献上鮭
寛永5年(1628)から徳川頼房は那珂川をさかのぼる初鮭を甘漬けにして京都御所と幕府に献上したそうです。献上する鮭には2尺2寸の最良品を選び、切り身を寒水を沸かせた塩水に浸し、米と麹に漬けたそうで、初霜漬けといったそうです。斉昭時代、江戸城大奥は斉昭が大嫌いだったそうですが、この初霜漬けは歓迎されたようです。写真は水府橋近くで写したのですが、たぶん鮭釣り風景でしょう。
田口茂兵衛
承応3年(1654)に初鮭を京都御所に献上するために東海道をのぼっていた中間(ちゅうげん 武士に仕え、雑役に従事した奉公人)で35歳の田口茂兵衛は、武蔵国・生麦のあたりで、旗本衆との間でおこった道を譲る譲らないという争いから、武士たちに斬り殺されるという事件があったそうです。これを知って無念に思った頼房は、初鮭献上の飛脚には、それまで帯刀は短刀だけだったのを、長刀を持たせることにしたそうです。写真は仏性寺にある茂兵衛のお墓です。
徳川光圀
光圀は鮭の皮が大好きで、塩引き鮭の皮の厚さが1寸あれば水戸藩35万石と取りかえてもよいというほどだったそうです。(ただし35万石になったのは光圀の次の代・綱條(つなえだ)の時代ですから、話としては面白いのですがどんなものでしょう)
菊池七郎兵衛家
元禄2年(1689)の初冬、徳川光圀が鷹狩りで青柳へ行き、のどがかわいたので、水を所望して農家に立ち寄ったそうです。そこにあった籾俵(もみだわら)に腰掛けたところ、相手が光圀であることを知らなかった主婦に、「その俵は殿様にあげる御城米だから」と叱られ、それが縁で、その菊池七郎兵衛家へ立ち寄るようになったそうです。その後、藤井紋太夫のたくらみを七郎兵衛が光圀に訴えたことから、那珂川鮭漁の権益を与えたそうです。
お鮭頂戴
京都御所と将軍家に鮭が献上されたあと、弘道館の教師へ下される「お鮭頂戴」という儀式があり、それから市場に鮭が出回ったそうです。弘道館では教授頭取が、麻がみしもの礼装で威儀を正して使者と鮭の到来を待ったそうです。写真は門を開けた弘道館です。門の中に見えるのは正庁の玄関です。
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