古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

『半藤一利さんの教え』より引用します。

2022年10月22日 02時37分00秒 | 古希からの田舎暮らし
〈浜坂への旅行〉中に読んだ本から引用します。半藤一利と池上彰の対談の本です。『令和を生きる』(幻冬社 新刊 2019年5月刊)お二人は、わかりやすく時局を話してくれる人ですので、期待して読みました。いろいろ引用したいのですが、二つにしぼりました。読んでみてください。


半藤: 「バスに乗り遅れるな」というスローガン。なぜ日本人はその言葉に乗りやすいか。ここで昭和史のおさらいをしておきます。/ 太平洋戦争開戦の前年、昭和十五年(1940)のことです。ヒトラー率いるドイツ軍が電撃作戦をはじめて、ついに六月、パリに無血入城を果たしました。快進撃を見て、日本では陸軍が息巻いた。イギリスが白旗を上げるその前に、ドイツ、イタリアと三国同盟を結ぶべきだと主張したのです。陸軍大臣をわざわざ辞任させて海軍出身の米内光政内閣を総辞職に追い込みました。そして近衛文麿内閣(第二次)を七月に誕生させ、九月にはもう三国同盟を結んでいます。「バスに乗り遅れるな」という言葉がこのとき盛んに語られたのですが、その意味は、「早晩ドイツが勝つから、早く参戦しないとドイツの分け前にあずかれないぞ」ということでした。東南アジアのイギリス、オランダの植民地は、戦勝国ドイツの手がのびる前に押さえておきたかった。インドネシアとフランス領インドシナといった地域の資源は、日本にとって喉から手が出るほど欲しいものだったのです。このあともう一度、昭和十六年にもまた「バスに乗り遅れるな」が叫ばれることになります。
 ドイツ軍の対ソ大進撃がはじまったのが昭和十六年六月二十二日。独ソ不可侵条約を無視したドイツ軍の奇襲の前に、ソ連赤軍は敗走させられました。このときイギリスとアメリカはただちにソ連援助の声明を出しています。つまりソ連が英米の陣営に入ったわけです。
 いっぽう開戦後のドイツは、盛んに日本の決起を督促してくる。大島浩駐独大使をつうじて、対ソ作戦に協力してほしいと言うのせす。作戦はたちまちドイツ勝利のうちに終了する可能性が高いとも言ってきます。オットー駐日ドイツ大使も、いまこそ日本にとって唯一無二のチャンス。対ソ軍事行動を起こすことによって、希望どおりに中国との戦争、支那事変を解決できると、リッペントロップ外相の申し入れを伝えている。それらの情報は、日本の好戦派を武者震いさせることになるのです。「ソ連が白旗を上げる前にこそ立つべし」「バスに乗り遅れるな」とかれらの勇み足を早めさせた。そしてこの国は情勢分析と政治判断を誤り、全国民を巻き込んだ凄惨な負け戦に突き進むことになったわけですね。国民はほとんど思考停止の状態でした。軍部や政府の言うがままに闇雲に走り出していた。その話、覚えておいても損はないです。


 いま読むと、実にわかりやすい。一部の好戦派だけでは事態はうごきません。新聞も国民をあおりたて、みんなが〈この流れ〉に熱狂して、あの戦争に突き進んだのでしょうか。


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