遅いことは猫でもやる

まずは昔メールした内容をひっぱってきて練習...
更新は猫以下の頻度です。

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宮田旅館

2011-09-28 18:04:01 | 行ってきました




八尾の町のどまんなかに位置するこの旅館は小さな、何の変哲もない宿である。
ここは「みやだ」と濁って呼ぶようだ。
少し早いかな~と思う午後2時前、引き戸を開けて案内を乞うと、遠く奥から
「はーい」という声。暫くして現れた若い人に「駐車場はどこですか」と問うと、
スグそこですと言いつつ、玄関を出て自ら案内に立ってくれる。

車から荷物を取り出して運ぶと、「掃除は済んでありますので、よかったらお使
い下さい」、と本来チェックインは3時としてある部屋に通してくれた。

部屋は2階、中庭に面した8畳の和室。トイレも、お風呂も付いてはいない。廊
下や階段は黒光りするほどきれいに磨きこんである。廊下に大きな姿見が置いて
ある。



この旅館は、5,6部屋くらいの小さな宿。お風呂も二人で手いっぱいの、大きさ。
それでも籐製の乱れ籠に、バスタオルと、カミソリがおいてありここも清潔だ。
充分ではないが必要最小限のことは、やってある。まさにアットホームな宿だ。

フロントというより帳場で受付を済ます。その後ろは囲炉裏が切ってある、居心
地のよい空間。
街歩きから帰って、ビールを飲んでいると、常連さんらしい人が入ってきて、
「仲間と5人連れだけどちょっとだけ飲ませてくれない」と交渉していた。夕食の準備
の忙しい時間でありながら、「いいですよ」、と入り口のテーブルに案内した。我々に供
されたビールも大瓶で、突き出しに山くらげが付いてきた。

先ほど駐車場に案内してくれた、息子の子供だろうか。1歳くらいの子供がカタ
コトを喋りながら、旅館の内部を走りまわる。なぜかあんまりうるさく感じない。
お爺さんが後を追いかける。田舎の家庭そのものだ。

夕食も、朝食も、地元の食材中心の程のよい品数、調理法の品々。おざなりの刺
し身や、フライではなく、子持ち鮎の焼き魚、野菜の煮物など、ほっとするもの
が多かった。お酒がすすんだ。

なんだか温かく、懐かしい昭和の空気が感ぜられる宿である。熱燗の日本酒をゆったりと楽しむにふさわしい、大人の旅にぴったりの宿だ。もっとも風の盆の時はそうもいくまいが。


月見のおはら

2011-09-27 19:57:01 | 行ってきました


今月初め、知人から誘いのあった八尾の「風の盆」は残念ながら所用で行けなかった。かねて訪れた他の人からも「あれはよかった」と聞いており、一度は行ってみたいと何年越しに思っていたので、とても心残りで、来年こそ行きたいと思っていた。

台風一過の先週、刈谷で用事を済ませて、少し時間に余裕ができ、来年の下見を兼ね、現地を訪れた。刈谷から車で3時間ほどである。

当日は、風の盆も過ぎ、踊りは曳山展示館での見学かと思っていたら、クラブツーリズ
ム主催の「月見のおはら」開催日で、街流しの踊りが見られるという。観光会社の
イベントだからそれほどではないだろうと、あんまり期待をせずに、現地につい
た。


丸石の石垣の上にできた街

2時少し前に、街中の宮田旅館に着き荷物をおいて、街を一巡り。
まずは特徴のある石垣が続く街の入口へ。丸石を積んだ石垣が続く町並みはそれ
なりの優美な佇まいだ。坂道を登り、福鶴酒造の横に出る。

小さな路地を抜けおわら資料館へ。ここは風の盆普及、保存、に功のあった初代
おわら保存会会長の医師川崎順二氏の生家である。大型スクリーンでの説明を見、
展示してある様々の記録を閲覧した。

そこで得た知識
なぜ八尾なのにおはらなのか?
「おわら」はお笑い節説、大藁節説、小原村乙女説、小原比丘尼説などの4つの説がある。いずれも甲乙つけがたい説ではある。
なぜ風の盆というのか?
「風の盆」とは、春分から二百十日に当たる、風の厄災日=八朔の日に行われる、
農耕儀礼で、風を鎮めることを祈る踊りを行う説と、風流/風雅でわかるように、
風は歌謡/民謡のことであるという説がある。この街が養蚕、和紙、薬草などで
栄えてきた農業中心だったことを考えると、やはり前説のほうが有力なのではないか。


石畳の諏訪本町通り


昼飯の蕎麦を食べた「高野」 田舎そばの系統だった

資料館を堪能して石畳の諏訪町本通りを上がる。両側が町家作りの落ち着いた通
りをぶらぶら歩き、曳山展示館へ出る。旅行社の説明会が終わったらしく、本日
の準備が行われていた。宿に帰ってひと風呂浴び、早めの夕食を取って、踊りを
見にゆく。昼と違いいつの間にか人が出ていた。観衆は通りの両側に並ぶ。石畳の坂道を踊り手を先頭に、ぼんぼりの明かりに行列が浮かび上がる。両側の家々の明かりは暗くしてあるので、道だけがほんのり明るい。


女衆のたおやかな舞姿

男衆の大きな所作

男衆と女衆が並んで進む組もある

続く三味線隊

各町内ごとに男衆、女衆の踊り手に続き、地方と呼ばれる、唄い手、囃し手、三
味線、胡弓、太鼓、の隊列が続く。日が暮れぼんぼりに灯が入り、坂の路地にし
ずしずと進む。十分鍛錬してあるのか、足さばき、手の指の先まで神経の通った
踊りは見事だ。私にはたおやかな女衆もさることながら。動きの大きい男衆の踊
りに目を惹かれた。

ちょっとひんやりしてきた空気の中で嫋々とした胡弓の調べ、控えめな唄い、囃
し、が優雅な踊りと相まって、胸に沁みる。誠に趣が深い。一観光業者のイベン
トとはいえ、道の両側には人垣が続き、踊りの組みも数多く通る。風の盆のいい
ところだけを抜いてきたようだ。最後のの30分ほどは観客参加の町内踊りの再
現で、9時に終了。

最後は観衆と一緒に踊る

帰って旅館の女将に聞いたら、「踊りを見るのなら今日の催しが一番。風の盆
本番はこの10倍の人で人垣ばかりです。最終日は夜通しになるので、旅館も開
けっ放しにしておきます」とのこと。お祭りの喧騒、開放感を味わうのならば、最終日もいいのだろう。

我々はいいところだけの、いわゆる「さわり」を体験できたのか。いずれにしても、Dマイナーを満喫した一夜であった。来た人が一様に良かったと言っていたわけが納得できた。

カッパドギア最終日

2011-09-23 00:05:18 | 行ってきました
カッパドギア最終日は夕方カイセリ→イスタンブールへ飛ぶ行程だ。
朝方、荷物の整理を終え、準備をしておいてから、ゆっくりとホテルを出る。

まず郊外の2件目の隊商宿(KARAVAN SARAY)へ。先日見たものと
同じ作りだが少し整備が進んでいる。ラクダ係留小屋に当たるところに、SEMAの
舞台が作ってあるほかはほとんど同じである。


デヴランスの代表ラクダ岩

マリア像

続いてデヴランス。ラクダ岩、マリア像岩など奇岩がある場所。観光バスが止ま
る、カッパドギアきっての奇岩ポイント。パシャバ地区。ここも奇岩ポイント。
はっきりとしたキノコ岩が林立する。奇岩を間近に見て巡り、陶器作りの街へ。


パシャバ地区のキノコ岩群 デヴランス同様観光客が多かった

アヴァナス。この地区は昔から、男は壺作り、女性は絨毯織りの仕事をしていた。
街に入る橋の上から中洲を見ると、焼き物の壺のモニュメントが飾ってある。窯
元に案内されたら、そこはSEMAを見た建物の隣だった。


アヴァナスの入り口 中洲の壺

案内はイボさん日本語のうまい人、売り方もうまい。嘘かほんとか、ここにはヨー
ロッパ各国から修行に来るとのこと。先生と言われる人が実演をしてみせてくれ
た。記念に形の変わった酒瓶を買う。


陶磁器園案内のイボさん 腕にあるのは酒器


昼飯は河畔のレストラン。ナン、トマトと辛いチーズのヨーグルトスープ、牛肉
の角切り味噌炒め、デザートは干しイチジクの蜂蜜かけ。トルコは何を食べても
美味しい。すぐ傍に魚が泳ぎ、アヒルが遊ぶ。ガイドのセナムさんがわたしが推
薦する2番目に美味しい(一番目は昨日の洞窟レストラン)ところだと自慢して
いた。


セナムさんお薦めNo2のレストラン

河畔のレストラン


料理はみな美味しかった。ごちそうさま。

午後からはギョレメの野外博物館へ。博物館と言っても、7~11世紀に作られ
た遺跡である。洞窟教会巡りだ。この区域だけで30数カ所の教会跡がある。洞
窟の中に初期フレスコ画が残っている。台所、倉庫もある。地下都市に比べ明る
い。宗教の力か、教会の柱はさすがに念入りに彫られている。りんごの教会と言
われる処(アダムとイブの食べたりんごが描かれている)はフレスコ画がしっか
り残っている。


この岩山の下部が教会

内部の食堂跡

野外博物館の遺跡

エサンテペ。ギョレメ、赤い谷が一望できるビューポイント。鳩が飛ぶ。ここで
鳩は神の使いだということです。自由時間をたっぷり取る。もう案内する所がな
いのだろうか。やたら自由時間を取る。


赤い谷


エサンテベからの眺望

オルタヒサール。4TL払って入場した展望台。しかしここから30分ほどセナム
さんと赤い谷を歩く。途中のぶどうの協会を経てもとの展望台へ。30分でも山
歩きは気持ちが良い。

山歩き途中のセナムさん

歩いている道で 後ろが赤い谷

すべての日程を終え、ウルギャップヘ。ここでセナムさんとお別れ。5時30分
のバスでアンカラへ戻るのだそうだ。明日は娘の卒園式だという。


ウルギャップのバス停広場

まだまだ明るい6時半頃、ユノスさんがホテルに出迎えに来てくれる。助手席に
奥さんがいる。ちょっときつそうな人。一時間半ほど砂漠の中を走って、カイセ
リへ。小さな地方空港。彼は中まで入ってきて、チェックインの手続きをしてく
れた。律儀な好漢である。

空港で2時間ほど待ち、日がとっぷり暮れた頃出発。ほぼ満席。待合室でイスラ
ム教の高位の方が隣に座っていたせいで、ひっきりなしに皆が挨拶に来る。なに
か話しかけられるがさっぱりわからない。異文化に接触のチャンスなのに残念で
ある。

イスタンブール空港からタクシーに乗ってホテル名を告げるがよく分からないら
しい。地名で近くまでゆくが、何度も土地の人に聞いてやっと到着。「ユスフパ
シャ・コナウ」という名の小さなホテル。フロントも小さくアトホームな感じ。

このホテルの上級の部屋を予約してあり、長い一日(14時間くらいの活動)で
シャワーが浴びたくて、バスルームに飛び込んだらビックリ。洗面器大の石の鉢
があるだけ。どうやって使うのだろう?ボーイに聞いてもらちがあかない。今日
はもう係がいない。と使い方を教えてくれない。諦め汗を流せないまま眠る。

このシャワーの使い方がわからない

食卓の情景

2011-09-21 17:02:13 | 
池波正太郎著「食卓の情景」新潮文庫を読んだ。

これは、美味いもの巡り、グルメ本の範疇ではない。
文化時評に属するエッセイではないか。或いは文士の交遊録、生活日誌に近いも
のだ。

鬼平犯科帳、剣客商売、仕掛け人藤枝梅安、などの池波シリーズに登場する、物を
食べる場面がいかにも美味しそうである。実際、藤枝梅安に出てくる鍋を真似て家内に
作ってもらったら、とてもうまい。アサリとわかめを薄いだし汁に入れ、大根の
千切りを入れただけのシンプルなものだがとても美味しい。以降我が家では「梅
安鍋」と称し、定番メニューとなった。

そこでこの本を読んでみた。昭和55年に書かれたものだが、食に関わるエッセイ
は、古さを感じさせない。食材、調理法、盛り付け、などに徹した料理話ではなく、池波氏
の幅広い交友関係、その店の有り様の評価が主である。

著者はそれぞれのお店についての清潔度、気配り、店員の働きぶり、店主・女将
の客あしらい、値段の妥当性、などについて評価し触れている。
勿論作家らしく、この店との関わりを背景にして、一緒に訪ねた人の描写も抜か
りない。何を食べたかも、うまさの根源ではあるが、現実には「誰と食べたか」
が楽しさの根源であることを著者はちゃんと知っている。

また作家としての仕事は夜半から明け方に及ぶのだが、夜食や仕事の終に一杯やるのは自分で調理するのだろうか。昼間の散歩のおりに、商店街で食材を買ってくるのも、彼自身である。

それにしても、彼はよく飲む。必ずと言っていいほどビールか日本酒が食事につ
いている。一日に二度三度、食事の度に飲む。小説にも「心付け」をはずむ場面と「酒」を飲む場面が頻繁にでてくるのはむべなるかな、と思わせる。

日本の避暑リゾート 軽井沢

2011-09-21 00:58:26 | 行ってきました

木漏れ日に光る庭の苔の緑が美しい

思い立って日曜日軽井沢まで足を伸ばした。

言わずと知れた、日本を代表する避暑地である。

カナダ生まれの宣教師、アレクサンダー・クロフト・ショウが1888年軽井沢に別
荘を建て、友人達にも彼の地の良さを紹介し、それがきっかけで徐々にこの地に、
別荘を建て、住む人が増えてきたという。避暑と療養に最適だと言っていた。奥
さんも子供も親日家であったらしく、夫婦共青山墓地に眠る。

現在、この地は、大きく分けて、旧軽井沢、中軽井沢、塩沢、追分、の4地区が
中心となっている。今回は旧軽井沢を散策した。


さすが軽井沢である。大きな別荘が多い。門構え、敷地、建物も堂々としている。
管理人や執事がいそうな、本当の金持ちの「ザ・別荘」が立ち並ぶ。チェンソーや草刈機を、住人自ら操るどこやらのものはせいぜい山小屋という印象である。


雲場池 遊歩道が池を囲む

まず雲場池をめざす。ここの別荘地は1000坪以上の大きな物が多く、木立が鬱蒼
と繁り、苔が庭を覆う。管理人や執事が差配するのふさわしい邸宅が林の中に続
く。鳩山邸もこの近くにあるそうだが、さすが日本を代表する避暑地である。
雲場池は透明な水と鴨が遊ぶ森に囲まれた静かな池だ。夫婦でキャンバスに向かっ
ている人や、ギターを奏でる人が、池の端に居るのも、いい雰囲気だ。

大勢の歩行者、自転車の人々が、散策をしている。レストランはどこも満員。人
が並んでいるところもある。ここは東京圏だ。旧軽井沢銀座通りで待たずに入れ
るイタリアンレストランを見つけ、昼食をとる。


三笠ホテルへの道 落葉松の並木が美しい

重要文化財 三笠ホテル

玄関 木製の窓枠がユニークだ

ここから2km歩いて旧三笠ホテル(重要文化財)を見に行く。並木がきれいな
別荘地の中を緩やかに上る。レトロなボンネットバスも走っている。しっとりと
落ち着いた林の中に、木造のホテルはあった。設計、監理、建築のすべてを日本
人が1905年に行った、木造の洋館である。


フロント とロビー

客室は比較的簡素

明治後期のこの建物は、何故かホッとする郷愁と、必死に国づくりをしていた勢
いを感じる。宿帳に井上準之助などの直筆署名があるのが、この地の歴史を感じ
させる。

このあと、聖パウロカトリック教会の簡素な木造教会、ショー記念礼拝堂、ショー
ハウス、を見、旧軽銀座通りをひやかして、帰る。旧軽銀座は石畳の通りで、人
並みがあふれていた。

軽井沢はさすが日本を代表する避暑地だけあり、鬱蒼とした林、豊富な水流に恵
まれている。道路も整備され、ゴミも落ちていない。別荘の庭にはひんやりした
空気が流れ、緑の苔が木漏れ日に輝く。蓼科に比べ湿気は多い気がするが、土地
の利便性は抜群だ。東京からも近い。ここに人が集まるのは当然だろう。


聖パウロカトリック教会 木造の簡素な小さな教会 本当の信仰はこんなところ
にあるような気がする。

ショーハウス 小さな小学校みたいな、木造の家。個人の別荘としては広い。

ショウの礼拝堂


旧軽銀座。さすがに人で賑わう。観光バスも多く到着する。


リニア中央新幹線

2011-09-20 00:20:21 | 雑感


何ヶ月かに一回催されるOB会の、セミナーの部でリニア中央新幹線について、
勉強する機会があった。

今回は県の地域振興部交通対策課の役人が講師を努めてくれた。出張市民講座みたいな
形だ。さすがに5時15分前には終わりたいという、公務員然とした勤務態度だ。

それによると2027年(16年後)東京ー名古屋を40分で結び、2045年(34年後)
には東京ー大阪を67分で走る予定だそうだ。現在の新幹線のぞみの半分弱で走
る。我々は経験できるだろうか。タイムリミットギリギリだ。

リニアモーターカーは超伝導電磁石で車体を浮かせ非接触で車体を走らせるシス
テムで、実験では人を載せて552km/時を既に達成しており、技術的な問題は
クリアーしている。

このリニア中央新幹線はJR東海が採算リスクを自主的に負って、開発・運行す
るということで、国はその計画の評価をし、許可権限を持つという、いかにも役
人的な仕組みになり計画は進んだ。

総工費9兆円、神奈川、山梨、長野、岐阜、愛知、三重、奈良、大阪に各県一駅
を設置。70%は地下を走る。40m以上の大深度地下を利用。

リニアの方が、飛行機に比べ約20万トンCO2排出量が低い。また震災、災害
時、在来新幹線を補完する交通手段としての位置づけもある。

ひと通りの説明の後、質疑応答が行われ、活発なやり取りがああった。
質問 料金は? 大坂まで+1000円、名古屋まで700円
   なぜドイツはリニア方式を断念したのか? 浮上距離が1cm.日本は10c
   mで実用化・実際の運行で日本に軍配
   電力需要は大丈夫か? 中部電力総発電量の約1%の使用量(震災以前)
   で全体的にそれほどの負担ではない。
   磁力障害などは? 概ね実験ではクリアーしているがまだ確定ではない。
   40年後の社会がどうなっているか、本当にこの鉄道を必要としているか推
   定しているのか? そこは確定はしていないが、需要予測は役所ではなく、
   JR東海が行っているので、道路、空港利用者予測よりはシビアーだと思
   われる。また外国(中国、アメリカ等)への輸出、ニーズは想定している
   だろう。
   本当に地域振興になるのか? ストロー効果(一極集中)などは計算して
   いる。

リスクはJRが取るということでこの計画は一気に進んだらしい。需要予測、採
算性についてはJRにお任せ、という気楽さもあり、役人は安心してお先棒を担
いでいる。技術的にはフランス、ドイツ、中国の新幹線に比べて日本のリニアー
は加速性能、減速性能ともダントツだし、安全性は新幹線で既に実証されている。

問題はただでさえ、右肩上がりの時代とは変わってきた経済状況で、このインフ
ラ整備で地方経済はどう変わってゆくのか、官民一体で、或いは官・政が必死で
考え、地方の活性化に向けて指導してゆくべきだろう。本四架橋或いはアクアラ
イン、九州新幹線などでは必ずしも地方経済の活性化は、予測されたようには実
現していない。
世界的に見れば、技術的進歩はかならず進み、受け容れられてゆくと思われる。
ただその進化した道具をどう使ってゆくのか、それがはっきりしていないような
気がする。
国づくりの具体策としての新幹線の位置づけを明確にすべきだろう。首都機能の
分散化なども実現可能ではないか。

興味深いセミナーであった。

寂しく咲いた

2011-09-18 07:51:53 | 雑感


6月に、全部の土をふるって、花壇の整備をした。ご近所のWさんからいろいろ
な種をいただいたので、畝を作って皆蒔いたのだが、40日に及ぶ旅行から帰って
鮮やかな黄色とみたら見事に一面の雑草に覆われていた。

雑草を育てるために、手入れをしたようなもので、少なからずがっかりしたが、
先日見てみたら、生え茂る雑草の中に4,5輪のコスモスが咲いていた。

たくましく、青々と繁る雑草のなかで、鮮やかな黄色と紫の花がひっそりと咲い
ている。雑草とコスモスが逆になれば壮観だろうが、成長期に雑草を抜かなかっ
た(抜けなかった)のでやむをえまい。

よくぞ雑草に埋もれずに、花をつけてくれた。健気なコスモスに声援を送りたい。

好漢 S氏

2011-09-17 16:54:21 | 友人・知人


R社に勤めていた頃の同僚にS氏がいる。所属の部署は違ったのだが、何故か気が合い、リタイアー後もお付き合いをしていただいている。つい先日もOB会でお会いした。

彼はいわゆる男前であるがキザな所がない。
一緒に勤めている頃からよく遊んだ。夜中まで飲み歩き、午前0時を回って名古
屋白川公園で、トランペットを吹いている若者からそれを借り、彼が吹いてみせ
たこともある。サウナで寝ていたら、となりに寝ていた彼はゲイと間違われて襲
われそうになり、飛び出したこともある。

千葉に勤務していた頃遊びに行ったこともある。御宿の浜を訪れたこともある。酒が強く、飲兵衛であるが、大きく乱れたことがない。気安く楽しい酒であるが、何処か育ちの良さが滲み出る。
仙台出張の折、ミス七夕と知り合い、奥さんにした果報者である。奥方は勿論美人だが、この人
もお高く止まっているタイプではなく、庶民的でしっかりした働き者である。
多治見の家に2,3度お邪魔をしたことがあるが、楽しい家庭だ。

聞くところによると、S家には家系図があり、由緒正しい家柄らしい。また「ごんぎつね」で有名な新美南吉が彼の生まれた近くに住んでおり、おじいさんや家族の人たちと親しくお付き合いがあったそうな。知多の河和にある時志観音は彼の親戚で、一時は仏門への勧誘もあったという。家族で一緒に海水浴に行き、そこでごちそうになったことがある。また昨年桶狭間の戦い450周年の式典が豊明であった際、郷土史家の梶野翁から聞いた話だが,S氏は知多の豪族中山氏の子孫だそうだ。中山氏は織田にも今川にも付かず、様子見をしていたという。90歳近くの梶野翁はS氏のことを「殿様」と呼び、世が世なら御目通りも出来なかった身分差だと言っておられた。

楽しい男なのに、なんとなくきちんとしているのはこんな出自のせいか。見栄を
張らずマイペースで生きている、彼の生き方を尊敬しいるし、羨ましく思ってい
る。大事にしたい友人の一人である。