きょう、倍賞千恵子が、TBSテレビの『サワコの朝』で、「ヨコ社会になって、目を合わせて話さなくなった」と語り、私はびっくりしてしまった。
倍賞千恵子は、山田監督の「寅さん」シリーズで、寅さんの妹役を務めた、ことし78歳になる女優である。監督のもとでの映画作りは「人間としての学校」だった、自分は相手の目を見るよう教えられて良かった、と言う。
この中で飛び出た言葉が「ヨコ社会になって」である。
「目を合わす」ことは、いいことだと思うし、昔から 私はそうしている。
しかし、「ヨコ社会」は、「タテ社会」の反対で、人間の対等性を重んじる社会をふつういう。これと「目を合わさない」ことと何の関係もない。
類似の間違った思い込みに、「自閉スペクトル症」の子どもたちは「目を合わさない」というものがある。実際に、自閉スペクトル症やその傾向の子どもたちを集めて「目を合わす」訓練をさせる変な施設もある。
目を合わさないというのは、単に相手が怖いからである。外猫でも、安心すると、目を合わすようになる。私はNPOで色々な子どもたちを相手にするが、どの子も目を合わしてくるようになる。
ひとびとが目を合わさなくなったというのは、「ヨコ社会」になったからではなく、ひとびとが移動し、知らないひとが隣人になるようになったからだ、と思う。対等な人間関係が尊重されるようになった、とは少しも思わない。決して「ヨコ社会」になっていない。そればかりか、「タテ社会」があちこちにみられる。
私が、アメリカ社会で感心するのは、目が合うと、見知らぬ私に、にっこりして見せることである。移民社会で、移動社会で、敵意がないことを示すために、目があったら微笑むという習性を身につけたのであろう。
10年以上前、電車の中で、見知らぬ男と目が合ってしまった。私がにっこりすると、「おっさん、男が好きなのか」と言われてしまった。
日本はまだ知らないひとと顔を合わせたとき、どうするか、社会的慣習ができていないようだ。
日本のスーパーのレジで店員に「ありがとう」を言うと、身構えられる。店員は入れ替わるので、いつまでも、私は「見知らぬ人」である。近所のパン屋では、ようやく、「ありがとう」が店員に受け入れられ、雑談もできるようになった。
「見知らぬひと」と目があったらにっこり微笑む、「見知らぬ人」のサービスに「ありがとう」を言う、これは、移動の激しい「ヨコ社会」の生きる基本だ、と思う。
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