大阪水曜ほっと集談会一世です。
先日緩和ケア病棟に勤務される先生のお話を聴く機会がありました。
余命宣告を受けた患者さんに寄り添うということの厳しさと難しさを学ばせていただきました。
しかしながら、その語り口にほのかに明るい希望というものを感じました。
なぜでしょうか?
それは、お話の中から死は命の終わりではないというメッセージをいただいたからです。
ふと私の心は、病室での亡き祖母との最後の会話にタイムスリップしました。
母方の初孫であった私を祖母はとても可愛がってくれました。
無条件の愛、絶対的な愛を祖母は、私に授けてくれました。
末期がんのすさまじい痛みを感じていたであろう祖母に、子供の頃の思い出を話したその瞬間、優しくて穏やかなまなざしになったと感じたのは、あれは錯覚だったのでしょうか?
おばあちゃんへ
私は、昨年孫を授かりましたよ。
あなたの気持ちが、少しわかる年齢になりましたよ。
ありがとうございました。
祖母との会話は、今も続いている。
※今日の森田博士の言葉
死ぬのは恐ろしい。
生きるのは苦しい。
言い換えれば、死を恐れないで、人生の思うままの目的を、
楽々とし遂げたいということになる。
これが神経質の特徴であって、無理にも、自然に反抗しようとする態度になり、
死は当然恐ろしい。
大なる希望には、大なる苦痛・困難があると、
きわめて簡単なことを覚悟しさえすれば、
それだけで神経質の症状は、
強迫観念でもなんでも消失するのである。
すでに神経質の全治した人には、
これが簡単に理解できるが、まだ治らない人は、
まったく嘘のような法螺のような話である。
2020・12・9 一世