老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1103;二兎を追う者は一兎をも得ず

2019-05-12 07:56:07 | 33年間介護を続けてきた理由
二兎を追う者は一兎をも得ず

中途半端な自分が
二兎を追い求めようとしている。

脇で誰かが囁く
“二兎を追う者は一兎をも得ず”

それはどんなことか、と言うと
先日、自分は
障がい者相談支援従事者養成研修の受講申込をした。
(講義2日、演習3日 計5日間の研修)

令和2年4月から
要介護老人のケア相談と支援から枠を拡げ
障がい者も関わっていこうかな、と考えている。

要介護老人は介護保険法
障がい者は障害者総合支援法
それぞれ法体系は違うけど

にんげんとして地域のなかで生きていきたい、という願いは同じ

66才、ことしの夏で67才になる
できるのか、と
囁きも聞こえてくるけど
やれるところまでやってみる

いまは時間が欲しい
金よりも時間が欲しい
でも、事業を継続していくお金も欲しい

ないものだらけの自分


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1102;いつまで続けるの・・・・

2019-05-12 04:45:16 | 33年間介護を続けてきた理由
気が晴れない朝空の雲


いつまで続けるの・・・・

最近 60才の男性と63才の女性は
ケアマネジャー(介護支援専門員)の仕事を辞めると決め
担当していたケアプランを他のケアマネジャーに引き継いでいる。

自分はいま66才
介護保険第1号車被保険者の該当者でもある
居宅介護支援事業所(ケアマネジャーが活動している事業所)がある管轄の市では
ケアマネジャーとして実務をしている最高年齢者は、自分なのだ。

他のケアマネジャーやヘルパー、デイサービス等の事業所から
「実際の年齢よりも若く見えるよ」のお世辞に乗せられ
“まだ、自分は若いのか”と思い込み、
ケアマネジャーを辞めずに続けている。

周囲から“まだ、ケアマネジャーやっているの? いつまで続けるの・・・・?”、
という声が気になるも
未だ続けていこう、と思っている。

躰と頭が ケアマネジャーとして機能できるまで続ける
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531;「老人介護をしてみたい」

2017-11-11 15:35:31 | 33年間介護を続けてきた理由
雑然としているが、さくらさくらデイサービスの食堂兼機能訓練室

 「老人介護をしてみたい」

身体障害者療護施設の介護と入所者の相談は
4年目に入った。

利用者の死を見送るたびに
介護とは何か
生きるとは何か
そのテーマは大きくそして重かった。

身体障害者療護施設向日葵苑の母体は
隣接してある脳外科病院であった。
脳外科病院の病棟廊下を歩くたび
老いた脳卒中患者の姿を目にするようになった。
向日葵苑と同じよう状態の患者が多く
誰かの手を借りなければ生きていくことができない。

光代さんと同じく
脳外科病棟の患者も
寝たきりの人も少なくはなかった。
老人の患者も年々増えてきた。
病院は褥瘡(床ずれ)は「看護の恥」と言われていながらも
現実、褥瘡ができている患者は目につき、
目や口腔内、手も汚れていた。

骨が見えるほどの褥瘡やポケット型の褥瘡は
治るまでには手間(処置)や時間もかかってしまう。
身体障害者療護施設向日葵苑では、褥瘡を治してしまう。
病院は医師や看護師など専門職が集まった医療施設である。
病院では治せない褥瘡
素人集団のあつまりである向日葵苑で褥瘡を治す。

褥瘡予防は体位交換も勿論2時間毎に行うが
一番は車いすに移乗させ、坐る時間を増やしていくことが大切。

褥瘡の話で横道にソレテしまった

脳外科病棟の老いた患者の姿を見て感じたもの(当時35歳)、
昨日まで元気で、田圃や畑の仕事をしていた、
定年になり、これから老後を楽しもうという矢先に、
脳梗塞や脳出血、くも膜下出血に遭遇し、寝たきりや半身不随麻痺の状態になったとき
脳の病気に突然当たった(脳卒中の意味)自分の身の不運を嘆き、
なかには生きる意欲を失い、リハビリもすることもなくベッドに臥床している患者もいた。
脳外科病院でリハビリをしてつかまり歩行ができるようになっても、
退院し家に帰ると「寝たきり」に逆戻り。

デイサービスや訪問介護を使うのは貧乏人の家だけであり
在宅介護は長男嫁が見るのが当然という世間の眼は根強かった。
そのような状況のなかで、
脳卒中後遺症を抱えた老人たちは
病院や在宅で何を思い、何を悩みながら生きているのだろうか。
老いた自分が寝たきりになってしまい
日中は座敷にひとり寝ているだけ。
当然生きる意欲や希望も失せてしまう。

老人介護施設があれば、
要介護老人の居場所をつくり、
リハビリに励みながら生活できる施設
そして在宅介護者の介護負担を減らす
「身体障害者の介護から老人の介護をしてみたい」と
脳外科病院の理事長(向日葵苑の理事長でもある)に相談をした。
平成元年に県内第1号の老人保健施設紫陽花苑(定員80名)を開設となり
私は人事異動によりその老人保健施設の生活相談員となった。

平成元年から今日まで老人介護に関わらせて頂いている
青い鳥症候群も手伝い、さまざまな場所で老人介護を体験してきた

・老人保健施設 
・中古のライトバン1台と2人の介護の専門学校をでた介護員で、半年、
町の公民館を借りデイサービス
・バスを1台貸し切り、在宅老人と在宅介護者と一緒に1泊2日の旅行を企画実施
・2年間在宅老人(83歳、いまならば要介護4相当の老人)の介護ボランテイア(入浴介助、買い物を含んだ外出、調理など)
・機械入浴ゼロ、認知症のつなぎ(抑制着)ゼロ、おむつ外しー全員トイレで排せつ介助、
夜間入浴などを取り組んだ特別養護老人ホーム
・民家を活用したデイサービス
・民家を活用した認知症グループホーム
・新築のデイサービス、新築のグループホーム
・訪問介護
・老人病院
・認知症老人専門のデイサービス
・介護相談(居宅介護支援事業所 ケアマネジャー)
・介護の仕事をしながら福祉・介護の専門学校の非常勤講師

いまはケアマネジャー(受持ち37名)と定員10名の民家を活用したデイサービス運営
物忘れが出始めたら、ケアマネジャー業は引退したい、と思っている。年齢が嵩む毎に受持ちは減らしていきたい)

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527;33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔5〕 「介護の原点」 ③

2017-11-09 13:05:18 | 33年間介護を続けてきた理由
 33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔5〕 「介護の原点」

光代さんをリクライニング型車いすに乗せ、散歩に行ったときのことである。
私は車いすを押しながら「子どもの名前でも呼べればいいのになあ~」と話しかけた。
(子どもの名前は純君 2歳になる)
すると、ようやく聴きとれるくらいの声で
彼女は、「じゅん~、じゅん~」と話した。
私は、最初光代さんではなく
一緒に散歩に同行してくれた寮母に
「いま、じゅん~って聞こえた?」と尋ねたとき

もう一度「じゅん~」という言葉が聴こえ
思わずしゃがみ込み、彼女の目線になり
「いま純君って話したよね~」と彼女の肩に手をかけた。
光代さんは1年8か月ぶりに目を覚ました瞬間に遭遇。
急いで居室に戻り、寮母長(看護師)に報告。
その日勤務している寮母が集まり、彼女の手を握っていた。
誰もが予想していなかった出来事だけに
また初めての介護、慣れない介護、苦労続きの介護だっただけに
彼女が意識を回復したことに興奮とともに
私だけでなく他のスタッフも泪を流してした。

このときほど介護のすばらしさを感じたこと
いまでも忘れずに心の奥底に失わずにある。

目が覚めたことを早速母親に知らせようと、電話をかけた。
母親は用事で大阪にいた。
光代さんのお兄さんは、電話で母親に「意識が戻ったこと」を話されても
母親は、「親をかつぐにもほどがある。いい加減にしなさい」と息子を叱った。
「違うよ」と再度真剣な声で、母親も吃驚。

彼女に「何が食べたい」と聞いたら
「西瓜が食べたい」と答えた
(施設の所在地は小玉西瓜の産地であった)

夫にも即電話をかけ、
「意識が回復されたことを話し、彼女は西瓜を食べたいと話されているので、西瓜を用意していただきたい」
とお願いした
光代さんの夫は整備工場の仕事を終え、急いで駆けつけてくれた。
光代さんは、夫であることがわかり、目には涙が溢れ、
夫はベッドの端に坐り、膝枕をし彼女の頭をなで、涙を浮かべていた。

翌日実母は2歳の純君を伴い、面会に訪れた。
光代さんは、子どもの顔を見て「純~」と呼びかける。
純君は最初戸惑いをみせたものの、おばあちゃんから「おかさんだよ」と言われ
お母さんの枕元に寄り、頭を撫でてもらったときの嬉しい表情は今でも思い出す。
意識を回復し最初に話した言葉は、我が子の名前であったこと、
それは、母親の深い愛情を感じさせられた言葉でもあり、感動した。

彼女は意識回復し、理解力は幼児年長から小学生低学年のレベルにあった。
話ができるまでに回復されたことの意義や評価が低くなることとは違う。
光代さんの母親(当時60歳半ば)は、20か月の間 晴れの日も 雨の日も 雪の日も 病院そして介護施設に面会に訪れていた。
面会のとき、いつも「眠りから目が覚め、話だけでもできれば・・・・」と話していた。
子を想う母の深い愛情をもう一つ感じさせられた母親の存在。
こんなにも早く彼女が意識を回復するとは夢にも思わなかっただけに、介護のすばらしさを感じた大きな出来事でもあった。
素人の集まりであった介護スタッフの頑張り。
私自身、デスクワークだけの生活指導員(現在は生活相談員)の仕事をしているだけで
寮母と一緒になって介護をしていなければ、
光代さんの意識回復の場面や
看護職員(2名)や寮母と一緒になって、そのときの感動の場面を体験することはできなかった。
その経験があったことで、今後の生活相談員や介護支援専門員(ケアマネジャー)の原動力となった。



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523;33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔4〕 「介護の原点」 ②

2017-11-08 17:59:32 | 33年間介護を続けてきた理由
 ”33年間、介護を続けてきた理由(わけ)”〔4〕 「介護の原点」 ② 

どの寮母・寮夫(介護員)は、
介護に関する基礎知識や技術を学んだものは誰ひとりいなかった。
現在ならば介護福祉士や介護職員実務者研修などがあり、
介護の基礎知識や介護技術を体系的に学べる制度(研修)がある。

意識がなく寝たきり状態にある荻原光代さんのかかわりについて
寮母・寮夫と話し合いを持った。
意識がなく反応がなくても
食事は胃ろうであっても濃厚流動食を開始するときには
「荻原さん、ご飯ですよ」
機械浴のときも
「お風呂ですよ、気持ちいいですか」
おむつ交換のときは
「さっぱりしましたね」
介護のたびに言葉かけを行うよう取り決めをし、実行してきた。。

心のなかでは「本当に意識が回復するのかな」と、
濃厚流動食で栄養はとれ、摘便も行っている。
健康管理はできてきており、32歳と若く体力もある
「このまま意識回復しないまま、何年長生きしていくのだろうか」、と
気持ちの中で正直思っていた。


彼女に関わり3ヶ月過ぎたころ、顔の表情に変化が表れててきた。
まだそのことがどういう意味を持つか、誰も気がつかずにいた。
硬かった顔の表情が、全体的に和らいできたよう印象を受け、
寮母の会話のなかでも、そのことが話されていたな。
50歳半ば過ぎで男勝りで、ガラガラ声、恥らいも失せてしまった寮母がいた。
その寮母が、彼女の顔をみながら
「だんなさんとキスしたことがある」と
単刀直入に繰り返し聞くのである。それも大きな声で・・・・。
そのとき光代さんは、はにかみの表情を見せた。

言葉が耳に届き、頭が反応し、はにかみの表情をしたのかどうかは、
そこまでは意識して捉えてはいなかった。

向日葵の咲く季節
8月に入り、8日のことである。
光代さんをリクライニング型車いすに乗せ、散歩に行ったときのことである。
私は車いすを押しながら「子どもの名前でも呼べればいいのになあ~」と話しかけた。
(子どもの名前は純君 2歳になる)
すると・・・・
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519;33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔3〕 「介護の原点」 ①

2017-11-07 12:39:49 | 33年間介護を続けてきた理由
33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔3〕 「介護の原点」① 

新規開設の身体障害者療護施設向日葵苑に勤め始めた7日後に
32歳の荻原光代さんが入所された。

(当時私も32歳だった)
光代さんは、向日葵苑の隣にある協和脳外科病院を退院し、入所
協和脳外科病院の理事長は、脳卒中後遺症患者のために向日葵苑を開設した。


光代さんは、16か月前
自宅でお茶を飲んでいたとき
「頭が痛い~」と訴え倒れ
救急車で県西病院に搬送された。
脳内出血の診断が下され
急遽手術となった。
手術は成功したが、
意識はなく寝たきり状態となった。

食事は胃ろう
排せつは、おむつ交換、排便は常に摘便
入浴は、機械浴(寝たままの状態で入浴)
着脱 全介助
ベッド、車いすの乗り降りは2人による移乗介助
視力は見えているかどうか、わからない
聴力 聞こえているかどうかわからない
話しかけても反応なし
狼のような大きな声を出し、施設中に響き渡っていた。
2時間毎の体位交換で褥瘡(床ずれ)はなかった。


昭和59年4月7日から、光代さんの介護は始まった。
当時、今日ほど介護は注目されていなかった。
私は生活指導員の職務であったが、利用者を理解するには
寮母(10人)・寮夫(2人)と一緒になって、介護に関わり、
また、夜の介護を知るためにも、夜勤(16時から翌朝9時まで)もした。

まだ介護のマニュアルなどはなく
どの寮母も昨日までは、専業主婦、農業手伝い、店員など
介護とは無縁の世界で暮らしていた。
介護方法の指導は私より12歳年上の看護師が指導。

当時、他者からどこに勤めているの聞かれ
「身体障害者の福祉施設で介護をしている」と答える。
「男なのに偉いわね~。私にはできない仕事だわ~。」と言い返され、
その言葉には、
歯が浮いたような気持にさせられ、しっくり来ない。

まだ世間から注目されていない介護は、日蔭の職業であった

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511;33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔2〕 「吐き戻す」

2017-11-04 08:21:59 | 33年間介護を続けてきた理由
33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔2〕 「吐き戻す」 

同じ福祉業界とはいえ転職を繰り返した
私の青い鳥症候群はこれ以降も落ち着かず
石の上にも3年よりは続いたが、定着までには至らなかった。

面接の通知が来た。
32歳になり、「介護したい」ために応募したわけではなかった。
前の福祉施設が嫌で逃げてきた人間であり、問題意識も皆無であった。
面接時に「男性だけれどおむつ交換はできるか」
「生活指導員は、あなたより年下の男性になるが、
その下で寮夫として働けるか」と質問された。
2つの質問に対し、躊躇うこともなく二つ返事で「はい」と答えた。

7日後に採用決定の通知が届き
昭和59年4月1日から「身体障害者療護施設 生活指導員」として採用された。

生活指導員の仕事は、福祉事務所からの利用者受入れ相談、
入所にあたり利用者、家族との調整、行事計画、利用者処遇計画作成、
各職種間(事務員、看護職員、寮母・寮夫、栄養士、調理員)の連絡調整役であった。
8時間デスクに向かい、事務だけの仕事では
利用者の状態は把握できない。
寮母・寮夫と一緒になっておむつ交換、入浴介助など利用者の介護にも関わった。

定員50名の介護施設で
利用者の年齢は18歳から63歳までと幅があった。
養護学校高等部(いまは支援学校)を卒業した脳性マヒの利用者の他
脳卒中後遺症、糖尿病、交通事故、労災による事故で障害者になった利用者たちが
入所となった。
高等部卒業の利用者を除き、他の利用者は年上であった。</fon

いまでも印象に残っている結城明子さん(当時42歳)のことが頭に浮かんでくる。
彼女は、重度の知的障害の他に聴覚障害も持っていた。
言葉は喃語であり意味不明であった。
農家の家に生れ、いつも陽の当たらない座敷に閉じ込められていた。
そのため外へ出ることもなく、歩くことはできず
足は幾分「く」の字に曲がり、
両手は常に頭を抱えるような感じで万歳をしていた。
十分な食事は摂れてはいなく痩身であり、顔は白かったのを覚えている。
食事、排せつ、着脱、入浴などの日常生活行為はすべて全介助であった。
彼女が入所し、居室(4人部屋でベッド生活)、2時間後に便失禁したので、
寮母と一緒におむつ交換を行うことになった。
便は緑色がかった軟便であり多量であった。
他人の便の臭いにはまだ慣れておらず
特に彼女の便臭は、他の利用者とは違い強烈であり目にも染みるほどであった。
何を食べたら、これほどまでに生臭い便になるのか。
昼に食べた物がむかむかし、こみあげ嘔吐寸前になり
慌てて居室のはきだし口に走り、窓を開け「ゲエ~ゲエ~」してしまった。
いま思えば、利用者に対し随分失礼な行動をしたものだ、と反省している。

慣れとは恐ろしいもので
便失禁したおむつ交換のとき
便臭にも慣れてきた。
明子さんのおむつ交換時、嘔吐することもなくなった。

いまでは利用者の排便状態を話しながら、カレーライスを食べれる。
対して自慢できることでもないが・・・・</font>



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510;33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔1〕 「利用者を喰いものしてしていた福祉施設を飛び出す」

2017-11-04 00:00:08 | 33年間介護を続けてきた理由
33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔1 
”利用者を喰いものしてしていた福祉施設を飛び出す”


35年も前の話になる。
私は花の東京で
俗に言う”家庭崩壊した子どもの面倒をみる”児童養護施設で働いていたが
都会の色に染まらないうちにと思い
鞄と段ボール箱一つで、筑波山が見える常陸国に移り棲んだ。


戦前 南朝鮮から強制的に連れて来られ酷使そして搾取された朝鮮人が経営する社会福祉法人、
福祉施設に就職した。
そこは児童養護施設、知的障害児施設、知的障害者厚生施設、保育園を経営していた。
最初は児童養護施設の児童指導員として辞令を受けたが、
2歳から18歳までの子どもが80人 生活されていた。

子どもたちの学力は低く、万引きや下級生虐めも多かった。
私よりも年齢は2つほど上の理事長の息子と意見で対立していた(理事長の息子は知的障害者厚生施設の事務長だった)。
施設の子どもが「問題行動」を起こすと、
児童養護施設に来て、その子どもたちに対し「反省させる」という大義名分で
日常的に体罰、食事抜きなどの虐待が横行していた。
児童養護施設の職員は、事務長の横暴に意見をする者はいなかった。
(意見しようものなら退職せねばならない)
措置費(国等から支給される施設事務費や子どもの養育費)は何に使われているのか使途不明金も多かった。
虐待や施設の金の使い方など他の職員に話していき、理解者を1人、2人、3人と増やしていったら
理事長、事務長はこれではまずいということで、
翌年は、事務長のお膝下で私を監視する目的で、知的障害厚生施設に移動された。

私より年上の男性知的障害者と毎日、炎天下草むしりを行った。
児童養護施設はブロック造りで下水道の配管は細く、よく詰まり
男性職員がかりだされていた。
糞尿車(バキュームカー)の吸引と排出の力を利用し、下水管の詰まりを修復していた。

忘れもしない34年前の大晦日。糞尿車のホースを持っていた私は、
事務長の(悪意のある)悪戯で、予告もなく排出のレーバーを「開」に回転させたため
私が手にしていたホースは滑り逃げ、私の頭上から糞尿がドバッ~と降りかかってきた。
糞尿で頭髪はベタベタ、目や鼻、口にも糞尿が入り、未知の味を体験、
風呂に入り、体を何度洗っても糞尿の臭いはしばらく消えなかった。

草むしりの合間にブロック造り、作業場の床はコンクリートであり冬場は暖房もなく、冷え寒かった。
そのため痔になり、30歳のとき痔の手術を行った。
出産するときのような姿勢で手術を受け、二度とあのような姿勢はしたくない。
知的障害者施設でも知的障害者の障害年金が振り込まれる通帳を経営者が管理し
担当職員はどのくらい残高があるのか知らされることもなかった。
親は、誰も面倒を見てくれない知的障害の子どもの世話をしてくれる施設に感謝し、預金は経営者に一任という形をとらされていた。

女性の軽度知的障害者は、理事長宅に行き、毎日家政婦代わりに使われていた。
男性の利用者は、身内が経営する衛生社に派遣され、障害者雇用という形で
糞尿車(バキュームカー)の助手として、ただ働きのような超低賃金で各家庭の糞尿を汲み取りの作業をさせられていた。
糞尿車の運転者は運転席にいるだけで、軽度の知的障害者だけが汗水を流し動き回っていた。

児童養護施設で話ができるようになった同僚から、こんな話をされた。
「理事長や事務長など経営者一族は、いま日本国籍になっているけれど
戦前は日本人に苛め抜かれた。今度は自分たちは日本人に仕返しをするのだ。
施設の利用者から儲けることであり、日本人の施設職員は経営者に従って働いておればいい」。
ここの施設に長くいても未来はない、と思い、退職届を出し2年間で辞めてしまった。
いま振り返ると、若気のいたりしかなく、逃げてきただけであり、そこで踏ん張るべきであった、と反省、後悔をしている。

たまたま隣町で身体障害者療護施設の寮母・寮夫(介護職員)を募集していることを知り、履歴書を郵送した。


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