また、妻の本棚から、変な本を見つけた。岡田尊司の『パーソナリティ障害がわかる本』(ちくま文庫)である。2014年8月10日第1刷発行とある。DSM-IVとDSM5とのパーソナリティ障害の見方(モデル)の違いが書かれているから、比較的最近の本である。
本書の副題名に『「障害」を「個性」に変えるために』とある。どこか聞いたことあるセリフだ。そう、「発達障害」も「個性」と言ってカミングアウトが一時はやった。
斎藤環・與那覇潤の対談集『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮選書)のなかで、与那覇がつぎのように述べている。
「各種の精神病理について啓蒙書を書いている岡田尊司は『発達障害と呼ばないで』で、いま発達障害として鑑別されている人の多くは、本当は愛着障害で、子どものときに安定した形で愛情が注がれなかったことが原因だと主張しています。」
「発達障害」も「パーソナリティ障害」も精神科医がどこか変だと思う人間に振り当てた診断名である。違いは、前者が「生まれつきの脳機能の差異が発達とともに明らかになった」とするのに対し、後者は「成長とともに環境が心の偏りを強めた」とする。それって、どっちらももっともらしい。しかし、「個性」だとすれば、「障害」という言葉がものものしい。英語ではdisorderという単語をあてており、disabilityを使わない。
子どもや大人をたくさん見ていると、変な子や変な人と、パッと感じとってしまう。榊原洋一は『アスペルガー症候群と学習障害』のなかでつぎのように述べる。
「自閉症の子供をたくさん見ている人にとって、自閉症かどうか診断することは、別にむずかしことではないのだ。……。ある人は、「自閉症の子どもは診察室に入っただけですぐにわかる」と書いておられるし、なかには「診察室の窓から、病院の玄関に向かって歩いている姿を見るだけで診断がつく」と豪語しておられる専門家もいるのだ。」
この「診断がつく」とはどんな意味があるのだろうか。保険診療するには、診断名が必要であるが、精神科医は診断名をつける以上のことをやってくれているのだろうか。
変だというのは、普通ではない、標準モデルから外れているということである。標準から外れているだけなら、個性として、社会として受け入れていくべきだろう。
先日、テレビで政府がギフテッドの教育に何百臆円もののお金を投入すると言っていた。しかし、その内容はできる子にエリート教育をするということにすぎない。「発達障害」と呼ばれる子を学校教育で隔離せず、教室に受け入れていくために、もっとお金を投資すべきだと私は考える。
[訂正]
ギフテッドの教育に何百臆円もののお金を投入するというのは、私の聞き間違いであった。事実は「文科省がその支援のために2023年度予算案で8000万円を計上する」であった。用途は調べてはいないが、額からすると調査費か研究費ではないか。
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