老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

労いの言葉

2024-01-25 18:29:39 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2016 松さんが亡くなった


         2024年1月25日 阿武隈川辺散歩路 朝陽に照らされて
                             beagle元気と老い人の足跡


ショート利用中 食事中に詰まらせ亡くなった。
予期せぬ死であった。

薔薇の花を食べた89歳の認知症老人 故松さん(女性)。

無言でショートステイから家に帰った松さんの顔は、穏かな表情であった。
言葉をかければ、いまにでも眼を覚ますかもしれない。
自分は穏やかな表情で死にたい、と思った。

老母の介護から解放され、本当に最後まで介護をされてきた長女。 
「できる限りのことはやったから悔いはない」
「亡くなった父親が、もう俺のところに来いと母親を呼んだのでしょう」

「ショートの施設に対しては恨みはなく、介護して頂いたことで感謝しています」
「桜デイサービスには本当に助けてもらった。医院や病院の付き添いをしてくれたときは、本当に助かった」
「一時、自分の両腕はあがらず、腰も痛く、辛かった。本当にありがとうございました」
と 穏やかに話された。

ショートステイでの事故 介護スタッフが目を話したときに 喉を詰まらせ亡くなった。
施設を責める訳でもなく、長女の気持ちは複雑ながらも、老親の死を受け入れてもらえることができ、ホッとした自分。

長女は、老親の介護にかかわり 身をもって苦労したから
ショートステイの介護スタッフの大変さをわかっていたからこそ
責めることはしなかったのかもしれない。

「夜間の徘徊、頻回に重なったトイレの介助
朝方玄関上がり框での度重なる転倒による負傷等
最後は本当に大変でしたよね。
娘さんも憔悴しきった表情で
この先介護続くのかと心配していました。
でもよく介護されていて、お母さまは幸せでしたし
安心してご主人のところへ逝かれたと思います」
と 言葉をかけると
最後は涙ぐまれていた。

介護を終えた後
介護者に労いの言葉をかけることも
大切なことである。

妻が夫の老親の介護を終えたとき
介護の協力はなかった夫であったけれど、
最後に「介護お疲れ様、本当にありがとう」
と、その一言でいままでの苦労や辛さが報われた気がしました。
 
「ありがとう」「長い間お疲れ様」、その一言は

心身共に蓄積された介護疲れは、ふ~と心が軽くなります。

2017-06-15掲載。 一部書き直したり付け加えたりしました。



老母の介護に疲れた その後2 「死んだように眠っていた」

2024-01-24 20:10:19 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2015 おかげ様で私も夜眠れるようになった


        冬の阿武隈川 寒さを感じさせる白い川波 令和6年1月23日 撮影

松さん(89歳)は、愛想はなく
他のお客様が「おはようございます」と挨拶をしても
無愛想で「・・・・」のまま
自分から話しかけることようなことはない
見るからに意地悪婆さんの雰囲気

何もしないでいると
「トイレに行きたい」と訴え
椅子から立ち上がろうする
傍に座り手を握ると落ち着く 
寂しがり屋なのか 甘えん坊なのか

昨夜は徘徊で活動していたせいか
手は温かい 眠いのかもしれない
眠いからと言って ここで寝せては
昼夜逆転を 逆転させ 
昼起きて 夜寝る のリズムに戻さねば

桜デイサービスのスタッフは
ボールやゴムバンド、手拭いなどの小道具を使い
手足を動かす運動を1対1で行った
ときには他のお客様にも参加して頂き
輪になり 音楽に合わせ体操を行った

午後は、スタッフと一緒に30分ほど
桜デイサービスの界隈を散歩
昼寝は無し

音程は微妙ではあったけれど
本人はそんなことは気にすることはなく
大きな声で 5曲ほど唄った
このときも,ただ座って唄うだけでなく
身振り手振りを入れながら唄う

画面の文字や歩くときに
視点が左側ばかり向くことに気がつき
もしかしたら右眼が見えていないのではないか、と疑い
大きな月暦を使って視力検査を行った
左眼を手で押さえたとき 右眼は大きな数字を読むことはできなかった
右眼がみえていない
長女も 気がつかなかった

今回いっしょに彼女と行動した際に
桜デイサービスセンター長が気づいたのであった
これは大きな発見で
糖尿病による失明なのか 医師による診察が不可欠である

初日のデイサービスは寝ることもなく手足や体を動かした

帰宅し
松さんは夕食を摂り20時30分頃まで起きていたが
その後は朝まで一度も起きることもなく爆睡
翌朝 長女真恵さん(62歳)に電話をかけ様子を伺う
「死んだように眠っていた」

2日目 3日目も翌朝電話すると
真恵さんから同じ言葉が返ってきた
「死んだように眠っていた。おかげ様で私も夜眠れるようになった
「本当に感謝しています。安心して仕事に行けます」

まだ気は抜けないが
昼夜逆転は消失した

トイレ行きたいコールはかなり減ってきた
黙って座っているとトイレのことが気になる
体を動かしている間は トイレのことを忘れる
頻回にトイレに行ったとき オシッコは出てもチョロチョロ
1時間に1回となると それなりにオシッコが出ると 本人も満足する

手足や体を動かさず 椅子に座った状態でも
「トイレに行きたい」という言葉が頻回に出ないようしていきたい
まだ始まったばかりである

夜間徘徊 トイレコール頻回 は消失しつつある

「また、デイサービスに行きたい」「楽しい」等など
飽きさせないことが大事

ときには「何もしない時間」も必要

寝せないこと、テレビ子守にさせない
食事中はテレビをつけない
「そのために紙オムツがあるのだから・・・・ 紙オムツにしなさい」ではなく

桜デイサービスは、本人の尿意を無条件に受け止め
トイレで用を足す
紙オムツをしてもトイレに行き、洋式便器に腰掛ける


徘徊」(この言葉が嫌い)「トイレ頻回」など
いろいろと手がかかるから
「寝ているときは無理に起こさない」(寝た婆さんを起こすな)、ということで
昼間なのに寝せてしまう

認知症だから何もできないから、と決めつけ、ただ座っていると眠くなり寝てしまう。

だから、家に帰ると昼夜逆転現象が起こってしまう。


ピンク色の文章は 令和6年1月24日 加筆したものである

「老母の介護に疲れた」その後

2024-01-23 14:04:46 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2014 老母 松さん


本当は、歩行介助は杖を着かない側に
着くのがよいのですが、研修しても
まだ理解ができていない介護職員も
います。反省しています。
杖側の腕を持つと老人は歩きにくい
ですよね


老母 松さん(89歳)の夜間徘徊と3~5分間隔の「トイレに行きたい」
という行動は いまも延々と続いているのか
それとも消失したのか
気になるところです。

松さんはⅡ型糖尿病の持病があり
別の内科クリニックを受診中にあった。
インスリン、服薬による薬物療法と
長女真恵さん(62歳)の献身的な食事療法により
(長女は、仕事をしていたので朝5時に起きて、老母のだけの糖尿病食を作っておられた。脱帽です)
血糖値は安定していた
安定していないのは 不穏な行動「徘徊」と「トイレ頻回の訴え」

私は 長女の同意をとり
隣市にある認知症専門医 鎌田和志医師に電話を入れ
初診の予約をとった。

精神科医、心療内科医 どちらでもかまわないのですが
認知症高齢者にかかわらず、精神障害者も含めて
患者やその家族の悩み、不安などを
よく聴いてくれる医師かどうかが大切

大変な介護者だけの話を聴いて
老親に強い眠剤を処方され
徘徊やトイレ頻回の行動は収束されたけれど
朝まで眠剤の作用が残り
ぼぉ~とした表情になり
生気が失せてしまい、うつらうつらしてしまう。

真恵さんは、今日の先生はよく話を聴いてくれた
老母のことも気にかけてくれていたし
安心して昨日は眠ることができた、と
翌日電話をかけたときに 話してくれた。

認知症の進行を遅らせる薬と
就寝前に気持ちを安定させる薬が処方された。

薬を服用してもすぐに効果は出るものではなく
長女の介護苦労は依然続いていた

私は 桜デイサービスセンター(令和5年2月28日付け廃止 自分が経営していた事業所)のスタッフに
「松さんの利用を受け入れをお願いした」
さらに ショートステイ静狩苑の併用利用
ショートは長女の気分転換、息抜きを兼ねた利用

桜デイサービスの利用が始まった。
明子センター長が初日の担当となり
彼女と1対1の関係で付きあった
トイレに行きたい、と訴え椅子から立ち上がった行動は100回を超えた。
実際にトイレに行ったのは20数回
20分に1回はトイレまで着いて行き、見守りを行った。
(再掲載)


この先どうすればいいのか

2024-01-22 18:29:32 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2013 老母の介護に疲れた



老いた母親の介護は疲れ果てた
顔は一回りちいさくなり目は窪み
どうしていいかわからない

デイサービスからも
ショートからも
「もうみられない」というようなことを
言われてしまった

この先どうすればいいのか

その夜 ケアマネは駆けつけ
長女の深く暗い悩みに
耳を傾けた

老母は,夜中十分おきに起きトイレへ行く
数度夜中表へ出だし歩き始める
外へでたときは後ろからついて行く

「私の体のほうが悲鳴をあげている」
「もう横になりたい」
「もう眠りたい」
と長女はか弱い声で話す

ようやく老母が
認知症であることを始めて認めた長女

長女は母親との軋轢を話してくれた
娘からみれば母親ではなかった
東日本大地震のとき
「娘にやる米はない」と言われた
「母ではなく鬼だと」思った

母は何も変わってはいなかった
子どもだったときから
母親と温かい言葉を交わしたことがなかった

それでも私の母親には変わりはないと思い
介護をし続けている私
糖尿病で手を煩わせている母
認知症でてこずらせている母
まだ家でお世話していきたい、と

長女が抱えている悩み、不安、葛藤、疲労、憔悴など
絡み合った糸をほぐすためにも
彼女の話を最初から最後まで聴いた

2017/05/06 (再掲)

老母は、天国で暮らしている
介護から解放された長女
忘れた頃に電話がかかってくる
「大根、葱があるから、畑から持ってきたばかりだから」、と言って
遠慮なく早朝に頂きに伺う。

とりとめのないブログ

2024-01-21 20:10:24 | 阿呆者
2013 冬の雨


                     阿武隈川冬景色

那須連山の山々が眺望できる阿武隈川の辺
1月21日
冬の季節なのに雪はチョッとだけ降り
朝から夜まで強い雨が降り続いた
気が滅入り 意欲喪失
何もせず ボォ~としていて 怠惰な極まりない一日であった

どこか近くの温泉にでも行き、ゆったりとし心まで洗ってきた方が良かったのかな

明日は自治医大附属病院循環器内科 外来受診
夜明け前の4時に目を覚まし、4時半頃から40分間 beagle元気と散歩
5時30分には家を出る

20:08 点眼薬で瞳を潤したあと、至福の境地 蒲団に滑り込む
今日はとりとめのないことを書いてしまった
おやすみなさい

「あの人は、どうして来ないのかなぁ~」

2024-01-20 20:51:12 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2011 ”亡くなったときは知らせて欲しい”


  
いつも違う場所から写した阿武隈川風景、右に見えるのは桜並木


土曜日だと家族に会える家もあるので、在宅訪問をした。

利用票に印鑑だけを押してもらう「宅配便」訪問にならない気をつけている。
訪問を待ち焦がれている美代子婆さん(仮名 91歳)。

「いつも同乗しているお爺さんがいない」
「どうして来ないのか気になる」
来ない日が続くと、入院したのかな、施設に入ったのかな、死んだのかな、と頭の中で思い巡らしてしまう。

1月9日デイサービスを休んだ。
1月13日の
福島民報のおくやみ欄にお爺さんの名前に目が留まった。
「1月11日に亡くなっていた」。
どうして来なくなったのか、そのときはじめて知った。

デイサービスの責任者にそのことをお話ししたら
「そう亡くなったの。他の利用者に言わないでね。動揺するから・・・・」。

「同じひとつ屋根の下で過ごした仲間」の死をどう、他の老人に伝えるべきなのか、否か、悩み戸惑うスタッフもいる。
事業所によって「老人の死を知らせない」ところもある。
何故、死を知らせないのか。他の老人にショックを与えてしまう。

確かに親しかった老人の死を告げらたら、ショックを受けてしまう。
そのことに美代子さんは、こう自分に話してくれた。
ショックです。でも、亡くなったその人のことを想いだします
無口なお爺さんだったけど、笑顔を見せてくれたり優しかった。
デイに向かう車のなかで、手を出して”おはよう”といつも声をかけてくれた」。

彼女は、「死を知らせてもらった方がいい」、と話す。

自分は、老人介護施設で従事してきたときも、いまも
ひとりの老人が亡くなったこと わかったときには他の老人にも伝えてきた。
「ショックである」、でもそのことでその人過ごした思い出や人柄を思いだす。
その言葉はとても意味深いものがあります。

なぜ美代子さんは、「死を知らせてもらった方がいい」と話されたのか。

同じ釜の飯(昼食)を食べた仲間、
亡くなったことも知らされないまま、
あの人は「どうして来ないのか気になり」ながら過ごし、かなり時間が経ってから
「なくなったんだ」と言われても、しっくりこない。

他の老人が亡くなった事実を
自分の身に置きかえて考えるとよくわかる。
「自分の死」を誰にも知られることなく、居るのは嫌だし、寂しい。
生きているのか、死んでいるのか、わからないまま、自分の存在が忘れ去られてしまう。

家族の死、親しかった人の死、老いてからデイサービスで知り合った老人(仲間)の死
死は辛く悼みを伴う。
美代子さんが話してくれたように、「亡くなったその人のことを想いだします」。
仲間の死を通し、自分もいつかは死ぬ、ということを、改めて思う。

死を知らせる、ということ。
生きてきたひとりの老人の存在を認めていくことにつながっていく。
亡くなっても、その人の存在は、誰か心のなかで生きているのです。

死は、哀しみ、悼みを伴うからこそ、ひとりの死を通し
残された時間(老い)をどう過ごしていくのか、見つめ直すきっかけにもなる。

介護スタッフも同じです。
ひとりの老人が亡くなった事実をどう受け留めるのか。
「留める」という言葉は、亡くなった老人のことを想いだしたり、また十分なケアが為されたのか。

老人(人)はいつ亡くなるかわからない(自分も同じく、いつ幕が降りるのか、わからない)。
今日が最後と思って食事を作ったり、お風呂に入れたりする、その想いが大切なのかもしれない。
100%のケア(サービス)は難しいけれど、
その人に対し自分はどうかかわったのか、かかわってきたのか、振り返ることです。
その老人に出来なかった(反省、後悔等々)ことは、他の老人にその想いをかけていく。

堂々巡りなことを書いてしまったけれど
死は避けるものではなく、対峙することだと思う。
死に近い老人ほど死に対し恐怖、不安を抱きながらも、1日でも長生きしたい・・・・。

何人にも死はいつか訪れる。
それを意識しているか、意識していないか、だけの違いでしかない。

美代子婆さんと話をし、死ということについて考えさせられた日であった。











笑えない話

2024-01-19 21:54:12 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
2010 エンシュアと下痢止め



エンシュア・リキッド(製):エンシュア 食事がとれないときに用いる
総合栄養剤です。 栄養管理はどんな病気でも大事です。 このお薬は、
食事がとれないときや消化・吸収力が弱っているときに用いる総合
栄養剤です


齢は71歳で週3回人工透析の治療を受けている老人の話。
一月当たりの年金受給額は20,000円僅か。

偶数月15日年金が振り込まれると
1週間位で食べ物に消えてしまう。

お金も米もなく、食べる物がない。

彼は「重度心身障がい者医療費受給証」を所持しておられ
福島県内の医療機関、薬局での支払いは全額免除の適用を受けている。
主治医にお願いし「食べる物がない」、と訴え
エンシュアを1月分処方されます。

透析治療を終えた後、ヘルパーが薬局までエンシュアを受け取りに行きます。
ダンボール箱に入ったもので重量はあり重い。

彼はそれを1日3回、毎食1缶を飲む。
エンシュアの副作用は「下痢」を伴いやすい。
彼は、片手にエンシュア、もう片方の手に下痢止めの薬
それを服用している。

老父は「疲れたときは、これを(エンシュア)を飲むといいよ」、と
息子に手渡す。
息子は、早速頂いた。
腹痛をもよおし下痢の症状があり大変だった、と
ヘルパーに車中のとき話されていた。

息子の1周忌を送り、逝ってしまった老父

2024-01-18 21:38:27 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2009 居なくなるほど寂しいものはない



2002 このまま死にたいで紹介した板橋さんは、入院して4日後に逝かれた(合掌)。
ご自宅で会った日が最後の別れとなってしまった。
彼は、人工透析の他に胃癌、肺癌を抱え、在宅酸素されていた。
息子の遺影がある下で死にたかった、その想いは痛いほど感じた。

1年前、突然の心筋梗塞で亡くなったご長男。
板橋さんは、「息子の生命(いのち)と自分が代わりになりたかった」、
辛い想いで1周忌を迎え、ホッとしたのも束の間。
きっと、息子さんがあの世から迎えにきたのかもしれない。
「親父、今日まで頑張ったな」、と声なき言葉で話してくれたのかもしれない。

今日まで居た人が
もう居ない。
「あなた」が居て「わたし」が居た。
そのあなたはもう「居なくなってしまった」。
居なくなるほど寂しいものはない。
心にぽっかりと穴が空き、風が通り抜けて行ってしまうような感じ。

老人介護は、「出会い」があり
必ず「死別(わかれ)」がある。
「死別」が訪れると頭のなかでわかりながらも、
いざ「居なくなる」と、寂しさと
自分の死も訪れるのだ、自覚させられてしまう。

あなたが生きていたこと
「病」と闘い「老い」を「生きた」”板橋吉市”さんの後姿は
いまも自分の気持ちのなかに「生きている」。

いま自分がかかわらせ頂いている20人の老人がいる。
板橋さんに対する想いを20人の老人に想いをかけていきたい。



寂しいと犬も話したがる

2024-01-17 22:14:49 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2008 話がしたい


       ときどき、beagle元気の頭を撫でながら「何を考えているんだ」、と尋ねる

83歳になるひとり暮らしの婆ちゃんがいる。
歯は数えるくらいしかない
髪は抜け落ち地肌が目立ってきた
(そういう自分も後ろから見ると毛は抜け落ちた)

糖尿病、心不全、脳出血があり
毎日インスリン注射をされているが
自己流で体調により単位数が変わってしまう。

いまは、貧血が進み、血糖値コントロールができていない。
そのため腎臓に負担がかかり、クレアチニンがかなり悪い。

主治医からは「2週間入院すれば、血糖値も安定するからどうかな」と
尋ねられるが、「入院できない」と断ってしまう。

自宅には14歳になる老柴犬と暮らしている。
「仲ちゃん(男の子)」と呼ぶと傍によってくる。
寂しいのか、寄り付き頭をすりすりし甘える。

犬は、人間(飼い主)の言葉はわからないけれど
表情を見て、犬も話しかけてくる。

ひとりでいる時間が長いため
彼女も誰かとお茶を飲みながら話がしたいのです。
訪問すると60~90分お邪魔虫をしてしまう。

貧血で動くの億劫で、おかずを作ることもできない。
食欲がないから、作る気もしない。

誰かのために作る、ということもない。

少しでも食べ病気に負けないようにしなくっちゃ、と思っている。
自分が入院したら「だれが仲ちゃんの散歩やご飯、水をあげてくれるのか」
仲ちゃんは彼女にとり、生きていく支えになっている。

躰が苦しくても辛くても怠くても、入院できない、と話す。

いまでも躰はぎりぎりのところにあるが
最後のぎりぎりの線を越える前に
仲ちゃんをどこかに預けることも必要になってくるかも

命ある仲ちゃんだから 自分が面倒を見るから入院してきなよ、と
安請け合いもできない。

仲ちゃんもお婆ちゃんのことを心配そうな仕草を見せる、
そう見えてしまう、思ってしまう。

いつも「また来るね」と席を立ち上がり
キャンバスのハンドルを握り出だすと
サイドミラーに仲ちゃんが映る。

見送りをしてくれる。
何故か寂しそうな感じに思ってしまう。

明日から、ランチ(弁当)が彼女のところに届く
週3回(月水金)は、市の事業で「あったかランチ(350円、糖尿病食、ご飯はつく)」が届き、
火木土は、468円(全額自己負担、おかず のみ)の糖尿病食が配食される。

「あったかランチ」は見守りも兼ね、本人の様子がおかしいときはケアマネに連絡が入る。

彼女は、「ケアマネの手を煩わせて、申し訳ない」、と詫びる。
「気にしなくていいよ。だれかが彼女のことを気にかけ見守ってくれる」

彼女はそう言いながら、躰がよほどしんどいから
他人の手を煩わせることを選んだ。

数ある弁当屋さんから
一番評判のいい弁当屋さんをお願いした。
(自分も食べてみて美味しいかった)。

弁当を希望する老人がいるときは、いつも美味しい弁当屋さんにしている。

鼠と棲む暮らし

2024-01-16 20:57:08 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2007 鼠と共生するひとり暮らし婆さん


                     夕焼けの阿武隈川

いま自分は、居宅介護支援事業所(介護相談、在宅ケアプラン作成、ケアマネ1名)と
訪問介護事業所(ヘルパー 常勤3名 パート2名)の2つの介護サービスを行っている。

70台半ばのお婆ちゃん(脳出血後遺症 左半身麻痺)の生活援助(掃除、調理、服薬確認)のサービスを週3回担当することになった。
それで、サービス担当者会議が行われ、訪問介護事業所のヘルパー(サービス提供責任者)と自分が参加した。
(自分は契約書、重要事項説明書の説明をするために同席)

そのケースのケアマネは事前に鼠屋敷であると聞かされていた。

昔作りの家でポットん便所だったのかな・・・・。
暖は、練炭が玄関に沢山置かれ、堀炬燵のなかに練炭がある。

炬燵テーブルや畳、台所のテーブルやフライパンなどに鼠の糞が無数に散らばっている。
糞を踏まないように歩くのは至難の業。

テーブルの上には食べ物や食材があり、鼠が齧っているのだろうな、と想像してしまう。
鼠の「毒」が混じらないのか心配になってしまう。

当のお婆ちゃんはまったく気にせず、「この間はフライパンのなかに鼠がいた」、と笑いながら話す。

ヘルパーに聞くと、あちこちに「鼠仕殺し」の仕掛けが置かれていても効果なし。
鼠はかしこいもので、鼠殺しを避けて徘徊されている。
鼠にとり安住の棲み家である。

猫一匹いないからまさに鼠の天下。
「鼠のお宿」かな、と担当者会議中、ひとり想像していた。

沢蟹の脱皮

2024-01-15 21:58:15 | 阿呆者
2006 脱皮


脱皮した沢蟹


抜け殻 腹部

抜け殻 背部

那須町のグッドニュースに行ったとき
道端で小さな沢蟹がジッとしていました。

死んでいるのかな、と思い
wifeが掌に乗せ様子を伺うと
僅か横歩きをした。

そのまま道端に置くの心配だった。
人混みで、踏み潰されてしまうのではないか、と危惧し
自宅に連れ帰った。

虫かご用のプラスチック容器を買い求め
食卓脇のカウンターに置いた。

グッドニュースで出会ったので
名前は「グッド」とつけた。

毎日wifeは水を取り替え
鰹節やご飯粒を与えてきました。

朝、沢蟹が死んだのかな? と不安顔
ネットで調べたら、脱皮の最中にあった。
なかには脱皮が上手くできず死ぬこともある。

それから1時間後、完全に脱皮した沢蟹
死なないで脱皮できた。

沢蟹は脱皮し、成長したのだ。

老いた自分はもう脱皮できそうにもない。
脱皮とは、次のステップへと「昇華」していく。

小さな生命の営みに 感動!
「グッド」君に出遭うことがなければ、今日のような感動場面に遭遇することはなかった。
感謝です。
小さな幸せをいただきました。

僕らはみんな生きている

2024-01-14 22:42:59 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2005 犬の十戒





日曜の朝 wifeから「犬の十戒」の話を聴いたのです。
「犬の十戒」は、犬だけでなく、人にもあてはまり生きていく上で
大切な戒めであることに胸に深く刻まれました。

何だか、惚け老人(いまは「認知症高齢者」と呼ぶ)に対するかかわり方にも共通する「犬の十戒」。
犬と惚け老人を一緒にするな、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。
でも、
犬も人も同じ生き物であり、同じ「生命(いのち)」です。

認知症老人とかかわっていく上で「犬の十戒」から教えられました。
・気長につきあう。焦らず「待つ」ことが大切です。
・「また同じ話を何度もするの」「さっきも聞いた」「だれも財布を盗ってはいない」等など、
 否定されるが、私の話を聴いてください。
・認知症になっても、感情は残っています。心があることを忘れないでください。
・あなたから見れば「意味居不明」の行動に映るかもしれないが、理由があります。

 例えば介護施設やデイサービスなどで、テーブル席に座っていて、
 私が立ち上がると「危ないから座ってなさい」「何処へ行くの」と私の行動制止します。
 私は「喉が渇いていたのです」「トイレに行きたかったのです」「窓越しに見えた花に会いに行きたかったのです」

・話(言葉)がわからないと決めつけずに、私にたくさん話しかけてください。
・惚けているから、わからないから、話ができないからと言って、私をたたかないでください。
・私が惚けても、あなたは友人です。
・何をしていいか、ここがどこなのか、私は誰なのか、私の気持ちは不安だらです。私にはあなたしかいません。
・老いの私は、あと何年生きられるかわかりません。私の人生はあと僅かです。
 最後まで、私の傍に一緒にいてください。
・私が死ぬときは、お願いです。傍(そば)に居てください。
 私はずっとあなたのことを想っていました(心配していました)。

人間は自分より抵抗できない「弱い人」や犬を、虐めたり棄てたりします。



棄てられた犬の気持ち、犬の叫びに耳を傾けてほしいです。

すべての生き物は、心があります。生きています。
花も草も木々も小さな生き物小さな石も生きています。






ある言葉

2024-01-13 22:59:46 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2004 ゴールのないマラソン


8年前のbeagle元気 羽鳥湖近くのドッグランで
力の限り走り抜ける(当時2歳)


土曜日の午前中はチョッと息抜き
韓国ドラマを観ていたとき、グッと胸にくる言葉に出会った。

病気の家族の世話(介護)は、ゴールのないマラソンです。
苦しくても誰も代わってはくれない。
でも、止まりもしない。
結局、戻りまた、走ります。
家族のために走れます。


日本も韓国も中国も家族を重んじ大切にします。
家族だけに病気、障害の家族を押しつけ、
本人にとり在宅で暮らすこと(家族と住むこと)が一番だ、と
決めつけてしまうと重荷になってしまいます。

その重荷をときには誰かが背負ってくれる社会の手が必要です。

22時前には蒲団に入ろうと思うも
今日は23時になってしまった。
明日は日曜日、「寝日曜日」とし
元気には悪いが7時過ぎに散歩に出かけようと思う。




73歳まで働いていた

2024-01-12 21:26:11 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
2003 (誕生日を迎えると)今年91歳になる。長生きしたな・・・・


                     冬の那須連山

今日は9時から11時過ぎまで介護タクシーの運転と付き添いをした(通院等乗降介助)。
90歳の婆ちゃんは、一度に内科医院と整形外科クリニック受診の日である。
嫁さんが朝早く順番取りに行かれる(内科は10番目、整形外科は21番目)。
いつも整形外科が先なのだが、今日は内科を先にした。

車を降りてからは手をつないで歩く。
ヘルパーの話だと、私と手をつないで歩くのが嬉しいみたいですよ、と冷やかす。
杖はつくもふらつきはある。左手に彼女のバッグを持ち、右手で手をつかむ。
院内は後ろから見守り。

診察室まで同席し、医師から話されたことは、家族に報告する(不在のときはライン)。
血圧は毎日欠かさず測定し、血圧手帳に記載されている(真面目な婆ちゃん)
両膝と腰の4ヵ所に痛み止めの注射をする。
看護師から「注射をして痛みはやわらぐのかな?」
「注射しても痛みは変わらない」
(看護師 苦笑)
「気休めなのかな」、と話す私。
「そうだね気休めだね」

待ち時間のときは、世間話などいろいろと話に花が咲く。
バッグに猿の飾り物を付けてあったので、「申年なの?」と尋ねると
「申年です。何でわかったの?」
「バッグに猿の飾り物が付いてあったから」
「今年で91歳になる。本当に長生きしたな、と思う」
「今年、私は年男、辰年です」
「あら、何回目の辰年なの」
「6回目です」
「72歳。私からみたらまだまだ若いね~」

「私は、73歳になるまで8年間弁当屋の仕事をしていたんだ。73歳で辞めないで、もう少し仕事をした方がよかったかな」
「まだ若いんだからもっと仕事をした方がいいよ」

「80歳まで仕事は続けたい、と思っている」
「自分が仕事(ケアマネ)を辞めるまで、長生きしてね」、と話すと
彼女は笑っていた。


躰がだるくて透析は休む

2024-01-11 22:21:13 | 老いの光影 最終章 蜉蝣
2002 このまま死にたい

7時30分過ぎにスマホが鳴り、📞のマークを横に滑らせた。
「本人が、朝来たらまだベッドのなかで寝ていて、今日は疲れて躰はだるく透析は休む」、と話しています。
「介護タクシーには間に合わないので、病院までは私(妹)が車に乗せていきます」。

「立つことも歩くことも覚束なく、車に乗せることが無理なときは救急車を呼び、
病院(透析センター)まで搬送した方がいいかもしれませんよ」

妹さんから電話頂いたあと、自分のスマホに「板橋」さんからの着信があり、電話にでた。
まだ眠剤の効き目が残っているせいか、呂律が回らず発音不明瞭なところがあったけれど、
「今日、透析に行かない」の言葉が聞き取れた。

「躰がしんどいですか。飯は食べたか」
「食べる気がしない」
「躰は怠いですか」
「布団(ベッド)から起きたくない、このまま眠りたい」
「心配だから、私が透析に連れていくから待っていてね」、と話かけ
wifeと一緒にキャンバスに乗り向かった(自宅から35分ほど要する)

wifeは介護タクシー(訪問介護:通院等乗降介助)の仕事をしていて、時々自宅と病院の往復を送迎している。
自分は担当ケアマネではないが、訪問介護事業所の代表もしていて、
板橋さんは、透析が終わると「車お願いします」、といつも自分に電話をかけてくれていた。
そんな関係で、自分も心配になりwifeと彼のお宅に訪問した。


自分が到着する5分前に妹さんの車が停まっていた。
暖房は点いておらず寝室はひんやりとして空気が冷たかった。
ベッドを少し起こした状態で彼は寝ていた。

「板橋さん、おはようございます。躰しんどうそうだね。」
「布団から出る気力もない。今日はこのまま透析を休み家で寝ていたい」
「透析に行かないと、躰が浮腫み、心臓に水が溜まり余計苦しくなるよ」
布団から右手が見えていて、右手を見ると「グローブのように腫れているね(浮腫)。
水が溜まっているし、医師に診てもらった方がいいかな」
「私が車に乗せて透析センターまで行きましょうか。なんでこんなに躰がだるいか検査もできるよ」
彼は、「もう長生きしたし、透析も8年経つ。病院にも行かず、このまま死にたい」
「検査しても点滴しても、意味がない。何もしなくていいから・・・・」

透析の時間に遅れてもいいから私(娘さん)の車に乗せて行きます」
「(透析後)帰りは電話頂ければ介護タクシーで迎えに行きますので、気軽にお電話下さい」
と、言って彼の家を出た。

担当ケアマネに電話をかけ、朝の様子を報告した。

2時間後、透析センターに電話をかけたら
「今日は透析を休み、土曜日透析に行くことになった」(主治医からも今日の透析休みの許可がでた)。

11時半過ぎ頃、自宅から28km先にある地域包括支援センターに行く用事があり、キャンバスでまた出かけた。
彼の家は通り道から右折し1km先にあったので、様子を見に行った。
妹さんの車があり、玄関が開き娘さんが出てきた。
「今日は透析を休むことになり、土曜日でもいいと主治医からも話がありました」
「寒いから躰に気をつけてください」、と言葉をかけ、元の本道路に戻り包括支援センターに向かう。