猫じじいのブログ

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ドストエフスキーの「大審問官」、恐ろしい異端とは

2019-03-28 20:34:51 | ドストエフスキーの宗教観

フョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の第5編の「大審問官」の章に次の文がある。

「その彼が自分の王国にやってくるという約束をして、もう15世紀が経っている。彼の預言者が『私はすぐに来る』と書いてから15世紀だ。」
「ドイツ北部に恐ろしい新しい異端が現われたのはまさにそのときだった。」

この「世紀」は単に「100年」という意味であって、イエスが刑死してから1500年が経つと、1530年ごろだから、「ドイツ北部に恐ろしい新しい異端」は再洗礼派のことだろう。

バートランド・ラッセルは、『西洋哲学史』(みすず書房)の序説で、次のように書く。

「まだルーテルが生きている間にすでに、… ルーテルの弟子たちは、再洗礼主義という主張を展開し、それはしばらくの間ミュンスター市を支配した。」
1534年の再洗礼派のミュンスター市での反乱のことである。
再洗礼派は、善人はあらゆる瞬間に「聖霊によって導かれる」とし、すべての権力と法を否定し、「共産主義」や「性的雑交」の考えにいたった。
「そのために彼らは、英雄的な抵抗をおこなった後に、全部処刑されてしまう。」

「聖霊によって導かれる」というのは、カトリック教会、正教会から見れば、異端であるが、新約聖書のパウロ書簡や『マルコ福音書』、『ルカ福音書』、『ヨハネ福音書』を読めば、これが、初期のキリスト教の姿であることがわかる。
もともと、これが正統なキリスト教である。

『ヨハネ福音書』20章22、23節に、復活したイエスが
「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」
とある。

聖霊が降りるとは、直接、神の声が聞こえ、大いなる力も与えられる、ことだ。
初期の教会(エクレシア)は、聖霊に満ち溢れた集会の場所であった。
それが、教会が「聖職者の組織」に変わり、天国への扉を管理し、神の国への「代理店」になった。

ドストエフスキーは、どのような気持ちで、再洗礼派をイワンに「恐ろしい異端」と言わせたのか。
また、そのすぐ後に、
「『松明に似た、大きな星が』つまり、教会のことだが、『水源の上に落ちて、水は苦くなった』ってわけだ」と、何のためにイワンに言わせるのだろうか。
さらに、どうして、
反宗教改革の本拠地、セヴィリアの広場に、人間の姿をしたイエスを無言で歩かせたのか。
ロシア正教会については、ドストエフスキーはどう考えていたのか。
ロシア正教会はトルストイの共同体運動を迫害した。
ロシア正教会は、プーチン政権と結びついて、自由を迫害している。

「ミュンスター市」の反乱はなんであったのか、戦いに負けて皆殺しにされた側は、生きている権力側によって、あらゆる中傷を浴びるので、日本語版ウィキペディアの「ミュンスター市の反乱」の解説をうのみするのは危険である。

英語版ウィキペディアによると、再洗礼派の預言者、パン職人、ヤン・マティスは、殺され、頭は市の柱にさらされ、性器は市の門にくぎ打たれたという。また、三人の幹部は拷問を受け、殺され、檻に閉じ込められ、市の聖ランベルティ教会の塔につるされた。この檻は今もつるされているという。

ドストエフスキーは再洗礼派のミュンスター市での反乱をなぜ大審問官で言及したかわからないが、権力に逆らう者にとっては、「ドイツ北部の恐ろしい」事件であったことは間違いない。


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