古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

戦争体験だけは記録しておきたい……その気持ちわかります

2010年01月21日 23時15分41秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
「……私は作家たらんと志して作家になった人間ではない。肺結核にかからなければ、今日あるいは別の職業人として、ちがった日常を送っていたかもしれない。しかし、いつかどこかで『ルソンの谷間』だけは書いていただろうと思う。」 …… 江崎誠致『ルソンの谷間』 あとがき より

 兵士たちの無残な敗走を描いた『ルソンの谷間』で直木賞を受賞した作家・江崎誠致の‘あとがき’から引用しました。この本は昭和三十二年に出版され、今も読み継がれている戦記文学の最高傑作です。言葉のつよさ! 文のつよさ! 大倉山の図書館で二度借りて読み、手もとに置きたくて古本を買いました。
 きのう取り上げた『水木しげるのラバウル戦記』を読了しました。やはりホッとします。どこか一節を引用してその「ホッ!」を伝えようとページをめくりましたが、やはり全体を読まないとその味は伝わりません。
 水木さんも江崎さんも自分の戦争体験だけは書き残したいと思ったでしょう。実は12年前に八十八歳で亡くなった父も自分の『朝鮮引揚げ物語』を書き残しています。
 父は兵士ではなく戦時中小学校の教員として朝鮮に渡り、京城(いまのソウル)よりはるか北の田舎で校長をしました。村では駐在所の巡査と校長だけが日本人でした。朝鮮の人たちは敗戦後すぐに日本人を襲いました。その中を文字通り命からがら逃げ帰ってきたのです。(母とぼくたち子どもは母の病気で一年前に内地に帰っていました。もし敗戦までいたらどうなっていたか)
 父は9月12日に我が家に帰ってきました。敗戦からわずか一ヶ月足らずでしたが、その体験は生涯忘れられなかったようです。何度か自分の『引揚げ記』を書き直し、50枚の手記を残しました。
 兵士として戦争に行った人も空襲で逃げまどった人も、あの戦争の体験だけは残したい。満蒙開拓青少年義勇軍として旧満州(中国の東北部)に渡り敗戦を体験したかつての少年たちも、自分たちの体験を数多くの本に残しています。そのすぐ後の世代がぼくたちです。
 思いがまとまりません。また考えます。
 
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『水木しげるのラバウル戦記』を読んでます

2010年01月21日 00時08分00秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 新年になって読んだ本に『ビルマ最前線』(小田敦巳 著・光人社のNF-ノンフィクション-文庫)があります。ビルマというとあの愚劣な『インパール作戦』と牟田口廉也にこのブログでもふれましたが、この著者はその作戦には参加しませんでした。しかし劣勢な戦局で敗走に敗走を重ね、やっと生還した若い兵士です。

 かつて日本軍将兵31万人がビルマに派遣され、そのうち19万人が帰らぬ人となりました。じつに驚くべき数字です。私の所属していた54師団(兵〔つわもの〕兵団)は、編成当時16500人いましたが、12000人が戦死し、復員したのはわずか4500人という、まことに痛ましい限りの犠牲者の数です。私のいた瀬澤小隊では編成当時120人いた者が23人に激減し、終戦後、さらに二年間の抑留生活の後、やっと復員することができたのです。  …… あとがき より
 
 戦死といっても戦闘で死んだのでなく、ほとんどの兵士は敗走中の飢えと病気による死亡です。身近な一人一人の兵士の死をていねいに、人間味のこもった見方で書いておられました。そして残るのはいい人の死という不条理のやりきれなさです。
 そんなとき図書館で『水木しげるのラバウル戦記』を見かけ、また借りてしまいました。(1994年発行・筑摩書房)この本は神戸に住んでいた頃、大倉山の神戸中央図書館で二度借りて読んだことがあります。どうして二度も借りたかというと、なにかホッとするものがあるからです。
 水木しげるさんが書いたといっても、妖怪やお化けが出てきて助けてくれるわけではありません。水木さんは軍隊ではいちばん下の位だし、人より要領がわるいから、いつでもビンタをくらいます。でもどんなときも兵隊や戦争を超越しています。その絵と文にホッとします。
 ぼくは水木しげるのファンでもないし、妖怪漫画が好きなわけでもないのですが、彼の文を読むと気持ちがいい。そんな本こそ人間の心の一番奥底で「戦争に反対する心情を育む」のかもしれません。
 
 
 
  
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