私の郷里出身の作家、泉鏡花は、強迫神経症だったという。牛込の自宅の、玄関の板の間に雑巾がおいてあった。足をふかないと、家にあがれなかった。文士の集まりに出ても、食べ物もお酒も 手をつけず、家から持ってきた魔法瓶の熱燗をひとり飲んでいたという。泉鏡花は ばい菌をとても恐れていた。
強迫神経症は、DSM-5では「強迫症(Obsession-CompulsiveDisorder)」といい、けがれや よごれなどを 必要以上に恐れる強迫観念と、それらを避けるための繰り返される強迫行為で、特徴づけられる症候群である。
本人に苦痛がなければ、他人に自分の強迫行為を強要しなければ、なにも問題がない。別に病気でも なんでもない。DSM-5では、本人が苦しんでいるときにだけ、病気とみなす。
社会が、けがれや よごれを 必要以上におそれ、だれかを差別し、だれかを排除し、だれかに死ねと言うようになると、社会も病気になっている、と私は思う。
もちろん、「社会」とは何かが問題だが、政府や、自分が多数派と思っている人たちを、私はいう。けがれや よごれと されるのは、つねに、弱者や少数者である。そのために、弱者や少数者は苦しむから、「社会」が病気である。
社会が「強迫概念」をもっていても、「強迫行為」に至らなければ、単に思想信条の枠にとどまる。しかし、政府とか多数派が、臆面もなく、強迫行為にいたると、問題である。
正義を振りかざし、他国と戦争する政府は病気である。
政府が、誰かを知的に劣るから優生保護法の対象とした、とは、トンデモナイ話である。
ひきこもりだからといって、不登校だからといって、多数派から、危険視、やっかい視されても困る。テレビでコメンテーターに「死ね」と言われると、私としては、困る。社会不信が広がる。
けがれや よごれで あるかのように扱う前に、弱者も少数者も人間である。人間として扱わない 政府や多数派やコメンテーターこそが、病気である。
――5月28日の川崎市登戸の20人殺傷事件を受けて――
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