古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

『静かなノモンハン』を読みました。

2011年06月20日 05時11分18秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
         
 ガウラ(白蝶草)は白いチョウチョが飛んでいるようにも見えます。宿根草で花は咲くとすぐに散ってしまうのですが、5月頃から10月まで次々と花が咲き、株も増えていきます。先日村の中を散歩していたら土手一面にガウラが咲いている田んぼがありました。ガウラを愛する奥さんが年々土手に増やし、ご主人も草刈りをするときにガウラを刈らないよう気をつけておられるのです。斜面いっぱいにガウラが咲いていると、思わず散歩の足をとめて眺めたくなります。
 図書館で作家伊藤桂一の『静かなノモンハン』(2005年発行・講談社文芸文庫)という本を借りて読みました。伊藤桂一は大正六年生れの詩人・歌人・作家で昭和13年に21歳で兵隊になり、昭和21年に29歳で復員するまで、20代のほとんどを中国戦線での戦いに明け暮れました。
 この本はもとは1986年(昭和61年)に同名の単行本として発刊されました。それが二十年を経て文庫になり版を重ねています。これは「ノモンハン事件」で兵隊として戦い、わずかに生き残った三人の兵隊のそれぞれの体験談です。あの「ノモンハン事件」の全体像を明らかにしようとか、戦争の作戦はどうだったかとか、指揮官を断罪するとか、そんなことは一行も書かれていません。
 伊藤桂一は三人の兵隊に話を聞き、その体験を一人称で書いています。これだけの体験をしぼり出すように語り、聞く。この戦争を後世に伝えようとする、兵隊の、そして作家の、「大きな岩のような厳然たる決意」に読む者が粛然となります。
 下級兵士としてビルマ戦線で戦った体験記、ルソン島や南の島で戦った戦記、インパール作戦に参加した戦記などをいままでの人生で読んできましたが、「ノモンハン」は遠い存在でした。愚劣な上級参謀たちのやった戦争で、いまさら知りたくないという気持ちがありました。
 高級将校たちはこの負けた戦争の実情を意図して隠蔽しようとしました。ノモンハンの戦闘に参加してわずかに生き残った兵士を口止めするだけでなく、わざと危ない戦線に投入しました。あの戦争の実情はほとんど伝わらないようになっていました。
 だからこそ兵士は語り、作家は自分の中にとり込み、自らの体験として、紡ぎ出したのでしょう。自分の存在を、いのちをかけた、仕事です。
 最近日本の戦争回顧の週刊誌を、本屋の店先で見かけました。ノモンハン戦争を特集しており、ソ連と日本の戦力の比較、死者数の比較、戦術や勇敢さの比較などが図解や写真入りで書かれていました。「日本軍はいかに智恵をしぼって勇敢に闘ったか」を伝えようとしている本に見えました。泡のように消えるこんな本がいまも出るのですね。
 司馬遼太郎は、中国戦線で戦車隊として戦いました。ノモンハンはどうしても書かねばならない、と資料を集めていました。しかし怒りがあまりにも先走って書けなかった。この本の中で伊藤と対談して言ってます。

 伊藤: それやこれや考えると、司馬さんは、ノモンハンが書けない。血管が破裂してしまう。
 司馬: 破裂するでしょうね。

 しかし、伊藤桂一は自分の存在を堵して書きました。伊藤氏のこの本を読んで、やっと半藤一利の『ノモンハンの夏』を読む気になりました。半藤一利が「司馬は書けなかったから自分が書く」といって書いた本を。
   
コメント
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