遅いことは猫でもやる

まずは昔メールした内容をひっぱってきて練習...
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恩師への追憶

2017-12-31 00:24:53 | 友人・知人


年賀の挨拶には少し早いが、年末の息抜きに(私は年中息を抜いているのだが)市の保養施設に立ち寄った。夕食時間、家族連れや知人と賑やかに盃を傾ける人達の中で、静かにご飯を食している品の良いご婦人が隣りにいた。

我々より少し年上で、銀髪の上品な方である。お一人なので家のカミさんが声をかけた。そうしたらなんとその方は私の中学校時代、あるいは卒業してからもお世話になった、理科の先生の奥様だった。

子供心にも科目への興味や、明るく積極的な生き方の刺激を与えてくれた、まさに恩師と言うべき先生だった。あだ名はたしか「ぺっしゃん」と呼ばれ、私は大変可愛がられた覚えがある。卒業してからも同年会で「薄墨桜」を刈谷中の学校に植樹しようとした時、大抵の学校長は「桜は虫がつくのでちょっと」と尻込みする中、「ペッしゃん」だけは、虫が付くのも自然の一部、虫が来れば鳥も来るので、私の学校に是非植えてくれ、と励ましてくれた。

おかげでそこが口開けになり、刈谷市中の学校、幼稚園の庭に薄墨桜を植えることができた。放送部に誘っていただいたが生憎変声期の真っ只中で、マイクテストで声が出ず、残念ながら立ち消えになった。今でも口惜しい。また課外授業で天体観測を校庭でやったが、日が暮れてから学校に行き直し、土星の輪を見たのも思い出である。

その先生も亡くなられて一年になるという。歳の終わりに大事な人のことを思い出し、少し感慨に耽った。

今年一年間ありがとうございました。皆様,良い年をお迎えください。

インド紀行(11)ージャイプールの街

2017-12-29 17:23:37 | 行ってきました

ジャイプールでのホテル=ラマダ・ジャイプール

城門と塀

ジャイプールの街はデリーの南西約260kmに位置し、ラージャスターン州の州都である。2010年の都市的地域の人口は305万人であり、世界第112位、同国では第11位である。約10kmの赤い城壁に囲まれ、別名「ピンク・シティー」と呼ばれる。但しごみごみしていてピンクというイメージとは程遠い。

街は同じような雑踏とオートバイ、オートリキシャ(三輪)、車がひしめき合っており、そこに、馬車や、駱駝、象まで道路に出てくるところはいかにもインドらしい。

イスラムの掟では夫以外に顔を見せてはいけない、というものがあったが、王様の愛妃たちが街を眺める「風の宮殿」という建物が街の真ん中にあった。部屋の窓は華麗な彫刻で飾られている。通りに面した大きな建物だが、奥行きは一部屋分くらいしかない薄いものである。暑い土地柄だけにそれぞれの部屋に風が通るような工夫であろう。

バスから下車して記念撮影などしていた。すぐ横に漫画などでよく見る蛇使いが笛を吹いている。思わずシャッターを切ったら、当人がすごい勢いで飛んできて「チップをよこせ!」と叫ぶ。インドルピーをもっていなかったのでバスの中に逃げ込んだ。おお怖っ。



風の宮殿

蛇(コブラ)使い

インド紀行(10)ー大陸の夜

2017-12-28 17:56:23 | 行ってきました

民族楽器の演奏

みんなが参加しての民族ダンス

宴は続く

階段井戸チャンド・パオリの見学後ジャイプールに向かったが、ジャイプールに着いての夕食は民族舞踊付きのデナーショーであった。

このレストランでの料理はインド風カレー(チキン、野菜、ちょっと辛め、ほうれん草、の四種類)にナン、または長粒米このメニューは朝昼晩出て来る。後はタンドリーチキンやココナッツミルクカレーなどが付いたり付かなかったりするが基本同じ。

ショーといっても、まずは三針あるいは二胡のような民族楽器の演奏、続いて女性の舞踊、最後にお客を交えてのダンス。中心は勿論その出演者で、彼女の仕草に合わせて踊る。見ていると簡単、単純そうに見えるが、私も誘われて前に出てやってみるとなかなかうまくゆかない。しかも案外激しい。結構な運動になった。

同席の人達がチップを弾んだので、踊りて立ちがしっかりサービスをしてくれた。
汗びっしょりになって席に戻ったが、息を整えるまでに時間がかかった。単調な食生活に変化をつけるための旅行社の計らいであろう。

インド紀行(9)ー聖使牛と階段井戸

2017-12-26 12:21:14 | 行ってきました

どこへ行っても雑踏はある

街角の牛たち

ヒンズー教では牛は神の使いだといわれ大事にされる。その為街のあちこちで牛の姿を見かける。牛は牛であるから放置されても餌を求めて街を歩く。ゴミを踏みつけ餌を漁るのは、何か神の使いという役割とそぐわない気がするが、雑踏の中にいる牛は風景の一部である。

アグラからジャイプールに近づいたアブハネリ村にある階段井戸が最近世界遺産に登録されたという。チャンド・パオリ それを見ようと陽がまだあるうちに着くべく行程を急いだ。井戸が何故世界遺産か不思議に思ったが行ってみてよくわかった。そのスケールの大きさと、精緻な構成は独特である。

圧倒的な存在感で我々に迫るが、これは飲み水用に掘ったものなのか、冷房用なのか、不明だが、装飾的な雰囲気が強い一面の階段は水の正面から眺められるように作られているので、おそらく冷房(夕涼み)用ではないか。インドでは他にもこうした井戸が数多くあり、渦巻状や、神殿状の建物が作られているのもあるそうだ。

階段の周りを一周りしたが、塀の上に孔雀が一羽止っていた。いかにもインドらしい。


圧倒的な存在感の石段

底には緑色の水を湛える

正面には石室が設けられている

反対側からの石段の幾何学模様

塀の上の孔雀


インド紀行(8)ーうたかたの都

2017-12-25 14:37:27 | 行ってきました

城壁はほとんど崩れていた

林の中を遺跡に向かって

遺跡の入口

アグラ城を後にして西へ向かうこと約一時間。ここも世界遺産に登録されている。「ファテープル・シークリー」とは勝利の都シークリーという意味である。ムガールの皇帝の中で唯一大帝と言われているアクバルには、多くの妃妾がいながら世継ぎには恵まれなかったことが悩みでした。

ある時聖者から「5年以内に3人の男の子を授かる」と予言を受け、やがて予言通りに男児に恵まれたので、遷都したと言われています。(一説にはアグラ城があまりに暑いので嫌気が差した、とも言われています)

しかし、深刻な水不足と酷暑に見舞われ、わずか14年で再び遷都、うたかたの都となったのです。豪気なのか気まぐれなのか、いかにも昔の皇帝らしい。しかし残っている建物は赤砂岩の立派なものである。


内部装飾の柱飾りは精緻な彫刻が施されている

風通しの良い、骨組みだけのフロアが重なっている皇帝の住まい。

宗教の柱 

「宗教の柱」皇帝はこの柱の上から知識人と意見を交換したそうです。各宗教の様式を取り入れ、他宗教との調和を表現、皇帝の生涯のテーマが諸宗教の共存でした。広大な庭の隅にある妃妾の館も各階がキリスト教、ヒンズー教、イスラム教という風に分かれていたという。

強大な軍事力を誇ったムガール帝国の大帝が、宗教の融合に気を配っていたとは驚きだが、武田信玄も経済政策や人心掌握にかなり気を配っていたことを思えば、偉大な為政者の常かも知れない。


私的謁見室 宝石の家

妃妾の館

池に囲まれた正方形の壇の奥にあるのが、皇帝のプライベートルーム。

当時、歌のパフォーマンスなども行われたステージ。

この広場で人間チェスなどが行われた

栄華を偲ぶ赤砂岩の建物群





インド紀行(7)ー雑踏の街

2017-12-23 18:27:22 | 行ってきました

オートバイが左右から割り込んでくる

路傍の果物売り


ぼーっと座っている人が多い

インドはなにせ13億の人口を抱える国だ。とにかく人が多い。街は人で溢れかえっている。道端で物を売っていたり、屋台で食べさせている店は結構多い。アグラ城からファテーブルシークリーに移動する途中で果物屋の露天が並ぶ一帯の脇を通り抜けた。

街は人とオートバイとオートリクシャ、それに車がひしめき合って進む。とても自分の腕ではこの雑踏を乗り切れないと思うくらい、僅かな隙間に車や単車が入り込んでくる。その脇で露店を開いているのだからかなり神経は太いと思う。

また街中には牛が多い。後述すると思うが、牛はヒンズー教では神の使いとされ、殺生はしないので野良犬ならぬ野良牛があちこちに見受けられる。また観光地の切符売り場付近には土産物や絵葉書などを立売する人が大勢いる。東南アジアでは定番だ。日本人と見ると「千円、千円」と言って近づいてくる。子供や女性だけでなく若い男性もいるから、失業率の高さが伺われる。

とにかく人と車の多さはすごく、インドの底力を感じさせる。


人は多いがお客は少ない

オートバイとオートリクシャが定番だ

街中で寝転ぶ牛

観光地での土産物売り

インド紀行(6)ームガール帝国の偉容

2017-12-22 12:20:49 | 行ってきました

朱砂岩の偉容

catsle(城)ではなくfort(砦)と書いてあるのがすごい

ジャハーンギール宮殿

遠景は現在の軍隊の使用地

城砦入り口

入ってすぐの戦術的坂道

アグラはムガール帝国3代目の大帝アクバルが首都をデリーから遷都してできた都である。朱砂岩の堂々たる構築物でまさに無骨な宮殿の様相である。入り口には「城」でなく「城砦」を表すfortと刻んであるのがいかにもそれらしい。現在は敷地を一部軍隊が使用しており、観光できるのは1/3ほどである。

大帝アクバルは自身イスラム教徒でありながら、ヒンズー教徒の妃を娶ったが故に、城内は双方の建築様式が混在する。入ってすぐ緩やかな坂道に出くわすが、ここは軍事的な意味があり、敵が襲来した場合油を流して食い止める構造になっている。

また入場してすぐの広大な庭の片隅に立つジャハーンギール宮殿はアクバル大帝時代から残る唯一つの建築物である。


真面目に説明するアンバルさん

イスラムとヒンズーの融合

これはイスラムの職人の技だ

このスモッグの先にタージマハルが・・。

噴水と内部謁見台

宮殿の中庭から見える柱や梁にはヒンドゥーとイスラム様式の融合を見ることができ、ここでも、愛妻家あるいは恐妻家の片鱗を見出す。強大な武力を背景に築かれたムガール帝国の内なる一面を感じることができ、時代を越えた流れが認識できる。その奥にはムガール様式のアングリー庭園があります

五代皇帝シャー・ジャハーンが幽閉後もタージマハルを眺めていたとされるテラスでは、生憎スモッグがひどくかき消されていた。5,6代皇帝により多く改築されたが、暑いインドを配慮して、風の通り道や冷房になる噴水、水路などが整備されたという。美的なタイル装飾や、彫刻もさることながら、これらの配慮が素晴らしい建築である。


川に面した妃達の居間

風を通す透かし彫り

イスラムの細工が施された居室

前面に噴水(冷房設備)がある妃たちの居室

この城楼からタージマハルを眺めたのだろうか

広大な庭園はタージマハルと同じような紋様で手入れがされ、謁見台が二箇所、内向きのものと、一般市民?向きのものとあったのには驚いた。王様はさぞ多忙だったんだろうなあ。随所に水路と噴水がめぐらされ、暑いインドで少しでも過ごしやすいようにと配慮していたのが面白い。こんな高いところまでどうやって水を汲み上げていたのだろうか?ちょっとした疑問である。

タージマハルを建設したシャー・ジャハーン帝はこの城塞に幽閉されたが、当の6代皇帝は高さ20mの城壁をなんと2.5kmに渡って築き上げた。武力を背景にしたムガール帝国らしい皇帝と言える。この城はその象徴とも言える威容を誇っていた。


俗に言うハレム

公謁殿と遠景は真珠のモスク

公謁殿前の広大な庭

柱列から庭をのぞく

インド紀行(5)ー愛妻王の墓標

2017-12-21 14:32:04 | 行ってきました

アグラのホテル(ジャイピーパレス)は立派なホテルだった

アグラの朝は少し早めで7:40分出発。いいホテルだったが出発が少々慌ただしい。その訳は現地チケット売り場を見て納得。すでにたくさんの人が並び、手荷物検査機(X線)を通し、ミネラルウオーターを配り、一人ひとりチェックをしている。修学旅行か遠足と思しき生徒たちもチェックを受けている。

切符売り場と入場門は別になっていて、各々検査を行っている。切符売り場の脇の木には大きな猿が枝から枝へと移り渡っていた。入場門は既に行列ができており、文字通り押し合いへし合いの状況。

この日は特別ではなく、いつもこんな具合だそうだ。朝からもう暑いが、民族衣装のアッパーッパーのおかげで快適である。庭園もよく手入れがされており、楼門(日本流に言えば山門)迄人が途切れることがない。

この楼門も立派なもので、イスラムの細かい細工が門の上まで施されている。この職人芸には文句なしに感動だ。


入場門が見えてきた

入場門は既に人でいっぱい

押し合いながら入場

中は広大な庭園

楼門の前で記念撮影

楼門のアーチを潜るといよいよタージマハル本体が姿を現す。直訳すれば「王冠宮殿」なのだろうが、この建物は廟である。ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが后のムムターズ・マハルの遺言に従って建てた廟である。

后の遺言は「後世に残る墓」というものだったが、巨費と22年間の歳月をかけ建設された。自身の墓は北を流れるヤムナー川の向こうに黒大理石で建設する予定だったが、皇子に幽閉され叶わなかった。

この廟を作った大工の指を切り落として同じものを作らせないようにしたとか、廟の左右に同じ形のモスクを立て、地盤沈下を均一にしたとか、愛妻家というより恐妻家と言ってもいいくらいのこだわりようである。


見えた!

優美な姿

まだ噴水が吹き上げていないので水に姿が映る

これぞ世界遺産
向かって左にあるモスク(右にも同じものが立つ)

イスラムの世界では極楽は左右対称にできていると言われ、建物だけでなく庭園も見事な左右対称で形作られている。入場当初はまだ噴水が通水していなかったので池や水路の水面に映る白い建物が優美であった。

棺(ここもフマユーン廟と同じくレプリカ)のある二階には土足禁止なので靴カバーをかけて登る。間近で見る廟は白く輝き、ある種の神秘的な厳かさを感じさせる。人の背の二倍位までの高さのものは盗まれたのだそうだが、天井近くの装飾に使われている宝石は健在だ。

建物の壁にはコーランが彫られ、宝石で文様が飾られている。こういう彫刻がやりやすいように、アラビア語は右から左へという流れになっているそうだ。この建物は遠近法の逆で上の方へ向け少し広げてある。また四隅の尖塔は外側に3度傾けてあり中側に倒れないような工夫がしてある。

棺のある部屋へ入ると回りにいるガイドが何やら英語で話しかけてくる。懐中電灯で装飾の宝石を照らすと赤い光が周りに広がる。細かい細工と白い壁、ルビーの朱が暗闇に浮かび上がる。感心していたらそのガイドが「チップ、チップ」と宣う。どうりで親切なはずだ。「申し訳ない。金は持っていないんだ」とお断りして外に出る。


廟内は土足禁止なのでカバーを着用

壁面にはコーランが彫刻されている

上部にはルビーなどの宝石が残っている

四隅の尖塔は外側に三度傾けてある

楼門も左右対称

順路に従い大理石の部屋を通って外に出る。裏側のテラスへ出るがすぐ下はヤムナー川。シャー・ジャハーンが意図した自分の墓はこの向こうに立てるはずだった。タージマハル建設で資力も気力も使い果たしてしまったのだろうか。

絵葉書などで見るこの建物はそれなりに美しいが、来てみるとその荘厳な雰囲気はやはり現地でしか味わえない。豪華ではあるが、花嫁のような清楚な美しさを感じた。


帰途は脇を通り
楼門の左右の柱列

オートリクシャーに乗る

五分ほどで出口へ

雑踏の国インドへ(4)ーデリー→アグラ

2017-12-18 14:12:53 | 行ってきました

クトゥブ・ミナールチケット売り場

この尖塔と横のモスクが世界遺産 72・5m

モスクを抜け尖塔の直ぐ側へ

二ューデリーの南郊外約15kmに位置するインド最古のイスラーム遺跡群。1192年、後に奴隷王朝を打ち立てるクトゥブ・ウッディーン・アイバクが、北インドを制圧した記念に建立したのがクトゥブ・ミナールです。本来は礼拝の時を知らせるためのものですが、国内のヒンドゥー教徒たちに対するイスラームの勢力誇示という意味合いが強かったようです。

見上げるクトゥブ・ミナールの高さは約72.5m。5層からなる塔の壁には、コーランの章句やアラベスクが刻まれ、辺りを払うほどの気品と威厳を漂わせています。その傍らに立つのが、クワットゥル・イスラーム・モスク。破壊したヒンドゥー寺院の石材を再利用したため、偶像崇拝を認めないイスラームにありながら、回廊の列柱に女神像が残るという不思議
なすがたです。


旧ヒンズー寺院跡 前の鉄柱は1400年前のもの

旧寺院の柱列

未完のアライ・ミナール。完成すれば100mを大きく越えると言われる。

これでデリーの観光を終え、タージマハルのあるムガール帝国の都アグラへと向かう。その前に昼食。タンドリー料理=タンドリーとは釜という意味。タンドリーチキンは窯焼き鳥ということです。しかし結局出てきたのはチキンとカレー。結構美味しいのだが毎食カレーというのは「ちょっと」というところだ。

昼食

昼食を終わって一路アグラへ。ムガール帝国の都で人口は100万を超える。ヒンズー教からジャイア教、仏教が生まれ、ユダヤ教からキリスト教、イスラム教が生まれた。前者は多神教、後者は一神教である。ムガールは当然イスラムであるが、案内によると出てくる王様は人並み外れた愛妻家である。

それはさておき、アグラではまず明日のタージマハル見学の折の民族衣装店に直行。男はステテコに上はネールの着ていたようなアッパッパー、女性はサリーか上っ張りみたいな衣装である。ブータンの時は、着付けに現地の人が立ち会ってくれたが、その時よりは簡単に着れるのですぐに色合いだけ選んで決めた。旅の彩りである。

夕方ホテルに付いたが、ここも立派なホテルである。うっかりすると迷い込みそうな廊下がいくつにも分かれている。中庭で結婚式が始まり、民族楽器で音楽が流れ、きらびやかな隊列を組んで行進が始まる。まるでちょっとしたお祭りである。

夕食は地下のレストラン。そこらの物価に比較してアルコールの値段が高いように思うが、旅先ゆえ細かいことは言わない。この夕食もカレー中心のメニューであった。


民族衣装店

アグラの街角

ジャイピーパレスホテル

ガイドアンバルさんと添乗員木村さん

ホテルでの夕食 もちろんこの他にカレーもある

雑踏の国インドへ(3)-タージマハルの原型

2017-12-17 15:29:07 | 行ってきました

入場チェックー屋外でのんびりと

城壁の間から中間門を望む

入り口脇の遺跡

門を潜り中へ

振り返れば立派な門だ

デリーでの入場観光はフユマーン廟から始まった。16世紀半ばに建てられたこの廟は世界遺産に登録されており、ムガール帝国2代皇帝フユマーンを悼んで死後王妃が立てたという。後で知ったのだが、タージマハルは后を弔うために豪華な廟を建設したのだが、ここは逆に王妃がたてたというのが面白い。

二代皇帝フマユーン。フマユーンは一時、弟達に国を奪われてしまい、ペルシャに身を寄せたことがあったが、再び奪還するなど波乱の生涯を送った。そんなフマユーン王を不憫に思ってか、王妃の指示により豪華な墓が9年の歳月をかけて建設されました。その美しさはタージマハールの建築時に手本にされたほど。

戦いに敗れ帝国領土を失い、約15年もの長い間国外亡命を余儀なくされ、ほとんど実績がなかった皇帝であったにもかかわらず、この廟によってフマユーンが歴史に名前を残す事が出来たといっても過言ではないのです。やっぱりかみさんが偉かったんだ。

建物は赤砂岩で作られ、精緻な彫刻がイスラムの職人により施され、2階には王や親族の棺が安置されている。本物は地下でここで見ているのはレプリカである。建物は正方形、庭園も含め左右対称に作られている。

遠足なのか中学生くらいの生徒が集団で挨拶を交わしながらすれ違う。家内は廟の前で取り囲まれ、握手攻めにあった。外国人が珍しいのだろうか、親日なのだろうか、それとも中韓と間違えているのだろうか。いずれにしても明るく接してくるのが楽しい。


左右対称で美しい

赤左岸造りの立派な建物

王の棺(レプリカ)

吊り下げ式の燭台

親族の棺(レプリカ)
天井のモザイク文様