古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

今年も三度目のイチゴ宅配。

2011年06月02日 02時19分18秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
『ツボミオオバコ』という雑草の写真です。いま畑の遊歩道にすき間のないほど生えています。ネットで見ると「戦後西洋から入ってきてはびこった」と書いてあったり「大正時代に入ってきた」と書いてあったりしますが、いま大変な勢いで広がっている草です。日本にむかしからあった『オオバコ』はなかなか見られません。
 雑草の害としては中害雑草になるそうです。それでもこれだけの密度で生えると「おー、よしよし」と見守る気持ちになれません。これから穂の高さが50センチ以上になり、他を圧倒するような迫力ある草になるのです。「これだけ生えて、その穂が種を撒き散らしたら、地球はツボミオオバコでおおわれてしまうんじゃないか」と思ったりします。
 イチゴも終りです。きのうは孫に最後の宅配をしました。やっぱり今年も三回。ま、おじいちゃんおばあちゃんが元気なうちは「孫のためならエンヤコーラ!」ということですな。

 江崎誠致(えざき まさのり)という直木賞作家に『ルソンの谷間』という作品があります。ルソン島で敗戦直前に逃げまどった日本兵を、鋭い彫刻刀で刻むように描いています。忘れられない本の一冊で、神戸の大倉山図書館で何度も借りて数回読みました。その後ネットの古本屋で入手して、いまも手元に置いています。『あとがき』に彼は書いています。

 ……私は作家たらんと志して作家になった人間ではない。肺結核にかからなければ、今日あるいは別の職業人として、ちがった日常を送っていたかもしれない。しかし、いつかどこかで「ルソンの谷間」だけは書いていただろうと思う。

 いずれにしても、戦争を離れて、私の人生は存在しない。小学校で満州事変(1931年・昭和6年)、中学校で日中戦争(1937年・昭和12年……ぼくはこの年に生まれました)、つづく太平洋戦争には兵士として出征というのが私の経歴であり、とくに最後の戦場生活(ルソン島で山中を敗走した)は、戦後の平和が何十年つづこうとも、決して薄れることのない刻印を私の体に刻みつけている。そして、その刻印が薄れることを望む気持は、今もない。

 この本に彼は、必ず死すべき特攻隊として10回も出撃し、飛行機の不調とかで舞い戻り、最後は監視付きで飛び立ち、敵艦に体当たりさせられた話とか、部下に突撃させながら自分は逃げ帰ろうと船で脱出し、マニラ湾で米軍に沈められた上官のエピソードをさり気なく入れています。
 日本の兵隊は勇敢でした。死ぬことを恐れず突撃しました。でも上官は先頭に立って突撃しませんでした。後ろから味方に狙い撃ちされることを恐れました。新兵をいじめていじめて、自分の弾よけにして、食い物を余分に食って、部下より生きのびようとする。そんなヤツがいっぱいいた。そして敗戦後ヤツらは頬かむりして生きた。でも(御)「聖断」や「一億総懺悔」のおかげで、頬かむりを引っ剥がされませんでした。
 散歩して墓地があると先の尖った墓石を見て、碑文を読みます。ほとんどは太平洋戦争で戦死した村の二十何歳の若者の墓です。戦争末期に南の島で戦死した若者が多い。ニューギニアであったりフィリピンのルソン島であったりレイテ島であったり。いま生きていたら90歳近い村の古老になっているでしょう。それが二十何歳で断ち切られた。
 何度書いてもまとまりません。戦死した若者の気持ちを思うと、いつまで考えても区切りがつきません。でもあの戦争の責任はどうなるのですか。また考えます。
 
 

 
  
  
コメント
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