昼食後、アンドー氏の言う「第三ステージ」に移行しました。祇園から六波羅界隈を散策して四条大路に戻る、というものでした。八坂神社前のローソンで飲み物を補給し、花見小路に進みました。
花見小路界隈は、古い街並みの景観が保たれて独特の歴史的風情が味わえるコースの一つです。祇園のメインルートですが、江戸期までは建仁寺の境内地であった地域で、現在の街路と街並みが形成されたのは明治になってからです。なので、古い街並みといっても明治、大正期頃のそれなので、江戸期までの街並みによく見られる重厚さがあまりありません。
途中の店舗の店先にある、四条小橋の旧欄干標柱です。四条小橋とは、四条大路の高瀬川に架かる橋のことで、明治8年に架け替えられて不要になった標柱が競売に出され、これを現在の店舗の初代店主が買って店先に飾ったものです。この時期の石製欄干標柱は、現存例が少なくなっていますので、貴重です。
花見小路の南端は、建仁寺の東門に接しています。アンドー氏は「境内を通ってゆくのもええけどさ、安井社や法観寺塔を見ながらのコースがええかもな」と言いました。
「それでいくと六波羅へは遠回りになるんかね?」
「いや、距離的には100メートルぐらい延びるだけですよ。法観寺塔は下まで行くんですか?」
「塔が望める場所まで行けたらええわ」
「そんなら安井神社の参道筋まで行きますか」
「星野はこのあたりの地図はだいたい頭に入ってるのやねえ」
「八坂から東山、六波羅、五条、七条あたりは庭みたいなもんですよ・・・」
建仁寺の公式サイトはこちら。
建仁寺東門前から小路を東に折れて少し進めば、右に安井社こと安井金毘羅宮への裏参道があり、そのまま社殿の前庭に入れます。縁切り縁結びのパワースポットとして人気がある神社なので、若い女性が沢山集まっていてお札をいただく行列を作っていました。アンドー氏が話しました。
「お札のことをここでは形代って言うらしいが、これは本来は依り代のことであって、神霊が依り憑く依り代の一種であるわけやな。それで人間の身代わりとして参拝者がこれを持って奉納して、自身の罪とかケガレとか災厄などを形代に移してお祓いを受けるんやが、ここでは縁切りと縁結びの祈念を形代に込めて神前に報告し加護を受ける、というわけや」
「災厄駆除というのが形代の本来の機能だったらしいですね」
「せや。つまりは縁切りの方が、元々のお祓いの対象になってたんやろうけど、それに合わせて縁結びの方も面倒をみるようになったんやろうな」
境内の有名な「縁切り縁結び碑」は相変わらず無数の形代を貼り付けられて真っ白になっていました。
安井金毘羅宮の公式サイトはこちら。
安井金毘羅宮の参道筋をたどって東山通に出ると、車の往来のなかを観光用人力車が走っているのが見えました。
交差点からは、法観寺の五重塔が見えました。俗に「八坂の塔」と呼ばれる室町期の建築で、二層目まで一般公開されています。国重要文化財の塔婆の中に出入りして登れる所はあまりありません。ただ、公開日が不定期なので、私自身も、20年ぐらい前に一度登ったきりです。アンドー氏は高所恐怖症なので、塔に登ること自体が「有り得ない」そうです。
法観寺の観光案内情報はこちら。
南に進んで二つ目の辻が、有名な「六道ノ辻」です。そこから西に進んで六道珍皇寺へ行きました。
「かつては鳥辺野(とりべの)と呼ばれた広大な葬送地やなあ」
「そうですね」
「葬送地としての歴史は平安時代にもう始まっているんだっけな?」
「というよりも、平安京の東の端が鴨川で、そこまでが「この世」、そこから外側は「あの世」で具体的には都の葬送地といった性格があったみたいなんですね・・・」
「葬送地っていうと聞こえはええが、実態は死体の捨て場みたいなもんやろ。今でも工事をやったら人骨がゴロゴロと出てくるんかな」
「出るでしょうね」
六道珍皇寺の境内に入りました。ここでも観光客が何人か参拝に来て行列を作っていました。アンドー氏はずっと平安京の葬送地について考えていたらしく、こう話しかけてきました。
「なあ、前に星野に教えてもらったことなんやが、平安京の葬送地って何ヵ所かあったんやってな」
「ええ、地名に「野」がついてる土地は大体そうですよ。大原野、嵯峨野、紫野、化野、蓮台野・・・」
「えっ、嵯峨野や蓮台野もそうやったんか。しかし、何か地名がこう、そのまんまなんやなあ、紫野なんか死体が紫色になって腐り始めることに因んでるやろうし、化野なんかお化けでストレートやないかい・・・」
「化野の化(あだし)は藤原期の日本語では「悲しい」「儚い」っていう意味なんですよ」
「そうなんか・・。こっちの鳥辺野ってのは、鳥葬や風葬の地ってことなんやろうね」
「多分そうでしょう。古代の日本では火葬が広まったとか言われていますけど、それは上流階級のことであって、庶民の多くは土葬か風葬がメインだったんですね。奈良時代に平城京が栄えていた時期だって、庶民が死ぬと死体を山に捨てて放置していたわけですからね。それは要するに風葬であるわけで、鳥が死体をついばむから鳥葬でもありますね。ここ鳥辺野は、平安期の葬送地としては最も古い歴史があるらしいんで、その葬送地の中に建てられた供養堂が、後に発展して現在の清水寺になりますからね」
「せやな。民俗学的にみるとな、本来の日本人は自然崇拝が信仰の中心やったから、葬送の有り方やって、原則としてはそのまま自然に帰す、自然の中で土に還す、ってのが基本やったはずなんや。土に還すことで新たな生命の息吹を期待して神に祈り感謝する、ってわけやな。やから、風葬や鳥葬が日本では古い葬送習俗にあたるというのは当然なんや。東北や九州の山間部じゃ、今でも風葬や鳥葬が残ってるらしいからなあ」
その鳥辺野への入口に位置して、葬送の儀式の場ともなったのが六道珍皇寺でありました。六道珍皇寺の公式サイトはこちら。
寺の境内には、閻魔堂と呼ばれる小堂があります。内陣には閻魔王、弘法大師、小野篁が並んで祀られています。小野篁に関しては、夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝承が広まっており、宮廷歌人としての経歴よりもそっちの方で有名になっています。パワースポットの一つになっているため、この日も若い女性の参拝客が何人か居ました。
六道珍皇寺から東は鳥辺野ですが、西は六波羅と呼ばれた武家政権の伝統の地になります。地名にもそれが伝わっており、六波羅を六原と表記する地区も見られます。というよりも、もとは六道辻に通じる原っぱという意味で六原と書くのが古い表記であったと思います。
この地に天台宗が一寺を創建し、後に六原の地名にちなんで六波羅蜜寺と改名しましたので、仏教的色彩を持つ六波羅の字が、やがて地名になったもののようです。直接的には平清盛政権の六波羅第、鎌倉幕府の六波羅探題の設置によって、武家の地としての色彩を急速に帯びてその軍事力をも象徴する代名詞にもなりました。
六道辻から六波羅に至る三叉路の突き当りには、幽霊が水飴で我が子を育てたという伝承を伝える店が今も営業しています。
商品名も「幽霊子育飴」と古い看板に書かれます。テレビで放送していた「まんが日本昔ばなし」にも「子育て幽霊」のタイトルでこのお店の伝承が紹介されていました。アンドー氏もそのことは知っていて、いつの間にか「ぼうやー、良い子でねんねしな、今も昔も変わりなく・・・」と「まんが日本昔ばなし」の歌詞を口ずさんでいるのでした。
平安京屈指の名刹、六波羅蜜寺に着きました。私にとっては青春の思い出の地の一つであり、専攻の藤原彫刻史の研究において重要な遺品群が伝わるため、何度も通った寺院の一つです。
なので、アンドー氏が「ここだけは記念写真を撮っておいたほうがええ」と言って一枚撮って下さいました。この寺には何度も来ていますが、記念写真を撮ったのは十数年振りでした。
本堂に参拝し、裏手の宝物館で仏像などの名品群を鑑賞しました。というより、アンドー氏に解説していた時間の方が長かったです。その後、本堂前に出て、脇の古い五輪塔を見ました。
「おい、平清盛の塚って書いてあるで」
「単なる俗称ですよ」
「そうやろうな、実際の墓は福原の地(現神戸市)とかにありそうやもんな」
「それは多分正しいですよ、平家物語では、摂津の経の島に埋葬したと書いてますからね。でも今の神戸能福寺の平相国廟とは多分違う場所やろうと思いますけどね」
「要するに、どこにあったかは分からなくなってるわけやな・・・」
境内地の一角に、古い礎石が一つ置かれています。その後ろの標石には、此の付近に「平氏六波羅第」及び「六波羅探題」が在ったと記されています。
「この近くに、武門の象徴、天下無敵の六波羅探題があったわけか」
「この南の通りが六波羅裏門通っていうんで、その南側の中学校あたりに中心施設があって、正門は南にあって五条通に面していたと思うんですけどね」
「そのイメージで大体合ってるんやないかね」
六波羅蜜寺の公式サイトはこちら。
六波羅蜜寺を出て、北の松原通を西に進んで鴨川の東の宮川町通に折れました。このあたりも古い街並みをとどめて歴史散策の人気ルートになっています。
途中のある料亭の店先には「京都日本酒倶楽部」の看板がかかっていました。お酒が好きなアンドー氏は、その前でピタリと立ち止まり、入りたそうにしていましたが、「今回のメインはアニメと歴史である」と自分に言い聞かせて再び歩きだしました。私はお酒があまり飲めませんので、こういったお店には全く縁がありません。
突き当りを左に進んで、鴨川に架かる団栗橋を渡りました。ここまで来ると四条通はもうすぐです。
橋の上でしばらく立ち止まり、鴨川の流れを眺めました。
こちらは東の木屋町通に沿った高瀬川の流れです。
木屋町通界隈も、最近は建物の建て替えが進んで現代的な街並みの景観にまとまってきています。この辺りには隠れ家的なカフェが多いせいか、観光客もかなり行き来していました。
四条河原町の交差点に来ました。向かいには阪急河原町駅があります。ここから河原町通を渡って西にしばらく歩きました。
最後の目的地、「B's Hobby京都店」に着きました。現時点では京都最大級の模型専門店で、私たちの模型サークルのメンバーもよく利用しています。私自身も、ガルパン戦車キットの製作を始めるにあたっての下見や模型用ツールの購入をこのお店でやっています。その時のレポートはこちら。
アンドー氏は、模型サークルの三代目会長を務めた関係で、このお店では常連客の一人になっているそうです。店員さんとも馴染みのようで、和やかに笑いを交えて雑談を楽しんでいました。
私は奥の戦車プラモデルのコーナーでドラゴンやイタレリなどの海外メーカー品を色々と見ていましたが、そのうちにアンドー氏がやってきて、「何か買うのか?」と訊いてきました。
「いま作っているガルパンの黒森峰チームの車輛で、マウスだけは対象外にしてるんで、代わりに劇中には出てない車輛を一輌加えてみようかな、って考えとるんです」
「ああ、以前にそんなことを言ってたとTさんに聞いたが、まだ買ってないのか。そうやなあ、ガルパンの黒森峰チームって全部ドイツ軍車輛やからな、劇中に出てるやつ以外で考えると、公式とかの設定内ではⅡ号戦車とか、そういうのあったよな」
「西住みほの好きな戦車、って設定になってるんですよ。でもⅡ号は小さくて迫力負けするんで、あんまり作ろうって気がせえへんのです」
「そうやろうな。ティーガーとかパンターとかエレファントとかの大型がずらりと揃ってるもんな黒森峰は。でもドイツ車輛でも、大洗チームにいるⅢ突とかボルシェティーガーは除外するんやろ?」
「そうですね」
「すると、どれになるかな、ガルパンじゃ車輛は全部屋根つきの戦車か自走砲やもんな・・・、でも大体の車輛は劇中に出てるやないか。ティーガーⅡやろ、ヤークトやろ、ラングやろ、あとⅢ号もあったな・・・、ヘッツアーは大洗チームに居るし・・・、うん、こりゃちょっと難しいな、候補がパッと思い浮かばんなあ」
「でしょ、だから私もあれこれ迷ってるんですよ」
話しつつ、棚の商品の数々を二人であれこれと見回していましたが、そのうちにアンドー氏が一つのパッケージを引っ張り出して、「これがあるやないか!」と低く叫びました。私もびっくりしました。
「あっ、これですか!これはいいですねえ」
「やろ?、これでいってみろよ・・・、待て、このキットやと、メリットがもう一つあるやないか!!」
その内容を聞かされた私は、目から鱗が落ちるに等しい感動に包まれました。そうか、その手があったか、と何度も頷きました。そのキットを購入したのは言うまでもありませんでした。
今回はアンドー氏も戦車プラモデルを一つ買って御機嫌でした。
「今日は色々と楽しかったな、ここの女神様の御加護だよほんまに」
その女神様とは、店の入り口のショーウインドーに飾られているベルダンディーの1/1フィギュアを指します。アンドー氏はこれを見るのが大好きで、京都に来たら一度は挨拶しておかないと落ち着かないのだそうです。ですが、「ああっ女神さまっ」のコミックやアニメ自体のファンではないそうなので、妙なものです。
しかし、何度見ても素晴らしい造形ですね。たぶんボークスの製品だろうと思うのですが。
四条高倉のバス停に移動中、佐賀鍋島藩屋敷跡の標柱を見ました。
「ここで、例の化け猫騒動があったんかね?」
「それは単なる伝説ですよ。鍋島家のお家騒動の方は史実ですけど、ここじゃなくて佐賀藩で起こっているので・・・」
「確か、旧主龍造寺氏の生き残りが再興をめざして鍋島藩を騒動に巻き込んだんやな」
「ええ、徳川幕府は龍造寺氏再興は認めませんでしたから、鍋島家の安泰は保たれたんですが、藩主鍋島勝茂は悶死をとげましたんで、それを龍造寺党の崇りだと噂されたりしたのも事実なんですね。化け猫騒動の伝説はそれを下敷きにして作られたフィクションなんですよ・・・」
四条高倉のバス停は、バス待ちの人々で混雑していました。四条通といえば京都市内でも賑わっている繁華街の一つであるのに、京都駅への直通路線は5系統の一本しかなく、それを観光客の大部分が利用しているので、どのバスも満員になっていました。あと一系統ぐらいは京都駅への直通路線を設けてくれてもいいと思うのですが、実際にはかつて三系統あったルートを一つに縮小してしまった流れがあります。四条から地下鉄が京都駅に連絡しているので、バスが無かったら地下鉄に乗って下さい、ということなのでしょう。
京都駅に戻ってきました。実際にはその後、駅前のヨドバシに行って模型コーナーを見て回り、付近の食事処で休憩を兼ねて早い夕食をとったりしましたので、駅でアンドー氏と別れて帰途についたのは、一時間余り後の午後四時過ぎでした。 (了)