
2015年8月の水戸、大洗行きを模型サークルの知人A氏と楽しんだ数日後、水戸の知人U氏が奈良に遊びにやってきました。斑鳩の古寺散策を共にしましたが、その際に「那珂湊でまたイベントやるらしいよ」と教えられました。那珂湊は大洗とは違った魅力を豊かに備えた地域ですので、これまでにも何度か訪れていますが、いずれも楽しく過ごせた思い出があります。
「そのイベントって、那珂湊ほのぼの作戦2のことやな?」
「知ってるのか、やっぱりな。それ、君は絶対に行くだろ?」
「那珂湊は面白い所なんで、いずれ必ず行く積りや」
「それなら、その機会に勝田の武田館も見てこいよ。まだ行ってないんだろ?」
「そうか、武田館が残ってたな・・・」
これまでの18回にわたる巡礼で、大洗のみならず周辺の各地域をも訪ねて歴史散策を楽しみ、未訪の地はほぼ無くなったかに思えたのですが、勝田にある武田氏館へは、まだ行っていませんでした。那珂湊とはおなじひたちなか海浜鉄道の沿線エリアですので、まとめて行くのもいいな、と考えました。
かくして、数えて19回目の大洗行きを、2015年9月29日から10月1日の二泊三日の日程にて実施、勝田および那珂湊をメインに訪ねました。29日の朝7時半には水戸駅に到着、いったん外に出て吉野家にて朝食を済ませました。

再び切符を買って、勝田行きの列車が入る4番ホームに移動しました。

8時31分発の勝田行きの列車に乗りました。水戸駅の次の駅なので、乗車時間も僅かでした。勝田駅で降りて、まっすぐに武田氏館へ向かいました。
徒歩でも行ける距離ですが、道順がややこしいのと、スケジュールが過密なので時間を節約したかったのと、付近まで行けるバス路線が無かった、という諸事情からタクシーを利用しました。運転手さんは愛想がよく、武田氏館や武田地域のことも色々と説明してくれました。歴史にも多少の知識があるらしく、見学ポイントも教えてくれましたので、今回のタクシー利用は正解でした。お蔭で道順もなんとか把握出来たので、帰路は徒歩でゆくことに決めました。

運転手さんは、武田氏館へ行くのなら、湫尾(ぬまお)神社から見学すると良いですよ、実際の武田館はその南側にあったそうですからね、と話しながら車を武田氏館の南隣の湫尾神社前に入れてくれました。御礼を言って降りた私に、「ここから南の常磐線の通ってるところの南側に館があったそうです。いまは地形が変わってしまって遺跡も何も残ってないらしいですけどね」と窓からその方向を指差して教えてくれました。
そこで道を少し進んでいくと下り坂になり、常磐線の踏切に着きました。その南西の舌状丘陵上に館があったようですが、今では舌状丘陵そのものが削られて無くなっていました。
神社に引き返して鳥居をくぐりました。湫尾(ぬまお)とは珍しい表記だ、沼尾とも書いたならば、鹿島三社の一つ沼尾神社と関係があったかもしれないな、などと考えたりしました。

参道の左手に大きな老樹が枝葉を広げて重厚な姿をみせています。樹齢450年とされるブナ科のスダジイで、ひたちなか市の天然記念物に指定されています。その向かいには同じようなヒイラギの老樹も聳えており、神社境内地の自然が割合に保たれたことがうかがえます。
とは言え、武田氏が活動していた時期はそれよりも400年ぐらい前のことですから、この地に館が構えられた時期には、今みられる左右の老木はまだ存在していなかったわけです。

参道を進んでいくうちに、木立の奥に武田氏館が見えてきました。それは良いのですが、肝心の神社社殿の姿が見当たりませんでした。場所が違うのかな、と思いましたが、社殿前に対で配置される狛犬があるので、社殿はどうやら無くなっているもののようでした。

脇を見ると、社殿の屋根端を飾る千木(ちぎ)の残欠がありました。これで社殿が何らかの理由で無くなってしまっていることが分かりました。
この神社については下調べをしていなかったため、現地に入るまで状況が把握出来ていませんでしたが、境内地がやけに整理されていて、いったん敷地を均したあとがうかがえるので、これは火事で焼けたのだな、と推測しました。老朽化にともなう解体および再建であるならば、建材や解体材か付近に保管されていることが多いのですが、それすら見当たらなかったからです。

境内地の右手にプレハブ小屋があり、近づくと「再建仮設事務所」の文字が見えました。老朽化にともなう建て替えであれば、「再建」でなく「造替(ぞうたい)」と書きます。これで社殿が焼亡したことはほぼ確実となりました。落雷なのか、放火なのか、と考えを巡らせましたが、後で武田氏館の管理事務所で話を伺い、2013年9月に放火で焼け落ちてしまったことを聞かされました。
参考までに、ありし日の社殿の様子を紹介した地元のサイトを紹介しておきます。こちら。

社殿位置の前から鳥居の方向を振り返りました。かつての武田氏館は、鳥居を出て尾根上を南西に約200メートルほど進んだ辺りにあったとされています。その館を神社の背後に推定復元したのが、現在の武田氏館です。

武田氏館の門です。中世期の一般的な棟門(むねもん)の型式で再現されています。これが貴族の邸宅の門や社寺の門になりますと、屋根がこけら葺きまたは檜皮葺き、瓦葺きになりますが、武家の居館の建物は実用本位で費用も最低限におさえて外見はシンプルになりますから、門の屋根も板葺きであるのが普通であったようです。中世期の絵巻物などの絵画資料に描かれる武家居館の建物は、大部分が質素かつ簡易な造りです。

主屋(おもや)です。平面は同時期の社寺建築に倣って母屋部分を正面三間とし、庇を四方に廻す形です。だから平面規模は五間四間となります。現在の民家に比べると規模はほぼ同じでも柱間が大きいので、壁も窓も大きくとって屋根も高くなります。それで見た感じは大まかでゆったりとしたものになります。これが武家の居宅の一般的な姿でした。この建物を基本単位にして繋いで建て増ししてゆけば、城郭の御殿建築の型式が出来上がります。
なお屋根は、当時はわら葺き、板葺きが一般的でしたが、ここでは維持費用および保全上の理由から、こけら葺きを模した銅板屋根になっています。

門から左には厩(うまや)があります。馬も木造でそれらしく再現してあります。屋根は本来は板葺きですが、これも維持費用および保全上の理由から、板葺きを模した銅板屋根になっています。

主屋の玄関にあたる部分で、建築用語では式台(しきだい)と呼ばれます。武家居館のそれは扉をつけずに開放空間とするのが一般的ですが、それは居館の主が地面に降りることなく、そのまま馬に乗るのが普通であったからです。上図の、スリッパが並べてある棚は本来は無く、ここに馬を寄せて主人が乗ります。地面に降りる場合は、横の縁側から出ることになります。

主屋の正面は全て開放出来るように蔀戸(しとみど)を設けています。武家の邸宅の窓としては一般的なもので、同時期の寺社の和様建築のモデルにもなっています。
上図は、上下二枚に分割した半蔀(はじとみ)の形式で、上半分を外側に開いて金具にかけて釣り、下半分はそのままにするか、柱から取り外します。季節や気象状況に応じて閉じたり開いたり出来るようにしてあり、有事の際にはこれを盾にして戦うことになります。

式台から上がって屋根裏を見ると、中世期の建物には基本的には天井を張りませんから、屋根裏の構造材がそのまま見えることになります。上図は屋根の棟材を支える台形の部材で、蟇股(かえるまた)と呼ばれます。武田氏館は、平安時代後半から鎌倉時代初期ごろにかけての居館を推定復元した建物ですので、こうした細部もその時期の状態を再現してあります。時代が下がるにつれて、蟇股に装飾や彫刻を施して華美に仕上げる傾向が強くなりますので、上図の部材はどちらかと言えば古式です。
古式といっても、この蟇股は、両端の波形の盛り上がりがやや大きく造られます。平安時代のものはもっと小さいので、これは鎌倉時代初期ごろの特徴を再現しているようです。

柱の上部には、きちんと灯明皿も再現されています。ただ、当時のものは土師皿などの陶製が普通で、金属製はあまり無かったそうです。その中に蝋燭を立てて、夜間の照明にしたわけですが、今のように床までを明るく照らしたわけではなく、屋根を淡く照らすにとどまりました。なので、屋内にいる人物の姿は、上半身がかろうじて浮かび上がる程度になります。
それでは足元や床をどうやって照らすのかというと、手燭(しゅしょく)と呼ばれる、手で持ち歩ける燭台を用いたわけです。時代劇や映画では建物内部を夜間でも明るく演出していますが、そうしないと映像が撮れないからであり、実際にはもっと暗かったのです。中世戦国期頃の文献に、屋内の様子を月明かりによって見通す、などの記載がみられるのは、月光の方が蝋燭の火よりも明るかったことを物語っています。 (続く)