きょうの朝日新聞の夕刊に『(いま聞く)白井聡さん 政治学者 「資本論」が注目される理由は』というインタビュー記事があった。
「カール・マルクスがちょっとしたブームになっている」という笠井哲也記者の書き出しで始まる。私はブームになっているとは知らなかった。私は、図書館で、早速、白井聡の『武器としての「資本論」』を予約した。横浜市で15冊も購入しているから、1か月後に読めるだろう。森本あんりの『不寛容論』よりは早く読める。(『不寛容論』をもっと購入して欲しいと思っている。)
私は『資本論』を読んだことはない。一般に原著より解説本のほうが読みやすい。私の経験からすると、読みにくいというのは納得がいかないことが書かれているからだ。解説本は、その納得がいかない部分を丁寧に取り除いており、飲みやすい薬のように変えているからだ。効き目が元のようにあるかは疑問だが、確かに飲みやすくなる。
『資本論』は厚い本である。そんなに厚くならないと真理を語れないか、私は疑問をもつ。私たち貧民にとって、インテリアは理屈っぽくて苛立つ嫌なやつだ。したがって、解説本は重宝である。
マルクスの薄い本、『共産党宣言』『賃労働と資本/賃金・価格・利潤』を私は読んだが、これは青臭くて、『資本論』と別な理由で読んでいるうちに苛立つ。
インタビューで、白井は「マルクスは資本(主義?)を、価値を増殖していく運動、つまりお金もうけの運動だと定義する」と言う。これは、わかりやすい。そうすると、「資本家」は資本によって「包摂」された可哀そうな人たちになる。
しかし、お金(価値)の増殖にとらわれた人は、昔からいる。そういう話しは新約聖書にもでてくる。『マタイ福音書』25章14~29節、また、『ルカ福音書』19章11~27節の「持てる人はますます豊かになり、持たない人は持っているものまで取り上げられる」という寓話である。
〈金持ちがお金を3人のしもべに預けて旅に出る。その金持ちが長い旅から帰ってきて、しもべたちに報告を聞く。2人のしもべは、それを元手にお金を増やしたと言う。しかし、最後のしもべは、それを失わないよう地面に埋めてだいじに守ってきたと言う。金持ちは怒ってこのしもべを罰した。〉
森の住民であるヨーロッパ人の歴史からいうと、お金の増殖に人々がとらわれるのは近代にはいってからである。中世は身分制があったが、競争のない平和な世界であった。それが、土地が主たる生産手段から、機械が主たる生産手段になると、新しい機械を導入し、工場を拡大し、人を雇入れる競争が市民(ブルジョアジー)のなかに起きた、とカール・カウツキーは書いている。
すると、マルクスは生産手段が人間を疎外すると言いたかったのではないか。
しかし、社会に出て話しをするようになると、「資本主義社会だから自分の利益を追求せざるをえない」と自己弁護する人たちに、しばしば出会う。
似たような話は、宇野重規の『トクヴィル 平等と不平等の理論家』に出てくる。
〈アメリカにおいて見られるのは、自己利益を追求する利己的な精神である。にもかかわらず、アメリカ人は同時に「正しく理解された(自己)利益」をよく理解しており、自己の繁栄と社会の繁栄とが矛盾するどころか、長い目で見れば、密接に結びついていることをよくわきまえている〉
とトクヴィルが言っているという。
朝日新聞のインタビュー記事を読むと、つぎのように書かれている。
〈(人間の立て直しを)どうしたらいいのか。白井さんは、まずは私たちが「それは嫌だ」「もっとぜいたくを享受していい」と、強く訴えることだと説く。〉
さて、日本の保守は「資本主義」のかわりに「自由主義」だと言う。「資本主義」を「価値の自己増殖運動」だとも、「生産手段による人間の疎外」だとも言わない。
しかし、「資本主義」だろうが なかろうが、他人を踏みにじってまで自己利益を追求してはいけないと思う。私たちはデモクラシーを標榜している。人間のあいだに上下関係はない。対等である。
「資本主義社会だから自分の利益を追求せざるをえない」という言葉の裏には、他人を踏みにじって生きてきたという後ろめたい思いが隠されている。
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