旧開智小学校は、松本城のすぐ隣にある。

手前は、新しい開智小学校。
奥が、旧開智小学校校舎である。

最近塗り替えられたのか、新しくなっていた。
開智学校は、明治5年(1972年)に、南信飯田、飛騨高山を含む筑摩県学として開校したが、翌6年に、開智学校とされた。
。
1868年、明治維新によって出来た明治政府は、欧米列強の、アジア進出、植民地政策に後れをとることを恐れ、
朝鮮半島、中国大陸、東南アジアへの進出を図るため、文明開化、殖産興業、富国強兵政策を摂り始めた。
政府は、国民の教育、指導に資するべく、6年9月に、新しい学制を発布した。
開智学校も、この学制の一環として組み込まれた。
教育の近代化の名目で、欧米の先進的な教育制度が定められたが、日本の軍国主義、植民地政策の進行とともに、
教育の目的は、国民を、国家の為に資させるべく、指導、自覚さえる内容に変わっていった。
特に、太平洋戦争開戦後の軍部の方針は、国民を、戦争遂行の目的で、滅私奉公させる色彩が、著しくなっていった。
国民に、節約と、勤労の大切さを教え、欧米列国の、非道、残虐ぶりを訴えるスロ-ガンが、大々的に掲げられた。
戦争末期に至っては、教育どころではなく、高学年は、学徒動員の名のもとに、労働に供され、低学年は、校庭の開墾、
道路端の農作業などに駆り出されていった。
やがて敗戦になる。
進駐軍は、日本の教育内容を改めさせるべく、教科書の不都合な箇所を削除させた。
昨日まで、先生が、ここは大切だから、よく、覚えておけと教えていた箇所に、ここは、間違いだからと言って、同じ先生が、墨を塗らせた。
mcnjが、小2の時であった。
今回、mcnjが、本稿を取り上げたのは、戦後70年にあたり、日本の教育の歴史を振り返って見ようと、思い立ったからである。
開智小学校は、そのためには、格好の場所であった。
所が、今回初めて知ったのであるが、ここには、戦後の資料室は、現在は置かれていなかった。
もちろん、昔は置かれていた、黒く塗り替えられた教科書も撤去されていた。
10万点にもおよぶ資料の大半も置いては無かった。
この理由について、事務関係者に質したが、置いてないと言うだけで、明確な返答はなかった。
四日市に帰ってから、松本市の教育委員会の担当者に聞いたところ、戦後の部門は、別の資料館に保管しており、希望者には、
閲覧の許可を与えるとのことであった。
開智小学校の展示室は、一般公開であり、フラッシュをたかなければ、撮影もOKである。
いささか、理解できない点もあるので、mcnjが入会している後援会の政党に、情報提供しておいたら、各国会議員に文書を回しておいたとのことで、
関心のある議員は、行動に移すだろうとのことであった。
mcnjの幼少の頃の記憶であるが、語り部としての責任から、本稿を後世に残しておくつもりで書いて見た。。