大阪水曜ほっと集談会一世です。
最近少々疲れ気味の私です。
コロナの新規感染者数に一喜一憂する生活が続いています。
集談会での心の栄養補給が必要なのかもしれません。
一般社会では、知らず知らずの内に、心のエネルギーを奪われます。
さて私には長いサラリーマン生活の中で、向き合うことなく、置き去りにしてきた思いがあります。
それは理不尽でその時の都合で反転する企業の価値観であったり、未成熟な上司に対する怒りや降ってわいてくる家族の問題など様々です。
症状の陰に、生きるためそして神経質特有の過剰な責任感から心に蓋をして置き去りにしてきた思いが皆様にも少なからず、あるではないでしょうか。
それは時に、集談会でしか語られることのない深い深い哀しみです。
その思いを吐き出してもらうだけでも集談会の意味はあるのかもしれませんが、果たしてそれだけで良いのでしょうか?
この度のパラリンピックで懸命に闘う選手をみて色々考えました。
極論を承知で投稿させていただきます。
対人恐怖であろうが、パニック障害であろうがそんなことはどうでもよいことではないか。
神経質性格に配慮した快適な職場環境など存在しません。
いつも夫婦が円満で笑顔の絶えない家族など稀でしょう。
症状を出来ない理由にしてあきらめるのか、持ちながらとりあえずやってみるのか、この小さな選択の積み重ねがその後の自分を決める気がしています。
ヒネクレの私ではあるが、葛藤しながらカッコ悪くても素直にやってみたことが後に新しい出会いにつながり世界が拡がった気がします。
今自分が言いたいことをいう。
今自分がやりたいことをやる。
ビクビクハラハラしながらその時の思いを伝える。
その時の心を、けっして置き去りにしない。
結果として、生じるあらゆる感情を受け入れて見つめる。
今日は、やはり疲れているのか理屈に偏った投稿で森田先生に叱られそうですね。
2021・9・12 一世