古朝鮮時代は、檀君朝鮮、箕子朝鮮、衛氏朝鮮の三朝に分けられるが、檀君朝鮮、箕子朝鮮は、神話、伝説の時代であり、学問的には、
定説とされていない。
殊に、檀君朝鮮は、太王四神記に象徴されるように、まったくの神話である。
大昔、天上の桓因(帝釈天)に庶子桓雄がいた。
桓因は、桓雄に命じて、乱れた地上を治めさせようとし、天府印を持たせて、従者とともに、太白山の神壇樹のもとにに降ろした。
桓雄は、諸神を率いて、乱れた人間を教化し、世を治めた。
時に、1頭の熊が人間になりたいと申し出たため、桓雄は、課題を与えて、修行させた。
熊は、無事に、その課題をクリアーして、人間の女になった。
さらに、女は、子を身ごもりたいと願い出たため、桓雄は、人間に変身して、女と結婚し、生まれて来たのが檀君である。
成長した檀君は、平壌に都を定め、国を朝鮮として1500年に亘り統治した。
これを檀君朝鮮と言う。
一方、中国には、周が興り、武王の時代、庶子箕子を朝鮮王に任じたため、檀君は、蔵唐京に逃れ、さらにアサダル山に隠れて、山神となって、
1908歳で没した。(三国遺事「古朝鮮」)
このように、檀君朝鮮は、まったくの神話である。
箕子が建国した朝鮮は、箕子朝鮮であるが、殷に代わった周の武王の時代、紀元前12世紀も、伝説の時代であり、学説的には、定かではない。
周の制度を持ち込んで、朝鮮諸公を治めたとされる。
やがて、周が、周辺異族に滅ぼされると、秦漢の時代に、東北部の民族が箕子朝鮮の国境付近に流入し、一大勢力を形成するが、この中で、
衛満が勢力を伸ばし、前2世紀初頭に、箕子朝鮮を倒し、衛氏朝鮮とした。
衛氏朝鮮は、前108年に、前漢によって滅ぼされるが、衛氏朝鮮に就いては、比較的史実に基づいた資料が残されており、このころから、実際の朝鮮
の歴史が始まったと見る学者が多い。
前漢は、朝鮮に、楽浪、帯方など4群を置き、郡県制をしいて治めたが、次第に、高句麗の勢力が強くなり、漢の郡県制度は衰退し、高句麗が、これにとって代わって行った。
一方、朝鮮半島の中部には、韓民族を主とする馬韓、弁韓、辰韓の三韓があったが、この中で、馬韓の伯斉族が力をつけ、百済を建国する。
半島南東部には、新羅が興り、ここに、高句麗、百済、新羅三国が鼎立して、朝鮮半島を治め始めた。
三国時代のはじまりである。
百済の始祖オンジョ王は、高句麗の始祖とされる朱蒙(チュモン)の次男として生まれたが、朱蒙が、別に、最初の地、北扶余で生んだ子を、太子(次期王)として呼び寄せたため、オンジョとその兄ブルは、家臣、民を引き連れて、南へ逃れ、漢江の漢山城(今のソウル近辺)に都を定めた。
オンジョは、高句麗と同じ扶余の出身であったため、姓を扶余とした。(三国志「百済本記」)
高句麗と百済は、楽浪、帯方2群の争奪をめぐり争いを繰り返した。
371年、百済の近且古王は、北の高句麗を撃ち、故国原王を戦死させるが、4世紀末、高句麗に広開土王が即位すると、勢力は逆転する。
392年、高句麗の南伐がはじまり、漢山城の攻防で、百済のチンサ王が戦死し、百済軍は、漢江南部に後退する。
さらに、396年、次のアホワ王も、高句麗軍に大敗して、和を乞う所となった。
405年、アホワ王が死ぬと、内乱状態となり、百済は、倭の協力を得て、腆支王を即位させて治めたが、高句麗との勢力関係は変わらなかった。
百済のクロ王は、北魏に支援をもとめて、勢力の挽回を図ったが、これが、高句麗の怒りを買うことになり、475年、再度の高句麗南進により、
クロ王は戦死、百済は、漢江のはるか南の、錦江中流まで、後退を余儀なくされた。
以上が、百済が扶余の地に都を定めるまでの、大まかな経緯であるが、この地における、百済の、繁栄と滅亡の歴史は、次回に譲ることにする。