写真は水戸一高前庭にある、徳川慶喜筆の至誠一貫という碑です。
徳川慶喜(七郎麿(しちろうまろ))は子どもの頃、寝ぞうが悪かったそうです。近侍した女中たちは、父親・斉昭の意を受けて、慶喜が眠るときに、枕の両側に剃刀(かみそり)を立てたそうです。「ひとたび頭を落としたまわば、たちまちに傷つきて痛きめにみたまうべし。心して慎みたまえ。なお武士たる者は、たとえ片寝するにも、(利き腕を切られないように)左を下にすまじきものなり」と夜ごとにいったそうです。
慶喜の母・瑛想院(えいそういん)は、七郎麿のいたずらを知っていて、厳しく諫めることがあったそうです。すると慶喜は、「この坊主め」と、瑛想院の頭をたたいたそうです。周囲は驚いて、大きな灸を据えて懲(こ)らしたそうですが、斉昭も一室に閉じ込めて謹慎することを命じたそうです。慶喜は水戸にいて、斉昭は江戸にいますので、こうした時間的差があったのでしょう。
慶喜は、水泳で弟の八郎麿(後の川越藩主・直侯(なおよし))に勝てないので、負けず嫌いな慶喜は、川に浮いた死んだ魚を食べてわざとおなかをこわして水練を休んだそうです。斉昭は、それ以後あまり強く水練をするようにとはいわなくなったそうです。
五郎麿(後の鳥取藩主・慶徳(よしのり))が4歳の時、雛あそびをしていたそうです。それを見た慶喜は、「五郎様はめんどうなことをあそばすね」といいながら、それをこわしてしまい、けんかになったそうです。
五郎麿呂は文字を好み、友だちを集めて歌をよみ、それを梅の木に下げて楽しんだそうですが、慶喜は乱暴者で、仲間を集めて猫を荒縄で縛って同じ梅の木につるして手裏剣の稽古をしたそうです。
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