小学校でプログラミング教育を2020年から導入するという。私は、外資系の研究所で、コンピューターの新しい活用を研究開発してきたが、小学校でのプログラミング教育は不要だと考えている。
今の小学校は、あまりにも、教えることがいっぱいあるからだ。小学校で漢字を教えない、英語を教えない、というのなら、プログラミング教育が行える余地があるかもしれない。
しかし、学習には、臨界期があり、あまり早くから始めても何の意味がない。プログラミングに向いていない子どもたちに、不要な劣等感を持たすだけだ。
研究所の退職後、私は、大学で講師もしたが、今はNPOで子どもたちに、ワードや、表計算ソフトのエクセル、プレゼンのパワーポイントなどをも教えている。これは、学校の勉強についていけない「発達障害」の子どもたちに自信をもってもらうためである。国語や英語や数学ができなくても、タブレットやパソコンを利用できることを知ってもらうためだ。
だから、いやな子には むりじい しない。
そして、小学校でのプログラミング教育が必要だと思っていない。
小学校のプログラミング教育は、経団連などの産業界と経済産業省官僚と大学の情学部教職者との利害が一致したからではないかと疑っている。文部科学省は、なんとか、子どもの教育に悪影響を及ぼさない範囲で、これらの圧力団体のメンツを立てようと苦労しているように思える。
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小学校のプログラミング教育推進派は、プログラミング言語を教えるのではなく、プログラミング教育を通して、失敗を繰り返しながら、論理的思考力を養うのだ、という。
論理的思考能力を養うなら、コンピューターを使う必要がない。紙と鉛筆があれば十分だ。計算を必要としないような数学的パズルを解いてもらえばよい。
例えば、4つの箱がある。天秤を1回使えば、2つの箱を比較できる。どのような手続きで、4つの箱を、軽いものから重いものに、並べることができるか。最悪の場合でも、少ない天秤の使用回数で、軽いものか重いものに並べることのできる手続きは、どのようなものか。
こういう「手続き」のことを「アルゴリズム」という。
しかし、手続きを書くだけなら、紙と鉛筆で、朝起きてから学校に行くまでの行為を、紙に書けば良い。
もちろん、これで、論理的思考力が増すとは、思えない。このような手続きを書くことは、「マニュアル化」と言い、「アルゴリズム」を考えだすことにはならない。
今から2300年前に、ユークリッド原論は、2つの自然数の最大公約数を見つけるアルゴリズムを書いている。
2つの自然数が等しければ、それが最大公約数である。そうでなければ、2つの自然数のうち、大きい数を小さい数で割り、余りを得る。余りがゼロでなければ、小さい数とその余りを、新たな2つの自然数の組と考えて、前の手続きを繰り返す。余りがゼロであれば、割るに使った小さい数が、最大公約数である。
このような、「繰り返し」と、その「停止条件」を含む手続きは、プログラミング言語を用いて書くと、明確になる。
もちろん、アルゴリズムをプログラミング言語で書くのに、コンピューターもタブレットもいらない。
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小学校で教えるビジュアル・プログラミング言語は、単に、プログラムを実行すると、スクリーンに絵を描くだけである。指導要領にしたがって正多角形を画面に描かしても、子どもの論理的思考力が高まると思わない。
繰り返しも停止条件もないプログラムを書かせても、意味がない。
さらに、このビジュアル・プログラミング言語は、将来、職業としてプログラミングをするにも、役立たない。違うプログラミング言語を使うことになるからだ。
そんな無用な言語教育をするなら、ワードを教えたほうがよい。キーボードのアルファベットが読めるようになる。漢字を正しく読めないと、仮名漢字変換が使えないから、自然と漢字が読めるようになる。もっとも、私は、日本語から漢字を排除したいが。
また、機器になれるのが目的なら、スマホの使い方を教えれば良い。
大学の情報処理の教職者たちは、自分の学生の就職先を考えて、早期プログラミング教育なんて無意味なことに、賛成しているだけだ。
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