猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

発達障害の息子は殺してよいのか、身勝手な元事務次官

2019-12-16 22:32:52 | 社会時評

きょう12月16日、3日間の審理で、元農林水産省事務次官の息子殺害事件の判決があった。6年の実刑は不当に軽い。裁判長のいうように「重い刑罰は不必要」としても、12年の実刑が適切だったのでは、と、引きこもりの息子を抱える私たち老夫婦は感ずる。

すべては、東大法学部出の元事務次官ということで、特別扱いのように思える。
もしかしたら、それだけでなく、被告の妻が、華やかな一族の一員であり、そちらからの圧力があったのではと、疑ってしまう。

殺害事件の後、被告の妻は近所の人に1万円を同封した手紙を配っている。また、自分の娘に親が縁談をすすめ、それが破談になったことで、息子を責めている。この妻こそ、元事務次官は殺すべきでなかったのか。

冷静になって考えよう。

息子が発達障害であれば、殺して良いのか。
息子が就職しないで引きこもっていれば、殺して良いのか。
息子が家族に暴力をふるったから、殺して良いのか。
息子が「運動会がうるさい、殺してやる」と叫んだから、殺して良いのか。
息子が「落後者だから娘の縁談が破談になった」からといって、殺して良いのか。

現在、発達障害の人は人口の10%近くいる。だからといって、親は子どもを殺していない。
就職できずに引きこもっている人も100万は越えていると思う。だからといって、親は子どもを殺していない。
引きこもった人の多くは、世のなかから暴力を受けた記憶がある。暴力に対処することができないから、引きこもったのである。外に出るのはとても怖い。それを理解してくれない親をも、憎んでしまうだろう。その怒りが暴力になることも当然あるだろう。家族に暴力をふるうのは、外に向かって暴力がふるえない優しさがあるからだ。

私も、息子に包丁をもって家の外まで追われたことがある。寝ていて、包丁で襲われたこともある。そのときは、椅子をもって防ぎ、声をかけて怒りを鎮めたことがある。警察を呼んだこともある。家庭内暴力を起こさせないほうが良いのだが、起きた家庭内暴力はおさめることができる。優しいから、家族への暴力になる。

被告が息子を殺したことは、何の理由もなく、人間として あやまち であるが、裁判で、そのことを息子に向かって わびていない。被告は、どこかで、まだ、元事務次官と威張っているのだろう。だから、狂牛病の件で、思量を欠く発言で、事務次官の職を失ったのだろう。

被告の妻も非常に身勝手であるが、そのことが裁判で言及されなかったのは、すごく残念である。

被告が息子に寄り添っていたように弁護士は言うが、私には少しもそう思えない。単に息子にああしろ、こうしろと指図し、ますます、息子を劣等感の海に深く沈めていただけである。

寄り添うとは、相手に敬意を払い、相手の抱えている苦悩を理解することである。

世間体を気にする人は、良かれと思って、家族を傷つけてしまう。そのことを気づくために、他人に相談し、助言を受けるのである。他人に相談するのは、自分のあやまりに気づくためである。決して、息子に薬を飲ませて解決するためではない。

今回、主治医なるものがでてきたが、私は、被告の息子殺害の幇助の罪にあたると思う。

まず、発達障害というが、大人になっても社会に適応できないと、意味もなく、発達障害と診断してしまう。アスペルガー症候群というが、これは、理由もなくつけられがちの診断名である。妻の弟が医師で、その知り合いらしい。主治医の名前がわかれば、評判がわかるのだが、新聞には名前がないのでとても残念だ。

被告は息子の薬をとりに行っていたという。疑問に思ったのは、主治医が息子を診察していたのか、ということである。診察しないのに、薬を処方してはいけない。

また、アスペルガー症候群に効く薬はない。何か、別の目的の薬ではないか。向精神薬を出してはいないのか。

それに、子どものとき、統合失調症だったというのも変である。統合失調症は完治が難しい病気である。統合失調症のきつい薬を飲んで、大学を受験し、卒業するというのも一般には難しい。自分の言うとおりに動かない息子を、被告の妻が統合失調症と決めつけ、医師に強い薬を要求したのではないか。

私のNPOでの経験からいうと、いじめられっ子が幻聴を示すことは少なくない。被告夫婦は、息子が小学校でいじめられたとき、真剣に対応すべきだった。横浜でも、中学受験の子が少なくないため、小学校高学年ではいじめが盛んで、子どもの心をむしばんでいる。いじめが、劣等感と結びつているため、子どもは、いじめがあったこと自体、親にも告げられず、認めようともしない。不登校の理由を知るのは、けっこう、難しいのである。

今回の裁判員裁判の審理は時間をかけ、元事務次官の息子殺害の社会的背景を、精神科医や心理療法士のいい加減さを含めて、告発すべきであった。こうなったら、ノンフィクション作家が真実を暴くしかない。メディアは安易に被告に同情しているが、引きこもりを抱えている私たち老夫婦からみると、被告は、あやまちを認めない、世間体のみを気にする、ダメ人間である。

[追記]
2つのコメントとも、元事務次官が息子を殺す必要がなかったことに気づいていない。
誰でもが「障害者」になる可能性をもっている。それなのに「障害者」は異物だから排除すべきと考えることは、「自分自身が障害者になる」ことを恐れるあまりにでてきた強迫的思考である。エーリック・フロムが『自由からの逃走』のなかで、このような思考をもつ人たちを考察している。
自分の非や無力さを他人になすりつけるのではなく、殺す必要がなかった、息子との人間関係を良い循環にもって行けるということに気づき、良い循環にもって行くことがだいじである。
私の経験からいっても、知っている人のケースでも、子どもの家庭内暴力は解決できる。試練を通じてヒトは強くなる。
2019年12月17日、12月20日のブログを合わせて読んでほしい。
(2020年7月1日)

池内紀は『ヒトラーの時代』で何を語ったか

2019-12-15 14:46:32 | 歴史を考える

池内紀の『ヒトラーの時代 ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか』(中公新書)はユニークである。いままでのヒトラーについての本と異なり、彼の心理分析や、彼を取り巻く政治状況の話はほとんどない。

著者は、ヒトラーが ただの議論好きの どこにでもいる つまらない男だと語る。それよりも、彼と同時代の町の人びとを追うのである。

彼の視点からは、ワイマール共和国時代からドイツは問題含みであった。各政党は、暴力集団である私兵を抱え込んでいた。街頭にはデモがあふれていた。超インフレが抑えられたかと思うと世界経済恐慌。政党間の争いで国の政治は何も決めることができなかった。なるべくして、ヒトラーの時代がきた、とも本書は読める。

1930年のトーマス・マンの講演から伺えるドイツ市民社会の危機と大きく異なるものである。作家トーマス・マンは、市民社会の理念を壊すものとして、ヒトラーを非難していた。

池内は丹念に下調べをして本書を書いているはずであり、池内の描く世界も 1つの事実なのであろう。

池内は私の7歳上であり、日本の敗戦後の混乱を直接目撃している。その彼からみれば、ワイマール共和国は混乱した社会であり、ヒトラーはそれに独裁という秩序をもたらしただけなのであろう。

私の世代は、混乱が収まった日本の目撃者であり、貧困がまだ日本をおおっていたが希望があふれていた。飢えがまだ日常化しており、道路は舗装されていず、洗濯機も電気釜も冷蔵庫もなかった。が、なによりも、強調したいのは、日教組が健在であり、炭鉱労働者組合も強かった。私は民主主義や自由や平等の価値を信じた。

だから、おなじものを池内と私が目撃しても、異なるものを見て取ったのであろう。

池内のゲシュタポの拷問の描写は生々しい。多分、子どものとき、特高の拷問の話を周りから聞いて育ったからだろう。子ども時代の私にも、権力に逆らえば、拷問が待ち受けている、恐怖が頭の片隅にあった。

いまは、直接的な拷問の話は聞かないが、権力による暴力は整然と行われている。リクルートの江副浩正もライブドアの堀江貴文も、贈賄事件や証券取引法違反で、警察に拘留されたとき、裸にされ、尻の穴まで調べられた。そして、ときの権力に逆らえば、理由もなく、長期拘留になり、裁判がなかなかはじまらない。本来は、裁判所が拘留を認めなければ良いのだが、日本の司法は検察や警察とグルになっている。

池内は、本書の結びに、ウィーンの地下劇場の、『カール氏』という、ほとんど一人芝居を紹介している。

「小市民カール氏は終始多数派の一人だった。オーストリア社会党がのびたとき、彼はいそいそと労働者のデモに加わった。ナチスが強くなると、さっそくそちらに くらがえした。通りの群衆にまじり、連行されるユダヤ人を見物していた。オープンカーでヒトラーがやってきたとき、鍵十字の小旗を打ち振りながら歓呼の声をあげた。」

現在の日本は、人権について非常に鈍感になっている。集団行動がとれない子どもたちは発達障害と呼ばれ、社会から隔離される。隔離されなくても、無意味な競争に疲れたものは、うつや統合失調症になる。

ヒトラーの時代と異なったやり方だが、人間の個人的権利、平等、表現の自由、団結の自由などが否定される方向に日本社会は流れ込んでいる。逆らうべし、逆らうべし。

元事務次官の長男殺害が3日間の公判で結審して良いのか

2019-12-13 22:54:34 | 社会時評



この5月に元農林水産事務次官が自分の長男を殺害した件の裁判員裁判が 12月11日に始まり、2日後のきょう、13日に結審し、来週の月曜日、16日に判決言い渡しがあるという。殺人事件の公判がこんなに早急に審理されていいのか、引きこもりの息子を抱える私たち老夫婦として納得いかない。

疑うのは、殺された息子が「父さんいいよね、東大出て」と泣いたように、元農林水産事務次官が何か優遇されているのではないか、ということである。

きょうのフジテレビの番組『グッディ』で、コメンテーターの木村太郎が、求刑8年が異常に軽い、「検察が懲役8年求刑なんてほとんど無罪と言ってるよーなもん」と言った。私たち老夫婦は木村太郎と同じ意見だ。何かおかしい。元農林水産事務次官は弁護士と相談してウソを言っている。反省なんてしていない。

裁判員裁判では、地裁の判事、検察官、弁護士が事前に論点整理をする。そこで、この元事務次官の刑をどう軽くするか、話し合って、懲役5年ということで、話しをつけたのではないか。

弁護士は、情緒酌量を訴え、執行猶予を求める。検察は情緒酌量を否定する証拠をいちおう挙げるが、厳罰を求刑しない。懲役8年の求刑に、懲役5年の判決を出し、裁判の体裁をつける。模範囚だ、老人だ、再犯の可能性はないということで、刑期を終える前に釈放する。被告が「東大出の元農林水産事務次官で元駐チェコ大使」だということで、みんなが猿芝居をうっているのではないか。

13日の朝日新聞夕刊は、つぎのように書く。
〈最終陳述で被告は「毎日反省と悔悟の日々。息子があの世で穏やかに過ごせるように祈ることが私の務め」と述べたが、公判を通じ最後まで長男への謝罪の言葉はなかった。〉

「息子があの世で穏やかに過ごせるように祈る」ということは、亡霊となって目の前に出てくるなということである。

本件では、息子を殺す必要がどこにも感じられない。家庭内暴力は引きこもりでは普通にあることである。また、いじめが引きこもりを生むことも珍しくない。元事務次官が、問題解決のため、どのような努力をしたか、まったく わからない。社会的対面ばかり とりつくろい、その結果、身動きが取れなくなり、息子を殺したのではないか。

本件では、被告が警察に自首したときの動機が「川崎の無差別児童殺傷事件が直前にあって、近所の運動会の騒音がうるさい、殺してやると言うのを聞いて」であったが、公判での動機は「殺されるという恐怖から」に変わっている。すなわち、「悪を社会から除去する」から「正当防衛」に変わっているのである。弁護士の入れ知恵でないかと思う。

証人として出てきた主治医の言うことも、おかしい。「発達障害」としている新聞もあるが、主治医が言ったのは「アスペルガー症候群」である。しかし、その前に「統合失調症」と診断していたようだ。子どものときから薬を与えている。いつから、「アスペルガー症候群」に診断がかわったのか。

6年前に出版されたアメリカの精神医学会の診断マニュアルDSM-5では、「アスペルガー症候群」が診断名から削除されている。「アスペルガー症候群」は、現場で、治療が難しい「奇妙な子どもたち」につけるレッテルになっていたからである。

息子の家庭内暴力に対処してきた自分の経験を生かすため、私はNPOでそういう子どもたちの話し相手をしている。

NPOでの経験でいうと、精神科の診断は一般に疑わしい。しかし、医師は、ああだ、こうだと言いながら、薬を出せる。しかも、多くの親が薬で治すことを要求している。発達障害の薬の効果は疑わしく、健康保険は適用されない。医師は、健康保険が適用される診断名をつけて、薬をだす。親は、子どもが暴れることを恐れ、副作用のある薬を医師に求める。

千葉の病院に通ったというので、一瞬、精神科医 斎藤環の勤めた病院かと思ったが、そうではなく、主治医は被告の妻の弟らしい。主治医が偽証している可能性もあるので、証言内容を丁寧に検討する必要がある。統合失調症にしろ、アスペルガー症候群にしろ、それをわずらったことで、他人を殺害することはほとんどない。それよりも、社会的対面を気にする人間こそ、身動きが取れなくなると、安易に身内を殺すことが、圧倒的に多い。

検察は、ほぼ無傷だった被告に対し、遺体には36カ所以上の傷があり「不意を突いた一方的な犯行で悪質だ」と主張した。私の経験でいうと、引きこもっている子どもは、家庭内暴力をふるっているか否かにかかわらず、常に死にたいという気持ちに襲われており、親の殺意に抵抗しないことが多い。無抵抗で被告に殺されることは、十分にありえる。

私の妻は、妹が兄のために結婚できず、自殺したというのは作り話だ、と憤慨している。兄は何も犯罪を犯していない。大学をでても就職できず、被告の妻の弟のつてで病院に務めただけだ。そうではなく、妹の自殺は、被告夫婦に何か問題があったのではないか、と私の妻は思っている。

私は、被告が息子に17万円の家賃のところに住まわせていたことに驚いている。私たち夫婦は3万円の家賃も払ってやれない。被告夫婦の周りは裕福な成功者の一族が占めており、息子はその中で劣等感にさいなまれる人生を送っていたのではないか。

殺された息子が「父さんいいよね、東大出て」と泣いたことを、被告夫婦はもっと真剣に受け止めなければならない。自分の息子を「やっかいもの」とみていたのではないか。息子のことを思っていたという1つ1つの事例が、弁護士の指導のもとにまとめられた「見せかけ」のように、私たち老夫婦には見える。

以上のように審理すべき点がいっぱいあるのに、早急に結審したのはおかしい。元事務次官の言動はもっと追及されなければならない。とても身勝手に思える。妻の弟の主治医の証言は、現在の精神科医療の水準から見て理解しがたいことが多い。

また、被告の息子が、子ども時代に、いじめから家庭内暴力にいたった経緯も検討されないと いけない。家庭内暴力の要因に、いじめの対処の失敗が多い。対処に誤ると、親が自分の味方になってくれなかったとか、自分が劣っているからだとか、が、子どもの原体験として記憶に残るからだ。


イギリス総選挙結果のBBC予測に深い悲しみ

2019-12-13 10:50:09 | 国際政治



今回のイギリスの総選挙で、保守党が大勝し、労働党が大敗するとのBBCの出口調査による予測がでている。現在、確定しているのは5議席だが、保守党が50議席増やし、368議座席と過半数を大きく上回り、労働党が71議席を失い191議席になるとBBCは予測した。

悲しい予測である。1930年10月17日のベルリンでの講演でのトーマス・マンの怒りと悲しみを思い起こさせる。彼の講演のタイトル「ドイツの呼びかけ 理性に訴える(Deutsche Ansprache Ein Appell an die Vernunft)が示すように、大衆が理性的な選択をしなかったことへの、怒りと悲しみである。

1930年9月14日、世界的恐慌に襲われたドイツ国民は、総選挙で国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を国会の第2党に選択した。トーマス・マンは、これに市民社会が築いてきた理念「自由、公正、教養、楽天主義、進歩への信仰」への否定を感じ取ったからである。

いま、イギリスは、保守党政権下の緊縮財政で格差が広がり、弱者の切り捨てが広がっている。ところが、今回の総選挙で、保守党のボリス・ジョンソンは、EUがすべて悪い、EU離脱だ、強い保守党を、と騒いで、変化を求めるイギリス国民を保守党に集めた。

ヒトラーもジョンソンもトランプも安倍晋三も詐欺師である。変化がどの方向に国民を導くのかを、大衆は、理性的に判断しなければならない。市民社会の理念「自由、公正、教養、楽天主義、進歩への信仰」や「議会制民主主義」は貴重な歴史的遺産である。詐欺師に心理操作されてはいけない。

1930年代と同じく、現在の各国の国民は、変化だけを求めて、理性を失い、破滅にいそしんでいる。大衆は絶望にとらわれ、憎しみを爆発させ、たがいに敵視し、健常なものは精神を病み、引きこもる。

イナゴが多くなり密集度がますと、色が きみどりいろ(黄緑色)から おうかっしょく(黄褐色)に変わり、ますます、数をまし、大群となって移動するという。Locust plagueである。忘れたころに、繰り返し、イナゴの大群が発生し、破滅へと飛び立つという。

旧約聖書『出エジプト記』10章15節にも次のようにある。
「いなごが地の面をすべて覆ったので、地は暗くなった。いなごは地のあらゆる草、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くしたので、木であれ、野の草であれ、エジプト全土のどこにも緑のものは何一つ残らなかった。」

新約聖書『ヨハネの黙示録』9章3-4節にも次のようにある。
「そして、煙の中から、いなごの群れが地上へ出て来た。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。
いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。」

黙示録の世界と違い、絶望した大衆は 「額に神の刻印を押されている」か否かによらず、だれかれ の区別なく、互いに傷つけ合い、破滅がやってくるまで横暴のかぎりをつくすのである。

トーマス・マンでなくとも、イギリスの総選挙の予測結果に、深い悲しみと怒りを感じずにはいられない。しかし、絶望はいけない。絶望は、破滅の予測を本当のものにする。


高校の世界史はどうすべきか、教科書はいらない

2019-12-10 20:48:48 | 教育を考える

きょうは朝から咳がでて体が重い。
それで、1年前のYahooブログにのせた書評を再録する。

その本を読もうと思ったのは、その年の9月の朝日新聞書評欄に、『新たな研究、なぜ反映しないか』の見出しのもとに、次のように書かれていたからだ。

<古代イスラエル史について、ヘブライ人の国王ダビデとソロモンの実在は疑わしく、100年以上エルサレムの発掘調査を行っても当時の栄華は実証できない。それなのに、なぜ 旧約聖書の記述がそのまま〔高校教科書に〕「保存」されてきたのか。>

『モーセの五書』が偽書であることは、19世紀の終わりから20世紀のはじめにかけてドイツの研究者たちによって、すでに主張されていた。モーセはユダヤ教とは無縁の存在で、エジプトからのヘブライ人の大掛かりな脱出劇はなかった、としている。

しかし、古代イスラエル史の王朝の記述を私は疑っていなかったので、「王ダビデとソロモンの実在は疑わしい」は 衝撃であった。

12月に図書館に本が届き、早速借りて読んだ。以下、1年前のYahooブログからの採録である。

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長谷川修一、小澤実編の『歴史学者と読む高校世界史 教科書記述の舞台裏』(勁草書房)を借りてきて読むと、本書は思いのほか重たい内容だ。

長谷川修一は、まず、高校教科書に記述された出来事が「事実」かどうかを問題にしている。昔から、書物というものは、事実より、そう思われていること、あるいは、そうあって欲しいことを書いてきた。しかし、教科書を読むひとは、国による検定があるから、書かれていることをすべて「史実」と思ってしまう。長谷川修一は、それゆえ、教科書は常に新たな歴史学研究を反映し、少なくとも、実証されていないことは、書くべきでないとする。

しかし、これは、非常にむずかしく根の深い問題であることが、本書を通して読むとわかる。
教科書は、それぞれのテーマを専門とする歴史学者たちが、チームで討議して、書いているのではない。

出版会社の依頼で、執筆者は与えられたテーマについて個人の責任で書く。このため、過去の教科書を参照して無難に書き、最新の歴史学研究を反映することはない。歴史的「事実」よりも、世間一般にそうだと思われていることを書いてしまう。しかも、専門分野でないテーマまで執筆している、と本書は指摘している。

国による検定も、少人数で広範囲の内容を検討しているだけで、専門家によるチェックがあるわけではない。具体的には、文部科学省職員が検定依頼のあった教科書の「調査意見書」を作成し、教科用図書検定調査審議会でそれを審議し、検定意見がつくられる。審議会が専門分野にもとづいた分科会から構成されておらず、しかも、短期の会合で審議するから、「史実」かどうかを判定できるはずがない。単に政権の思いにたてついているかどうかが、話題になるだけだ。

さらに、歴史学では、一つの出来事があったか、どうか、だけでなく、どう過去をとらえるかが、問題となる。すなわち、歴史学は、年号と人名を暗記する学問ではなく、過去を振り返ることで、現在を相対化することである。ところが、現在の偏見で過去を振り返れば、現在を相対化できない。

本書は、この面白い例を挙げている。「東欧」というくくりは、「中世」にはない。「中世」は言語で国々に分かれていなかった。「国民国家」というものは近代の所産である。ところが、第2次世界大戦後、ロシアがヨーロッパの東半分を共産主義陣営に引き入れた。そのため、「東欧」というくくりができ、「東欧」という偏見で「中世」のヨーロッパを分割して記述してしまう高校教科書が生まれた。

また、戦前から引き継がれた問題として、明治時代に日本の文部官僚が受けいれた「西洋史」という概念がある。イギリスやドイツやフランスが自分たちの植民地支配を正当化するために作った歴史書を「西洋史」として無批判に受け入れ、それに「東洋史」を付け足すことで、「世界史」とした。これが今でも引き継がれている。

そのために、イスラムの歴史、インドの歴史、東南アジアの歴史、極東アジアの歴史が、「東洋史」のなかに、ひとかたまりとして押し込まれる。また、コロンブス以降の北アメリカ、中央アメリカ、南アメリカの植民地政策下の歴史がいいかげんに扱われている。

では、どうしたら良いのだろうか。以下は私の提案だ。

国による教科書検定は無理である。誤りのない教科書は無理である。

検定をやめよう。アメリカ、イギリス、オーストラリア、フィンランド、フランス、オランダには検定はない。

教科書を崇拝するのを、やめよう。教師が自由に参考資料を選択する。そして、その誤りを指摘することで、資料を批判的に読む学生の力を育てる。

ノーベル賞を今年もらった本庶佑は、つぎのように言う。

「教科書に書いてあることが全部正しいと思ったら、それでおしまいだ。教科書は嘘だと思う人は見込みがある。丸暗記して、良い答案を書こうと思う人は学者には向かない。『こんなことが書いてあるけど、おかしい』という学生は見どころがある。疑って、自分の頭で納得できるかどうかが大切だ」

大学入試に「世界史」を必須とするのも、やめよう。大学入試は、高校で教える全「教科」から1科目か2科目でよい。また、教科書から出題しなくても良い。大学がこんな学生に教えたいと思う学生を選別すればよい。学部や学科によって、「世界史」だけを受験科目にしたって良い。

そうすれば、教科書を丸暗記して答案を書こうと思う学生を、本庶佑も取らなくても済む。大学の教員が学生を選別するのであって、文部科学省の職員が学生を選別するのではない。まして、政治家が学生を選別するのではない。