ゴミ捨てのついでにドライブがてら軽トラで走り、久しぶりに保木(口吉川町の集落の一つ)の神社にお参りしました。ここの〈楠〉はぼくの好きな樹です。枝が広がり、見ていると気持ちがひろがります。
さて、いま水谷豊などが出る映画『少年H』が公開されています。
妹尾河童のベストセラー小説『少年H』を映画化したものです。ぼくは戦時中のドラマは気になって見るほうですが、この映画は、テレビで放映されるようになっても見ないことにします。
元の小説が駄目だから、底流に流れるエエカゲンさがイヤだから、見ません。
「へそ曲がり」と思われてもかまいませんが、できればその気持ちをわかっていただきたくて、書きます。お読みいただければうれしいです。
山中恒(ひさし)という児童文学者が、『間違いだらけの〈少年H〉』という労作を書いて、ベストセラー小説を批判しています。山中の批判は正確に的を射て、あの小説の弱さを暴いています。彼は、嫌がらせでなく、自分という存在を成り立たせるために、どうしても必要な仕事をしたのです。
何よりイヤなのは、小説『少年H』は、反戦の小説になっていますが、あれは「あとになってから大人の分別で書いた」反戦小説だからです。
ぼくは昭和12年生まれです。大日本帝国が戦争を仕掛け、真珠湾攻撃をした昭和16年12月はまだ4歳でした。世の中がどうなっているかなにもわからないときでした。でももし12歳の少年だったとしたら、あの臨時ニュースに「血沸き肉躍る」子どもだったでしょう。日本中の子ども達がワクワクし、「オレも大きくなったら兵隊さんになって戦争に行く」と思ったでしょう。
定年退職後「満蒙開拓青少年義勇軍」の人たちに聞き取り取材を数年間したことがあります。
彼らは尋常小学校の先生たちに背中を押されて14歳で義勇軍に志願しました。85000人の少年が、銃のかわりにクワの柄(ただの木の棒)をかついで満州に渡りました。25000人は生きて日本に還れませんでした。
またある人に聞き取りをしたとき、彼は1945年(昭和20年 …… 8月に敗戦の年)4月、15歳で海軍予科練に志願して入隊しました。敗戦前でもう訓練なんてまともにできず、殴られる日々でした。その彼が話したのを覚えています。
小学校の学級には男子が30人いて、29人が兵隊になることを考えていた。1人だけ兵隊にならないと決めてた子は、双子だった。「1人が兵隊になり、他の1人が家業の大工を継いで親をみる」と2人で相談していた。
作家・城山三郎はやはり予科練に志願し、殴られる日々を過ごし、敗戦後価値観がひっくり返り「私は廃墟になって生きた」と書いています。(『そうか。きみはもういないのか』)
敗戦のとき15歳で、昭和史の著作が多い半藤一利は「敗戦後の大人たちの変り身のはやさにキモを潰しました」と書いています。
「あの戦争は負けると思った。だいたい○○がおかしかった。○○がヘンだった」と大人はあとで言います。でも少年にとっては、自分の信じている宇宙がひっくり返ってしまうことです。
陸軍幼年学校で敗戦を迎えた作家・加賀乙彦に『終らざる夏』という自伝的小説があります。彼は幼年学校の生徒として敗戦を認めまいとして奔走し、最後は自決する結末になっています。彼は作品の中で一度自分を死なせなければ、立ち直って生きていけませんでした。
4月に亡くなった先輩は、12歳の愛国少年でした。彼は敗戦後「オレは、まわりの大人の言うこと・することを、黙ってじーっと見て過ごした。一年かかってやっと、〈世の中ちゅうのはこんなもんなんやナー〉と思えるようになった」とぼくにしみじみ話したことがあります。
「あの熱狂」を、自分だけわかったような顔して、あとになってから分別臭くあれこれ言われたくない。
モノのわかったような顔でコメントする。〈一億総懺悔〉で責任をあいまいにして、きちんと反省しないでごまかした。軍隊内の初年兵いじめだって、作戦ミスだって、下への責任の押し付けだって、いろんなずるさをそのままにして戦争が終ったことにした。敗戦時の隠匿物資だって、例えば旧満州の731部隊の犯罪だって。ドイツのナチス告発とそこが違うにです。あの『白ばらの祈り』という映画が2005年になってつくられた国。若者にいまも人気のあるゾフィー・ショルという少女(映画の主人公)。
なんか違うんだなあ。責任追及や反省があいまいだから、日本はまた戦前の軍隊のようなものが生き返る。「戦争反対」が上滑りになってしまう。軍隊の無責任がいま官僚機構にそのまま生きてます。
まとまりませんが、75歳のぼくは、あの映画の姿勢が受け入れられないのです。