ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に、修道僧ゾシマ長老が、死ぬ直前に、集まった五人を前に、自分の8歳上の兄のことを語る、章がある。
長老の兄は17歳で死ぬのだが、その前に、突然、こころ変わりをして、次のように言う。
「ぼくら みんな、すべての人に対してすべての点で罪があるんだよ、ぼくはそのなかでもいちばん罪が重い」
往診に来た医師は「病気のせいで精神錯乱におちいっています」と母に言う。
これは、別に、聖書の言葉が兄の口から出たわけでない。
『カラマーゾフの兄弟』を読むと、当時のロシアの上流、中流のひとびとは、文字通り、すごく悪い。本当に、彼らみんな、罪がある。「支配」と「従属」の関係をあたりまえだと思っている。下層民の私としては、それにすごく怒りを覚える。
革命こそがロシアの地に必要だ。
だからこそ、ドストエフスキーが、その兄に次のセリフを当てたのであろう。
「ぼくに仕える価値なんて あるのか?もし神さまが情けをかけて 死なずにすんだら、こんどは ぼくが おまえたちに仕えてやるからね、だって、だれもが たがいに仕えあわなくちゃ ならないんだから」
「人生って天国なんだから、ぼくたち みんな 天国にいるのに それを知ろうとしないだけなんだよ。その気になれば、あすにでも世界中に天国が現れるんだから」
原罪とか、人類普遍に罪があるとか、そういう問題ではない。
ゾシマ長老の兄は、生きたまま、すでに「天国」におり、天国に行くために、すなわち、地獄に行かないために、「ぼくらみんな罪がある」と言ったのではない。兄が、「支配」と「従属」を慣習とする社会構造のあやまりに、気づいたという設定なのだ。
「支配」と「服従」は、社会構造の問題であり、個人のこころの問題にしてはいけない。
私の学生時代にも、「自己否定」とか「自己批判」とか言う者たちがいたが、
何の役にも立たなかった。
自責の罠に陥ちらず、社会の構造を変えなければ、いけない。
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