吉良邸跡史跡全景
跡地表示の石碑
史跡公園内全景
公園内松坂稲荷
12月14日は忠臣蔵赤穂浪士47名が討ち入りした日である。両国駅あたりを散歩していたら、「吉良邸跡」のモノクロの幟がはためいていた。たどってゆくと都指定旧跡吉良邸跡(本所松坂公園)と碑が刻まれている小さな公園に出た。
公園と言ってもなまこ壁がめぐらされ、門がある屋敷跡みたいな空き地である。門をくぐると吉良様の坐像が目に入る。ここが忠臣蔵で名高い吉良邸跡の一部だそうだ。みしるし洗い井戸が片隅にあり、討たれた家臣20名の碑、上野介追慕碑、稲荷神社などが並ぶが、広さはせいぜい100㎡のこじんまりしたところである。
備え付けのパンフレットによれば、吉良家上屋敷は東西73間南北34間2550坪の広大なものだったという。この公園は昭和9年地元両国3丁目有志がが発起人となって、ここの土地を購入し東京市に寄付をしたものだそうだ。当時の1/86の規模だが、おかげで吉良公御首洗いの井戸も保存され、貴重な旧跡が維持された。
三河の吉良では新田の開拓や塩業の発展に尽くした名君として親しまれ、華蔵寺では赤馬祭も催されている。それを実感しているだけに少し反発したくなる忠臣蔵の語り口である。勧善懲悪、忠君奉公という国家主義の思想につながるストーリーである。
冷静に考えれば、国会の中で拳銃をぶっ放した暴漢が、死刑に処せられ更に恨みつらみを募らせ、後年、組の仲間と仇討ちをするという、徹底したルール違反を賛美する物語である。聞けば義央は賓客を応対することにかけては天才的才覚を発揮していたようで、かなりのインテリだったらしい。討ち入りの際吉良の家臣は20名殉職をしており、多勢に無勢の中、かなり抵抗したと思われる。赤穂義士の方は死亡者ゼロだったのだろうか。
江戸・東京には到るところにこういった史跡があるのが退屈しない所以である。
吉良上野介義央像
吉良家家臣二十士碑