した犬は再輸血が困難になると聞きました。
 そこで、採血できる今の状態で”血液型”を調べておいた方が良いのではないでしょうか?
  私、えぇ!また血を採る話をしている。嫌になっちゃう!!
 先生:確かに回数を重ねる毎に適合性が困難になる。 調べておきますか。
 ふくちゃん:何事かあったら、先生を頼らなければ成りません。
 先生:分かりました。 カルテに記載しておきます。
 てな事で、又しても、少ない私の血を採るのである。 ああ無情!!
 でも、クスリ(フィラリアの予防薬)を来月分まで要求していた様だから、これからは病院に行かなくて良い様です。
 美容院も予約してもらった様で、体調も回復して来ている事を感じています。
 美容院に行って、私”美人”に成って来るわよ! みてらっしゃい!!
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☆こんなのがあった!

2014年10月11日 | 日記
 その昔、リンドバークという人物伝について、聞いたことがある。
 アメリカの飛行(冒険)家、という程度の知識しか持ち合わせていない。
 そして、リンドバークと言えば、自伝の映画化とされる「翼よ、あれが巴里の灯だ」を思い出す人も居ると思う。
 先の日記「古き記録 西日本サイクル・チーム・レースの結末」の資料(当時の新聞記事)を調べていると興味ある記事を見つけた。 
 Photo
 「リ大佐夫妻 第一目的地 着陸か」という表題の記事である。
 以下は、記事の内容である。
 リンドバーク大佐夫妻は1日9時45分オッタワを出発したがその後何度の消息ないが、恐らく既に1日、目的地たるハドソン湾南端のムースフアクトリに無事着水したものであろうと見られる。
 というものである。(注:新聞記事には「オッタワ」との記述であるが、カナダの首都と理解している)
 私は、リンドバーク氏と、日本とは関わりは無いと思っていた。
 しかし、何で新聞記事になったのだろう? 疑問がうまれた。
 調べた結果、以下の”歴史”を突き止めた。
 「リンドバーク夫妻は1931年、北太平洋航路調査のため、ニューヨークを飛び立ち、カナダからアラスカ州を経て、中国までロッキード社製の水上機で飛行した」と言うものである。
 経由地として、当時の日本が大きく関わっていることも分った。
 「(1931年)8月23日:国後島 8月24日:根室市 8月26日:霞ヶ浦、その後、大阪・福岡を経て中国の南京・漢口まで飛行した」と言うものである。
 ただ、新聞記事の日付は、昭和6年(1931年)8月3日で、日本の「国後島」まで20日間を要していることに疑問はのこる。
 父への思い出である「西日本サイクル・チーム・レース」の結末を日記にしたことで、この記事を見つけた。
 そして、伝記での人物が実在した証しを、リアルタイムに報じている新聞記事を、現在に至って観ている。
 時間の経過の不思議さを感じるのである。
 なお、このリンドバーク氏に関する記事は、西日本サイクル・チームレースのゴール模様を報じる写真の裏面にあった。
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☆遠征試合での思い出  =連記 その4=

2014年10月10日 | 日記
 幼年レースに出場する私、少年レースに出場する兄、そして、競技役員の父と伴に、遠征試合にも行った。
 遠路の場合は”夜行列車であった。
 夜行列車の出発駅では、他の選手や付き添いの親達が集合して、乗車する。
 列車は、蒸気機関車に牽引された客車である。
 座席は、対面シートで、大人(通常)四人が着席できた。
 窓の上部に手荷物を置く、網状の荷物台が設えてある。
 夜行列車での私の寝床は、この荷物台であった。
 昇り降りは、父の手助けであったり、座席の背もたれに足を掛けてであった。
 ハンモックの様で”快適”と思われるが、寝返りが出来ない。
 窮屈だったとの思い出がある。
 大人達は、座席の下、床に新聞紙を敷いて仮眠をとっていた。
 兄たち子供は、座席であった。
 ある遠征途中の夜行列車で、事件が起きた。
 私は、眠っていて、実際に観た事ではない。
 乗客が夫々に仮眠をとっているなか、兄が”寝とぼけ”て、後尾に向って走り出した様であった。
 その事に気付いた誰かが、追っかけて行った。
 兄は、最後尾の開け放された通路で停まった様で、追っかけて来た人に確保された。
 あと一歩、歩みを進めていれば、転落していた聞いている。
 従って、兄の人生は、その時点で停止したことになる。
 ”強運”だったと言うことしかない。
 現在に至って、この話題になることがあっても、兄は「覚えが無い」と云う。
 語り継がれる話題であっても、兄には夢のなかでの出来事で、恐怖感も感じられない様である。
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☆古き記録 西日本サイクル・チーム・レースの結末

2014年10月09日 | 日記
 「西日本サイクル・チーム・レース」の結末を!と言う要望もあり、日記にした。
 「西日本サイクル・チーム・レース」とは、昭和6年(1931年)に開催された、鹿児島市をスタートとし、大阪市をゴールとする、1千余Kmを五日間で走破する自転車ロード・レースである。
 私の父が参戦したが、心ならずも、三日目・広島市のゴールを果たすことが出来ず棄権している。
 写真・左は、レースの最終日である、岡山市から大阪市間181Kmのレースの開始を報じる、昭和6年8月2日付の新聞記事である。
 そして、レース結果を報じる、3日付の記事、及び優勝者が大阪城にゴールする新聞写真である。
 優勝者は、奈良県・梶田選手で、鹿児島市から大阪市までの間を、40時間16分26秒で走破している。
 未舗装道路で、8月の炎天下を、パンクすれば自己で修理しながら”平均速度25Km/時”で走りきったことになる。
 そして、チーム優勝は岐阜県勢で、走者3人の合計タイム127時間18分17秒との記録である。
 なお、個人優勝した梶田選手のチーム成績は第10位で、141時間47分20秒という記録であった。
 父のチーム成績は、一人が第一日目で棄権しており、残る一人は57時間38分43秒の個人成績でゴールを果たしている。
 歴史を振る帰って、健闘を讃えたい!
 84名が鹿児島市をスタートし、1000余Kmを5日間を要し、大阪市・大阪城にゴールを果たすことが出来たのは51名という記録であった。
   
 今日の絵日記の絵(写真)は三枚で、写真・左より写真・1~写真・3とする。
 写真・1:「けふ(今日)晴れの決勝」を報じる新聞記事である。
 写真・2:「岐阜県チーム」の優勝を報じる記事
 写真・3:一千余Kmの道程を経て、ゴールの大阪城グランド「決勝点」にゴールする一着者を報じる記事写真
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☆天体ショー 月食を観る

2014年10月09日 | 日記

 2014年10月08日、月食の観察が出来た。
 今日、月食(地域によっては皆既月食)であることを、昨日のニュース(天気予報)で知った。
 この日は、スポーツ・ジムに行く日である。
 ジムでのメニューを30分程、短縮して自宅に帰って、観察の準備を整える事としていた。
 そして、所定のメニューを消化し、ジムを出た。
 しかし、雲が出て、肝心の月が観えない。
 「駄目か?」とガッカリする気持ちで帰宅した。
 帰宅し、夕食の準備を始めた。
 だが、食材が足らないことに気付き、急遽、食材を求めに行った。
 買物が終わり、帰宅すべく、店外に出ると、欠け始めた”お月さん”が眼に入った。
 急ぎ、帰宅し写真撮影の準備をした。
 雲も無く、欠け初めから、元の”満月”に戻るまでの天体ショーを鑑賞することが出来た。
 そして”薄暗く、赤っぽい”通常、観ることが出来ない”月(写真、左から二番目)”を観ることも出来ました。
 この為に、夕食が遅くなったことを記述しておきたい。
 しかし、食材の不足が無ければ観測が出来る天候に成っている事も気付かなかったことでしょう。
 ”怪我の功名”でしょうか・・・?
 今日の絵日記の絵(写真)は四枚。
 左から、欠け始めた月、そして、太陽光が地球によって遮られ、薄暗く・赤っぽいなった月の二枚。
 そして、月食の終演に続く二枚とします。
 露光時間を間違え、鮮明な映像を録ることが出来なかったことが、残念です。
 
 追記・訂正:「今日、月食(地域によっては皆既月食)であることを・・・」という記述について、月食が起きることを天気予報で知りました。
 そして、この時「東京では、皆既月食が観られます」と言うアナウンスがあった。
 「東京」と限定されていたことから、東京以外は”皆既月食”ではなく”部分月食”と、その時は理解した。
 しかし、観察中「あれ!此れって皆既月食じゃない?」と思った。
 そして、此れは「天文学的には”皆既月食”と言わない」と、勝手に理解していた。
 翌9日・朝のニュースで「皆既月食が観えました」と報道していたことから、部分月食ではなく、全国規模での皆既月食で有った事を理解した。
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☆何で、こうなるの・・!

2014年10月08日 | 日記
 ”シェア(する)”という内容の映像を観た。
 主婦が抱えている家事労働を、夫と分担し合うと言うものである。
 妻・奥さんが専業主婦では成り立たなくなった現実から、夫が家事を行うことに抵抗や違和感はない。
 違和感は、”名前づけ(表題)”である。
 表題(タイトル)の家事シェアは”家事分担”であり、もっと日本語的にすると”家事を分担する”と言う事になる。
 (常用)日本語と外国語をくっ付けて新たな言語・言葉?が出来る。
 ”家事シェア”が新たな”日本語”とするなら受け入れざるをえないだろう。
 しかし「家事を分担する」と「家事シェア」が同じ意味ならば、「-をーする」の美しく・軟らかな日本語の表現(力)を省略してしまうことになる。
 何故、分担だけでなく”家事”も”housework”的にしないのだろう?と思うのである。
 万葉・平安・江戸・明治と日本の言語は変遷している。
 言語は”時代とともにある”のでしょう。
 しかし、自分がしたい表現を「漢字に頼ってしまうと、日本(大和)の言葉のもつ本来の意味を失わせてしまう」と警告する学者もいるようである。
 この警告からして、今回の「家事シェア」は、漢字+外国語(をカタカナ標記)で、日本語=大和言葉ではなく、日本人が造語した外国語”?と考えてしまう。
 くわえて、「家事シェア」でなく「家事を分担する」と言う表現(表題)では何故、いけなかったのだろうか?と思ってしまう年代の私である。
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☆私と自転車競技 Part3 自転車競技中の思い出

2014年10月07日 | 日記
 昭和20年頃、自転車競技は”娯楽”としての人気が高かったという思い出は日記にした。
 競輪場は「自転車競技法」の施行に伴って整備された施設であって、昭和23年以降になって全国的に整備が進んでいる。
 私が”幼年レース”と称して競技をした施設は(平面)グランドで、当然”バンク(*)”といったモノは無かった。
 勢い余って走路からはみ出し、観客の中に飛び込む場面を観ている。
 先の日記(「Part2 昭和23年8月1日」(21014.10.05))で、中学校のグラウンドを拡幅した経緯を日記にした。
 この日も、スタート・ゴール側には大勢の観衆が、スタート・ゴールの興奮と、そして周回する選手の熱戦に声援を贈っている。
 そして、少年レースでアクシデントが起きた。
 一人の走者がカーブを曲がりきれず、勢いよく、グランドの整地用のトロッコに”体当たり”した。
 走者は空中を舞って、トロッコに転がり込んだ。
 自転車がトロッコに衝突したと思ったその瞬間、トロッコの中から二人の少女が飛び出てきた。
 ”二人の少女”について、であるが、今の私の年齢で、過去を振り返っての表現・「少女」であって、当時にあっては”同年代の女子”である。
 後日談ではあるが、二人の少女は親と観戦には来たが、興味も無く、トロッコの中で”おママゴト”をして遊んでいたとの事であった。
 二人の少女に怪我も無く、トロッコに飛び込んだ走者にも怪我は無かった。
 少女の機転で事なきを得た、自転車競技中に起きた”アクシデント”であった。
 現在に至っても、帰省しての兄との酒宴で、この時のことが話題に成る事がある。
 兄:あの女の子たち、よぉー飛び退いてくれたものよ!怪我を負わせていたぞ!
 私:兄貴も、狭いトロッコ(の荷台)に(正確に)舞い降りたものよのぉ!と、応じている。

 注:トロッコの形状については、炭鉱等の風景で観掛ける箱型のモノで、縦横=1m×1.5m。 高さは、地上高(車輪を含む)1.5m位であったと記憶している。
 バンク(*):周回走路のカーブ部分の外周を高く”坂”としている設備
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☆私と自転車競技 Part2 幼年自転車競技選手

2014年10月06日 | 日記
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 今日の絵日記の一枚の絵(写真)は、自転車競技に出場した記念の写真である。
 私は6歳、兄が11歳である。
 私は幼年レース、兄は少年レースへの参戦予定であった。
 この写真を観て”変!”と思われると思う。
 兄弟で”優勝”と紛う記念の写真であるが、兄は優勝を果たし、優勝旗・賞状を獲得している。
 何故に私は、優勝旗だけ!?
 この日、幼年レースに出場出来た(出場した)のは、私だけであったのである。
 兄と同じ少年レースに、半周前からのスタートではあったが、一周を回る頃には追越されていた。
 ユニホームを着て、準備は出来ていたとしても、この様な配慮(参加させてあげよう!的な)は無しにしてもらいたいものである。
 結果は、最下位でゴールした。
 従って、幼年レースとしては正規な競技として確立しなかったため”御褒美”で頂いた”優勝旗”である。
 幼年レースへの出場者は常に2~3人で、試合として成立しなかった事も多かった。
 兄は期待される選手であり、父は競技会役員として事あるごとに参加していた。
 他の幼年レースの選手とは、少しばかり環境が異なっていた。
 私の意志に関わり無く、競技会には出場していた=出場させられていたことである。
 
 追記:この写真の出処の詳細は不明であるが、新聞記者から頂いたモノと言う情報が有力であるようだ。
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☆写真と私

2014年10月06日 | 日記
 9月末、友人宅に友人の兄弟と伴に参集する機会を得て、酒宴を催して頂いた。
 その時に「ふくちゃんは幼き頃の写真が多い!」という話題になった。
 小学校に入学するまでを”幼き頃”とするならば10枚位の写真があって、当時を偲ぶことができる。
 友人、そして(五歳年下の)弟さんが口を揃えて「兄貴の誕生写真はあっても我々のはない!」と言う。
 「写真で幼き頃を思い出すことはない」と云うのである。
 思い起こせば、私の育った環境も”写真で思い出を!”というものでなかった。
 父がカメラを構えて被写体として、私達を捉えた記憶はない。
 我家にはカメラは無かったし、写真撮影できる余裕は無かったと理解している。
 少なくとも兄が自立し、カメラを所有するまでは・・・!
 幼き頃の私を撮影できたのは、祖父の弟さんであったと思う。
 祖父は私が小学校の三年生の時に他界した。
 伯父さんは、御先祖を含め、墓参り等の帰省で、年に数度のお泊りがあった。
 当時としては”ハイカラ”な伯父さんでバイク(陸王)で来たり、水上飛行機便しかなかった時代にあって飛行機で来たり、話題性の多い”叔父さん”であった。
 それと、私が被写体の写真は”自転車競技”に関するものが多いことから、撮影された環境によるものであったと思うのである。
 何はともあれ、戦後の混乱期にあって、撮影して頂いた人、そして、それを大切に保存してもらった母に感謝したい。
 ”自分史”を正確性をもって語れるのは「写真」という歴然とした当時の姿が確認出来るものがあって成し遂げられると思うからである。 時間の経過とともに、兄がカメラを所有した(私が中学生)頃から、私自身の写真は俄然、多くなっている。
 兄は自立後、ブロニーのカメラ(ミノルタ製・二眼レフ・カメラ)を所有し、撮影したものを、現像に出し、ネガから木製の印画機で焼付けをして楽しんでいた。
 兄が居ない時は、カメラはある・印画紙に焼き付ける器具は揃っている。
 カメラ・写真に目覚める環境であったと思う。
 因みに、私が社会人になって、始めての大きな買物は”カメラ”であった。
 当時、ペンタックスに代表される”一眼レフ”全盛期であったと思う。
 何故か私は、ミノルタ製の一眼レフ・カメラを選んでいた。

 蛇足:カラー写真が高価であった時代、白黒写真に彩色を施す”絵の具”があった。
 何度、塗り重ねても”濃く・鮮明なカラー写真”とは成り得なかった。
 しかし、当時は、この様な手を加える事で喜んでもらったことを思い出す。
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☆私と自転車競技 Part1 昭和23年8月1日

2014年10月05日 | 日記
 この日「自転車競技法」なる法律が施行されている。
 各県ごと(一箇所)に”競輪場”が整備された。
 娯楽であった自転車競技が戦後復興財源として”国家”挙げてのギャンブルの対象となったのである。
 幼かった時、何処かの”おじさん”が「警察に守られて(公認で)賭け事が出来る」と云っていたことを思い出される。
 そして、悲喜交々の物語が語られる事に成る。
 私は、この事によって”助かった=負担が無くなった”と幼き過去を振り返る。
 私が誕生する12年前、父は「鹿児島から大阪間1000余Kmに及ぶ自転車ロードレース」に出場している。
 娯楽としての自転車競技は戦前・戦後を通じて盛んであった様である。
 大きな大会となると新聞社主催であったり、地方の興行主が主催していた様である。
 主催者と思われる新聞社の名の入った優勝旗を持った父の写真は幾つかある。
 父のファンと言う、有名な女優さんから”ユニフォーム”を贈られた事もあったと、母が言っていたことも思い出される。
 当時の競技場は、グランドであったり、ロードであったようである。
 この様な父の影響を受けたのか、気が付けば私も自転車に乗って着順を競う競技に参加していた。
 強要された思い出はない。自然の成り行きであったのかも知れない。
 青年の部・少年の部・幼年の部とランク別されていた。
 そして、競技場はロードはなく、グラウンドであった。
 私は、小学校入学までの「幼年の部」であった。
 兄は、少年の部で真剣に競技していた”姿勢”を今も思い出される。
 兄は、強かった。
 父のDNA(自転車競技に関する)は兄が引き継いだのかも知れない。

 私は、三輪車なる遊具=乗り物で遊んだ思い出が無い。
 3歳位には自転車に乗っていた様である。
 昭和20年位で、子供用の自転車等は一般的に流通していなかった。
 父の手造りである。
 フレームを構成するフランジ等は”部品”として販売されていた様である。
 しかし、私のは、フレームも小さく、フランジ(フレームの力の架かる処は二重に成っていた)等は無く、ガス溶接で直結されたものであった。
 フレームのヘッドチューブやクランク受け等の構造物は大人用のフレームを転用されていた。
 ブレーキはない。
 前・後輪、フレーム、ハンドル、クランク・ペダルとチェーン、及びサドルで成り立つ極めてシンプルな自転車(「軟弱?(2014.7.26)」の写真)であった。
 後輪とクランク・ペダルはチェーンで直結されていて、減速や停止しようとするとペダルに後ろ向きの負荷をかけなければならなかった。
 停車させるにも”技術”が必要であったのである。
 そして、下り坂では、ペダルが強制的に回転するから、忙しく足を回転させていた姿は”滑稽”と思えるものであった。
 フリー・ホイールを発明した人は”偉い!”
 乗り始めた当初は、ペダルの操作で減速や停止させる技術は無かった。
 そして、一人では乗ることも出来なかった。
 父(若しくは誰かに)に支えてもらってスタートする。
 一周、約1Kmの周回道があって、一周回って家に帰る。
 家に近づくと「帰ったよ!」と大声を発する。
 父が仕事の手を休めて、支えてくれて一連の動作が完了する。
 大声を出したにも関わらず、父が出てくれなければ転倒して、泣いていたと聞かされている。
 この様な私が、当時の娯楽であった「自転車競技」に出る様になった経緯については記憶はない。
 しかし、大勢の観衆のなか”力走”した思い出は、写真と伴にある。
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 普段着のままでの競技で、当時の様子が伺える。
 そして、昭和23年8月1日までの間の、少なくても二年間程は”自転車競走選手”としての過去がある。
 自転車競技が当時の”最大の娯楽”?であったという点について裏付ける記憶がある。
 中学生の時、体育の先生が「この中学校の運動場を拡幅したのは自転車競技をするためで、当時は野球より人気があった」と語ったことである。
 確かに、この中学校の広いグランドでの自転車競走に、出場したことを覚えている。
 そして、水田であった用地に、隣接する山の土で整地するためのトロッコが軌道と伴に存在していた記憶が鮮明にある。
 造成は、自転車競技をこよなく愛する「ファン」が中心となった”勤労奉仕”であったことも、後日談で判明している。
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☆九月の末のある日・・

2014年10月01日 | 日記
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 9月末、友人宅に、友人の兄弟+私が久しぶりに参集した。
 前夜は、大いに飲み・食いしての大宴会であった。
 加齢と前夜の飲酒もあり、目覚めが早かった。
 健康維持の為の”歩き”の話題となって、日の出前の”歩き”を実践することになった。
 10分程、自動車で移動し、往復3Km程のウォーキング=散歩を楽しんだ。
 暦だけでなく”秋”を感じることが出来た。
 私の家の周りでは味わえない、忘れ去っていた何か遠い昔を思い出す情景があった。
 みかん畑には、たわわに実を付けた蜜柑の木があり、色づき始めた蜜柑の木々もある。
 視線を移せば、今にも弾けそうな栗もある。
 そして、アケビ・・・ オマケに石榴も・・・・! 絵(写真)にしなかったけど柿もあったぜ!
 一度に此れだけの”秋の味覚”を鑑賞出来る機会は無いのではないだろうか?
 少なくても、私の住環境では味わえないものであった。
 復路になって、向いの山から”今日の太陽”が少しづつカオを見せ始めた。
 ”季節を愛でる”には、引きこもっていては駄目ですよ!と教えられる時間でもあった。
 今日の絵日記の絵(写真)は左から、歩き始めた後期高齢者+1・蜜柑畑で実を付けた蜜柑と色付き始めた蜜柑・栗・そして、久振りに観る”アケビ”・石榴・お日の出の7枚とする。
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