遅いことは猫でもやる

まずは昔メールした内容をひっぱってきて練習...
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50周年式典

2010-05-28 14:02:54 | 雑感

刈谷青年会議所が創立50周年を迎えた。

会場は新装成った、1500人収容の総合文化センター大ホールである。
歴代理事長を壇上で紹介したいといわれ、出席をしてきた。

30代に血を滾らせた、懐かしい青春の組織である。
しかもこの団体が得意のセレモニーである。受付のお出迎えから、休憩室、説明
会、リハーサルと、本当に行き届いた応接を受けた。

セレモニー好きの本性で、ただ登壇して頭を下げるだけなのだが、完璧を目指し
てリハーサルを行う。何回もやり直し、細部まで行き届いた、念の入れようだ。

未来があるというのは羨ましく、また気持ちが良い。新しい時代は自分たちが作ってゆくのだ
という自負心が気持ちが良い。先ごろ出席した組合の総代会とは雲泥の差である。

リハーサル、本番でライトを浴びながら客席を見渡したが、これは芸人であれば
こたえられないシチュエーションだと思う。客席が満員ならば尚更だ。

たぶん現役メンバーはこんな気持ちで毎日を過ごしているのだろう。祝辞で民主
党の大西健介議員は「若さは才能である」といわれた。才能であるかどうかは議
論があるが、その時でなければ味わえない特質であろう。

少しだけ40年前に戻って若者と交流できた。


仕分けが必要?

2010-05-27 13:03:16 | 雑感
印刷工業組合のに三河地区の総代になっているので、年に一度の総代会に出席してきた。

弱小業種で、しかも不況の影響がじりじりと出てくるわが業界は活気の無いこと甚だしい。

業界の発展を期して運営するのだろうが286社のうち16社が脱退している。
10年前に比べ、経産省の施策下請けの要素はいまや少なくなった。従って助成金、金融援助、税制促進などの振興策も細々としかない。

かといって逆に振興施策の提案活動をしていると言うわけでもなさそうである。

弱小団体なので、天下りの人の受け皿にもならないし、教育、研修などの啓蒙活動、相互親睦活動・合同リクリエーションなどもやっているが、ほとんど形骸化している。

お定まりの挨拶、事業報告、監査報告、次年度組織承認と淡々と進み、懇親会へ。

いったいこの団体は何のために存在しているのだろうか?こういう団体が仕分けの対象になっているのだなあと、組合の存立を疑問に思う会合であった。


桶狭間合戦の謎

2010-05-25 12:45:34 | 

前回参加した桶狭間合戦450周年の時に聞いた謎が、「歴史街道」6月号に記載さ
れている。興味があり読んでみた。

論点は
1.今川軍の兵数
2.今川義元の出陣目的
3.信長軍の攻撃は迂回か正面か
4.今川軍の陣地はどこか
などである。

我々の頭に通常残っているイメージは、織田信長は上洛しようとする10倍以上の
今川軍に対し、尾根裏を進撃し、風雨に紛れて一挙に敵の側面を突いた。桶狭間
の窪地に陣を敷いた今川軍は、昼間から酒盛りをし油断をしていた。そこへ山の
上から殺到して首を取った。というくらいのものだ。

このイメージは、明治に刊行された参謀本部編纂「日本戦史 桶狭間の役」に拠
るものであるが、この書は史料的価値の低いものに依拠ししかも事実関係と合致
しないことがたた見つかり、現在は史家により修正されつつあるとのことだ。

1.今川軍は25000としても、農民や他の職業のものが8割近くおり、3000対5000
くらいの差ではなかったか。
2.上洛目的であったとの記録はどこにも残っていないし、当時はまだ斉藤(美
濃)、六角(南近江)氏などが割拠しており、一気に上洛という情勢ではない。
尾張平定が目的であっただろう
3.4.当時の常識から言えば、陣地の設定はできるだけ高いところにする、と
いうのが定説であり、それを覆す事情は見当たらない。従って信長公記に記述さ
れているように山の上に陣取る義元軍に正面から挑んだのだろう。折からの強い
雷雨が、信長軍の接近を隠し、武器も落雷の恐れがあるとして遠ざけたのではな
いか。
というのが郷土史家梶野渡氏たちの推定である。梶野さんは大戦では歩兵の経験があ
り、それらの体験からも推測を修正して、立論して面白い。

私たちがイメージし、経営戦略の参考ともした桶狭間の合戦も史実と現地を丹念に調べると別の
様相が出てくるのが興味深かった。この雑誌はかなり面白かった。

桶狭間合戦 450年祭

2010-05-18 11:46:26 | 行ってきました
古戦場公園

今年は桶狭間の合戦450周年に当たるという。
戦国の当時、このあたり(緒川、半田)を差配していた中山一族の末裔が私の知
人にいる。殿様の血筋だ。東北出身の美人の奥様をもらい、亭主関白を決め込ん
でいるが気さくな男である。

彼からの誘いがあり、このお祭りに参加した。450年祭とあり大変な人出である。
信長、義元の銅像の除幕式があり、名古屋市の河村市長も出席していた。



左 信長 右 義元

河村市長の挨拶

彼は挨拶で、信長は道路や橋などの土木工事も合理的につくり、楽市楽座で税負担を軽減して、
まさに近世の扉を開いた。今で言うと無駄減らしと減税である。河村氏はちょっと我田引
水のきらいはあるが、彼の果たした役割をうまく説明していた。


長福寺にある追悼碑
長福寺境内の案内板

左 長久手郷土史家中野さん 右 桶狭間郷土史家梶野さん 

近年郷土史の分野では、今まで通説になっていた合戦の場所、義元が討ち死にし
た場所が少し南西であったということがいわれている。(「歴史街道」6月号参照
ください)友人はさすが殿様の血筋だけあり、地元の人にも顔が広い。

その顔で郷土史研究家の梶野渉さんと長久手から駆けつけた長久手町郷土史研究
会会長の中野さん前田さんなどにお話を聞いた。

どうして、現在の場所に特定できたのか、という質問に、①当時の兵法では「陣は
できるだけ高いところに置け」というのが常識である。従来の場所では低すぎる
②義元は輿で移動した。道が整備されていないところは避けるはずである。以上
の地形から推測すると現在の古戦場公園の上あたりでは無いかというのが理由で
ある。

織田軍は3間5尺の長槍を使ったが、それは突くより、馬上の武将を叩くためであ
る。この柄はどんな材料で作ったのかまだ定かではない。梶野さんはご自分の兵
役の経験を交え、史実の検証を行い話題豊富である。郷土史家同士すっかり話が
弾んでいたようだ。

信長の勝利に最も寄与したのは「夕立」である。近づく軍勢の足音を消し、落雷
を恐れる今川の兵士は武器を手放し、雨により気勢をそがれた。など夕立が戦いに及ぼした影響をいろいろ説明をしてくれた。

鳴子踊り
おもてなし武将隊
観客は追っかけとおぼしき女性たち
桶狭間太鼓

ライブが続く

町民1万人のところに観客が12000人集まりすごい盛況であった。鳴子踊りや、桶
狭間太鼓、おもてなし武将隊、一人語り(講談)、オカリナ、尺八、謡い、ギター、ライブ、万灯会などたくさんのイベントで8時過ぎまで盛り上がった。

万灯会(まんとうえ) 池に灯火が映り幻想的であった。

近世の扉がこの地で幕を開けたかと思うと感慨を覚えた。


御柱祭 建て御柱(写真集)

2010-05-05 09:24:50 | 雑感
御柱祭のフィナーレを飾る「建て御柱」が行われた。

上社本宮の境内で木遣りや喇叭(らっぱ)、「エイサー」『エイサー」の掛け声にあわせ、徐々に
柱が立ち上がってゆく。柱のてっぺんには選ばれて大役を務める「御幣持ち」が登り、後をおんべを持った若者が立つ。

本宮境内は観衆で満員となり、御柱街道には参加各地区の休憩所が立ち並び、諏訪太鼓の演奏も街角で行われる。祭りを満喫した。


参道には人人人


街道に並ぶ休憩所。左前は行列の頭


境内で披露される木遣りと太鼓


建て御柱を待つ人々


柱を建てる準備をする


準備を見守る境内の人々(基本的には氏子限定)


徐々に立ち上がってゆく御柱


博物館前で披露される諏訪太鼓の演奏


5月の空には鯉幟、御柱記念品


御柱祭 里曳き

2010-05-05 08:24:30 | 行ってきました



我ながら良く遊ぶと思う。

御柱祭・里曳きを見てきた。
先月山出しを終え御柱屋敷に納められた御柱を上社本宮、前宮へ曳行し建てるのだ。

何か今回は華やかである。沿道に各町内のお休み所が林立し、酒を酌み交わして
いる。祭り気分が横溢している。



各町内旗と喇叭隊

ゆっくり、休み休み曳いて行く。御柱音頭の合唱、木遣り、喇叭隊の演奏と、賑
やかだ。狭い街道一杯に各町内の旗が翻る。「エイサー、エイサー、の掛け声が勇ましい」

先月の山出しの時の緊張感とは違って、沿道の人たちとの交流も盛んで、好天と
もあいまって、和やかである。


一日の行事を終え、お礼の挨拶

各柱が上社に入ると、花火が打ち上げられる。神社に入ると、本日の無事とご苦
労に感謝して、お礼の言葉が曳き子に発せられ、一日の行事を終えた。

明日は建て御柱である。無事に成し遂げられることを祈りたい。
今週末は下社の建て御柱である。



15kmのウオーキング

2010-05-03 12:45:03 | 雑感

連日の好天気が続くGWに、ウオーキングに出かけた。
さわやかウォーキング常設コースの、東海道どまん中「ふくろい」花と歴史のふる
里ウォークコースである。

可睡斎、油山寺、千鳥が谷池などが主なポイントである。


可睡斎山門、本堂

春霞の中袋井駅に到着。駅前のお菓子屋の「柏餅」の張り紙に誘われ、よもぎ餡
柏餅を購入。宇刈川沿いに遡る。一時間ほど歩いて、可睡斎へ到着。牡丹園があ
り、まもなく見頃を迎える。ここは何度も来ているが、今回は参拝客が比較的少
ない。本堂、本堂前の庭に蜥蜴が走っていた。門前に牡丹が植わっていた。


巨大な火箸と十能 アイシン精機、アイシン高岳寄進である


巨大下駄



可睡斎天狗の像に守られている

本堂の脇にも天狗面が沢山



藤が満開だ



ここから、油山寺へ向かう。ヤマハのテストコース横を通り、山の藤が盛りの里
山を通って油山寺へ。ここは眼と健足にご利益がある。静かな境内にツアー客が
大勢来て、いっぺんに賑やかになった。
ルリの滝、三重塔を経て、薬師本堂へ。ここは今川義元を祀ってあるとのことだ。





るりの滝


天井の鳴き竜が特徴

駅前で買った柏餅で一服した。ツアー客も帰り静寂を取り戻した。地元の参拝客
によればここは3本の指に入るほど古いお寺だとのこと。


里山の道


千鳥ガ谷池




旧東海道松並木

里山の道を下り、千鳥が谷池へ。人工のため池だがここも藤が咲き、静かに水を
湛えていた。池を巡る遊歩道を一巡りして帰途へ。

15kmを約4時間30分かかり、起点の袋井駅に。さすがに少し疲れた。駅前でか
るくいっぱいやって、東海道線に乗った。


岡田ジャパンは勝てるのか

2010-05-02 08:12:22 | 雑感



連休の初日,Jリーグ名古屋×山形線を見に瑞穂グランドへ行ってきた。

観客13500人の入り。まずまず。サポーターの声が競技場に響く。山形サイドはさすがアウェー
で200人ほどだが精力的で、決して負けてはいない。真っ赤に染まる名古屋サイ
ドとは対照的に、空席半々のところに、縦長に陣取り、声をからす。野球とは一
味違う、応援が面白い。

試合は前半七分にグランパスが金崎-ケネデイで先制。その後、ボール支配率は
圧倒的に高いのだが、なにやらもたもたしていると感じていたが、40分(?)に
同点にされてしまった。実力差からいえば、5-0くらいあると思われる(代表クラスだけで7人もいる!)
個人能力の差が、一向に発揮されない。

後半も同じように、もたもたしている。時折見せる玉田のドリブルくらいで、チャ
ンスメークが少ない。逆に山形の攻撃のリズムがついてくる。おまけに良い動きを
していた金崎が負傷交代する始末。今日は格下相手に引き分けかという予感さえしてきた。

やっと終了間近に、トゥーリオのパワープレイが実り、2-1で勝利。
最近の岡田ジャパンの試合を見ているようだ。なんとも、ストレスのたまる試合
だった。こんな状況でワールドカップは勝てるのだろうか、と連想してしまう?



スポ-ツ評論家杉山茂樹の「決定力不足でもゴールは奪える」(双葉新書)の指摘が頭をよぎ
る。彼の提言はこうだ。

1.「決定力不足」というのは戦略、戦術の不備を選手個人に責任を負わせる 
  ものだ。イージーゴールチャンスを数多く作るのが監督の役割。
2.中盤(MF)全盛の意識を改め、FWのゴール中心の組み立てをすべき。
3.ゴールラインからのマイナスのパスからのゴールが最も確率が高い。
4.中央偏重、パス交換より、サイド攻撃、ドリブル攻撃が有効。

中よりサイドの方が突破しやすい、というのは検証が必要であろうが、岡田監督の個々の場
面の采配非難をするのではなく、戦略面から現状批判をし、しかも彼なりの解決
策提言をしている姿勢は評価できる。

確かにこの試合でも、右サイドバック田中隼磨と金崎の連携で、右サイドを駆け上がる
という意識は希薄で、金崎は中のサントスやブルザノビッチ、ケネディとのパス交換が多かった。
ピクシーも岡田ジャパンと同じ采配をしているのだろうか?
この頃の代表は、オシムの頃より選手に挑戦意欲が欠けているように見える。

これでベスト4の可能性があるのか?不安が一杯である。

というような見方ができて、いつもより関心が深まった試合であった。