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少し前になるが、1997年産経新聞10月2日夕刊に掲載された記事に次のようなものがあったという。
米国ライフ誌が紀元2000年の到来を控えて、過去1000年間における重要な出来事と人物の百選ランキングを発表した。
「最も重要な出来事に選ばれたのは、ドイツ人、グーテンベルグによる1455年の聖書の印刷。同誌によると、活版印刷技術そのものの起源は中国、韓国が早いが、宗教改革を刺激した他、聖書の普及で特定階級のものだった読み書き能力が大衆レベルに広がり人類の情報革命の先駆になったとしている。また二位にはコロンブスの米大陸発見が挙げられている。」
これを読んで、活版印刷術の発明と普及が後世に与えた影響は、それほどまでに大きかったのか、といまさらながら感じいる人も多いのではないでしょうか。
1455年、グーテンベルグが行った金属活版印刷は俗に言う「42行聖書」であるが、私もそのレプリカを2000年に渡欧した際、ドイツのマインツにあるグーテンベルグ博物館で求めてきたものだ。
この原本の一つはなんと日本の慶應義塾大学にある。1980年10月アメリカで競売にかけられていたのを、丸善が7億数千万円で落札し,1996年に慶応大学が購入した。
実は慶応大学の創始者福沢諭吉は文久二年(1862)遣欧使節団の一員として、サンクト・ペテルブルグの帝室図書館を訪れ、この聖書をみて、活版印刷を認識している。訪問者として福沢のの署名が残っている。
「学問のすすめ」を現した福沢諭吉であるから、当然この印刷についても関心があったに違いない。
諭吉がぺテルブルグに滞在したおりに残した走り書きには、「1440独逸にて出板/ラテン語の書批を/欧州第一の板本/なりと」とある。(原文のまま。板は版をさすと思われる)
「学問のすすめ」は当時22万冊(日本の人口3500万人)の大ベストセラーであったが、当然金属活版活字で印刷されたと思われる。世界の進歩に寄与したグーテンベルグの作品が、翻って日本の進歩にも寄与したかと思うと、何か因縁を感じる
グーテンベルグの発明は、活版活字による組版、紙への印刷(プレス)などである。
手書きで書写するか、この後も平行して行われた木版刷りに比べれば、この方式は複写能力、耐久性などが格段に優れていた。
活版印刷術が普及した原因は、一つには製紙法の普及により、紙が出回った事であるが、社会的には宗教改革による教会の文書合戦という事情も大きい。
可動式の金属活字を使った印刷術はこの背景の中、瞬く間にヨーロッパ全土に広がった。この工程は、活字を組む文選工、インクを付けるインク工、印刷を行う印刷工の3人が分担した。
二色刷りの場合はこの倍の6人で行う。1000ページにもわたる42行聖書は当然複数ページを同時平行して印刷したのだろうから、6の倍数の膨大な人手が要ったのだろう。着手から販売までの時間的な経過を考えると、グーテンベルグがフストへの借金返済を滞らせたのは、充分うなづける。
印刷による正確な伝達は、宗教界に聖書とその教義を巡って、軋轢を生み、カトリックは「禁書目録」を発行して統制を図ったが、逆にプロテスタントは、そこに挙げられた図書を読み漁るようになり、「禁書目録」は意図とは逆に、聖書の販売促進の役割を担ってしまった。
「第二グーテンベルグ革命」といわれる現在のデジタル化、インターネットの普及は何をもたらすのであろうか?我われはじっくり考えてみる必要がある。
グーテンベルグは借金のかたに印刷機や活字などを差し押さえられた。
ヨハンネス・フストはグーテンベルグに800グルデンを利息6%で貸し、さらにもう800グルデンを貸し、貸し金総額は複利計算で2020グルデンになった(と訴訟記録にある)。この金額は年金額が12グルデン、本は結婚する娘の持参金代わりにもなった、当時からすると膨大なものである。街の家並み(家ではなく「通り」)がふたつ出来る程であったという。
それほど価値のあった発明というべきだろう。
完成度ーグーテンベルグの42行聖書は美しい活字で刷られている。一つの単語内の垂直な縦線は等距離で細めの横線がつなぎ、下線が揃っている。
レイアウトも、のど、天、小口、地の時計回りに余白が取られ、表裏の行もずれていない。現存する42行聖書は希少・歴史性だけでなく、美しいゆえに尊いのである。(レプリカ参照)
発明ー美しい書体のデザイン、組版、省略記号付き活字、鉄製の活字父型、銅の母型、鉛活字、顔料によるインキ、見当合わせ装置付き印刷機、4ページ表裏の印刷、などなど、つい30年ほどまでやられていた活版印刷の原型は、殆ど彼の発明の中に含まれている。
誕生日ー印刷業界では6月24日をヨハンネス・グーテンベルグの誕生日として祝っている。当時の教会の慣わしで、その日に祝う聖者の名:ヨハンネス祭が6/24である事からの類推である。歴史的には実証されていない。
また、彼には髭はなかったらしい。研究者によると、あの時代都市貴族は長い髭をたくわえなかった。長い髭は巡礼、或いはユダヤ人の象徴だった。後世の画家や彫刻家が、預言者的狂信性、意思的な行動力を表現するために付けたのだろうと思われる。
以上連休の暇つぶしにでもなれば嬉しい。