ひっそりと立つ標識
家から5分とない定食屋さんの店の前にステンレスの柱が立っており、「栗本鋤雲居住地跡」と記してある。聞き慣れない人物なのでネットで調べてみた。
幕臣。父は幕府医官。嘉永元年(1848)家業を継ぎ奥医師となる。その後、職を解かれ、5年に函館に移住。山野の開拓、病院の造成などに力を注ぐ。文久3年(1863)に江戸に戻り、親仏派として外交交渉にあたる。軍艦奉行、外国奉行を務め、慶応3年(1867)フランス派遣。維新後は新政府に仕えず、明治6年(1873)郵便報知新聞に編集主任として入社、随筆類を寄稿した。没後、著述は『匏庵遺稿』(1900)としてまとめられた。
とある。幕末昌平坂学問所で褒賞を受けたほどの秀才で奥医師の家系である栗本氏の家督を継ぎ、ついで奥詰医師となる。讒言により、函館に赴任するが、梅毒駆除のための医学所(のちの市立函館病院)建設、七重村薬園(静観園を参照)経営、久根別川を浚い函館までの船運開通、食用牛の飼育事業、八王子千人同心らを移住させて養蚕をさせるなど地域の発展に尽力した。
さらに外国奉行に昇進し勘定奉行、箱館奉行を兼任した。幕府による製鉄所建設や軍事顧問団招聘などに尽力している。鋤雲の才能は新政府からも評価されていたため、出仕の誘いがあったが、幕臣として幕府に忠義を誓い、重用された恩があった鋤雲は新政府に仕えることを潔しとせず、それを謝絶して隠退した。
その後「横浜毎日新聞」に入り、翌年1873年(明治6年)に、「郵便報知新聞」の主筆を務め、福沢諭吉を訪ねてその門下生を記者に加えるなど貢献した[6]。以降はジャーナリストとして活躍した。また登山家としても知られ、渡仏中、日本人としては初めてアルプスに足を踏み入れた。
とまあなかなかの人物である。こうしてみると、幕臣には数々の人物が存在し、一人ひとりが大河小説の主人公になってもおかしくないほどだ。