老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1381;生きたように「老い」、老いたように「死ぬ」

2020-01-31 07:50:24 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
生きたように「老い」、老いたように「死ぬ」

人間、生きたように「老い」
老いたように「死ぬ」
人間、生きたように「死ぬ」

その人の死に様(「死に様」という表現は”きつく”感じますね)は、
どんな生き様をしてきたのか、によって決まるのかもしれない。
死ぬとき、どんなことを想うのか
「後悔」なのか、「感謝」なのか
という言葉は過去のブログでも書いたけれど

自分がいま、死を迎えたとしたら「後悔」の言葉が浮かぶ
「後悔」から「感謝」の言葉に変えていくには
残された「老い」の時間のなかで
自分はどう老いを生きて往くのか

そう思いながらも
惰性に流されてしまいがちな脆弱な我が身

そう思いながらも
路傍に咲く野草や小さな生き物(昆虫)たちから
「生きる」ことの意味を教えられ
小さな幸せを感じれることの大切さ

今年にはいり
自宅でひとりの老女が亡くなり
今日の朝 末期癌と闘っていた同僚の母親が亡くなった
そしていま生死の間を揺れながら生きているひとりの老女

人にはそれぞれの人生があり、人生があった。

人間、生きたように「死ぬ」
今後も、考えていきたい言葉である




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1380;「死にたい」と言葉にしてはいないのだが・・・・

2020-01-30 07:06:56 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
「死にたい」と言葉にしてはいないのだが・・・・

ブログ1367で、「食べれる」のに「食べなくなった」老人のことを書いた

心臓や肺に水が溜まった92歳の老女は
3週間の入院治療で快復し退院となり家に帰った。

もう自分は「食べれない」と思い込み、
口から食べることを忘れてしまかったのように
食べなくなった。


93歳の誕生日を迎えた。
躰を起こし、躰や腕を支えていけばトイレまで歩いていける力はあるのに
ベッド上で、老女はなすがままにオムツ交換をしてもらっている。

「ベッドサイドテーブルは使わないから」、と息子から話され、テーブルは引き上げた。
座って食べれるのに、寝たままで口から食べるのは、余計飲み込みずらい。

老母が「食べれない」「食べたくない」、と話されたら
その言葉を額面通りに受け取る息子は、
エンシュア・リキッドとOs-1を与えれば
それで栄養は摂れる、勘違いのまま・・・・

喉が通りやすいもの 飲み込みやすいものを紹介するも
本人は依然「食べたい」と気持ちにならず
躰に食べ物が入らないと、力がでないし、生きる意欲も出てこない

1月8日に退院し、まもなく2月の暦になる
口から食べないと、本当に飲み込みができなくなるし
胃も小さくなり、食べ物が入っても胃の働きが機能しなくなってしまう

息子は「胃ろうは造らない」、と話され、自宅で看取りをする、と・・・・。

彼女に「食べたいもの、好きなものを食べたら」と話すも、答えは返って来ない。
眼は窪み、躰や手足の筋力は萎え始め、仰向けのまま寝たきりにある。

どうしたらいいのか
訪問するも無力感に陥り、糸口が見えないまま
生きる主体は老女にあるのだが・・・・
「死にたい」とは発してはいない彼女
生きたいのか、死にたいのか、わからない
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1379;愛されることはできても、愛することはできなくなっていく(再掲)

2020-01-29 05:30:57 | 文学からみた介護
愛されることはできても、愛することはできなくなっていく
木村元子 『私の頭の中の消しゴム』 小学館文庫


私の頭の中には、消しゴムがある。(84頁)

あの夜、光の洪水みたいに空高くから降り注いでいたオレンジ色の光が、なんだか少し頼りなくて寂しそうだった。
身体がどんどん冷えてきて。
でも、もう動きたくなくて。
このまま時間が止まってしまえばいい、それだけ願っていた。(86頁)

どんどん、記憶がなくなっていくんだよ。
自分のことも分かんなくなるんだよ。
浩介のことも忘れちゃうんだよ。
私、嫌だよ。(88頁)

俺がお前の記憶になる。
薫が忘れたら、これまでのことを何度でも話すよ。
2人がどうやって出会ったか。
どんなことで笑ったか。
どんなことで喧嘩をしたか。
何度でも繰り返すよ。

その度に薫は俺に新しく恋をするんだ。
別れるなんて絶対に言うな。
薫は俺を信じさせてくれたんじゃないか。
何も信じられなかった俺に。
変わらないものがあるって。
信じられるモンがこの世にはあるって。
いまさら、逃げんなよ。(89~90頁)

でも、会社を辞めると、病気で失うものが現実に見えるようで怖い。(134頁)

僕の目の前に君はいる。
僕のことを知らない君が。
こんなに近くにいるのに。
手を伸ばせばこうやって触れられる、すぐそこに君はいるのに。
僕には、君をこの世に呼び戻すことができない。(164頁)

愛されることはできても、愛することはできなくなっていくのです。

心がすべて失っても、私の体は生き続けます。(168頁)
この手紙を書いている今も、次の瞬間には、自分が自分でなくなってしまうかもしれない。そう思うと怖い。(169頁)


28歳という若さでアルツハイマーの告知を受け、
私の頭の中は消しゴムになり、
記憶を失っていく主人公の切なさ、
愛おしさが伝わってくる。

「自分が自分でなくなってしまう」怖さに対峙しながらも、
記憶が残されたわずかな時間に、
自分の思いを彼に綴った最後の手紙に託す彼女。


「心がすべてを失っても、私の体は生き続けます」
「愛されることはできても、愛することはできなくなっていくのです」(168頁)。
「でも、会社を辞めると、病気で失うものが現実に見えるようで怖い」(134頁)。

「この病気が残酷なのは、肉体的な死よりも精神的な死が先にくることだ。
私の身体は残っても、私の精神はなくなってしまうのだ」(123頁)。


介護の世界に身をおいている自分、
アルツハイマーになった薫の気持ち、
頭の中が消しゴム状態となり、
精神(心)を失っていく怖さ、不安、苦悩、葛藤など、
あらためて認知症者が抱えている想いや不安をどれだけ理解していたのか、
自問自答していかねばならない。

愛した人、思い出が一杯つまった時空間さえも喪失していく。
記憶があるうちに彼にさよならを無言で去り、館山の介護施設に入居した彼女。

特別養護老人ホームやグループホームに入居してきた高齢者も同じ想いで家族に「さ・よ・な・ら」し、
人生の最後をそこで過ごす。

介護者は、特別養護老人ホームやグループホームはどんな場所として位置づけ、
日々認知症者にかかわっていくのか。

私が私でなくなっていくとしても、私で私であることに変わりはない。
ひとり一人違う私に対し、
介護者は“にんげん”のもつ優しさや想いを
どう特別養護老人ホームやグループホームのなかで実現していくのか。

介護者は、浩介と同じ気持ちになり入居者に話しかけることだ。
「俺がお前の記憶になる。薫が忘れたら、これまでのことを何度でも話すよ」

入居者が生きてきた人生(記憶)を呼び揺り動かしながら、
「お前の記憶」になり寄り添っていく介護。
そのためには、どれだけひとり一人が生きてきた人生や大切な人(家族)のことを知っていくことが求められる。



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1378;降り積もる雪と冬の雨だれを観ながら思う

2020-01-27 19:14:53 | 阿呆者
桜が咲いてから雪が降った年もあった

降り積もる雪と冬の雨だれを観ながら

雨は、過ちの過去を流し
雪は、汚れた過去を覆い隠す。

欲求は、自己実現まで高めていく。
しかし、欲をかきすぎると破滅する。
多くのものを欲したりはせず
いま有るものに満足し感謝すること。

人間、最後、棺に入ったとき
持参できるものはたかが知れている
人間、産まれてきたときは裸であった。
死ぬときは、火葬場で焼かれ灰となり、手にするものは何も無い。

欲に囚われず
大切なことは「足るを知る」こと
他者を羨むのではなく
自分がどういう状態にあっても
自分がいまこうして生きている(生命がある)ことに感謝
いまあるもので足りていることに感謝

降り積もる雪と冬の雨だれを観ながら
煩悩を捨てきれずにいる自分に呆れかえっている


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1377;「不自由」を抱えながら「自由」をめざす

2020-01-27 19:14:53 | 阿呆者
wifeもbeagle元気も自分も大好物の苺 / みぶハイウェイパークでとちおとめをゲット

「不自由」を抱えながら「自由」をめざす

今月4度目の自治医大付属病院外来受診
今日は循環器内科と感染症科と腎臓外科
結果は、👇 クレアチニンの数値は1.7と悪く
抗酸菌の治療目的の服薬と腎臓との調整がうまくいっていないのか
気になるところ

次回は2月6日受診予定となった
体重が1㎏増になったときは、即腎臓外科外来受診するよう主治医より話される。

多疾患で「不自由」さを感じる我が躰

いま躰のことで「不自由」さを感じているのは”両眼”と”心臓”である

両眼は、眼の真ん中が汚れているため(白内障)、
文庫本1ページを読むのに3分位かかってしまうため、
イライラ感と溜息をついてしまいたくなる。
陽が射すと活字が消えてしまい読めなくなってしまうことも。
PCの画面が白いとき、カーソルを見失ってしまう。

大動脈弁閉鎖不全症を患ってから、「走る」ことができなくなった。
坂道を歩くとき心臓に負担がかかり、歩く速度がガクンと落ちてしまう。
散歩のときwifeと元気において行かれてしまい、途中で待ってくれるのだが、
両下肢の筋力が落ちたことも手伝っている。

走れない理由は他にもあり、それは骨粗鬆症である。
走って転ぶと、骨折につながり、大変なことになる。
「転ばぬ先の杖」ということで、いまは「3本足歩行」にある。

両眼は蝉の鳴き声がする頃には白内障の手術ができるのかな、と
心疾患があり無理はできないけれど、それに囚われず、躰を動かし
元気な気持ちになる。

躰よりも心
大相撲初場所で幕尻優勝を果たした徳勝龍は、
「まだ33歳」、これからが勝負と話されていた。
「まだ67歳」、青春はまだ終わってはいない
自分も頑張らねば、と思った千秋楽。

上の苺は、3粒に見えますが、2粒です。4粒にも見えますが、
甘い苺です。
北関東道を走った際には、是非「壬生(みぶ)ハイウェイパーク」にお寄りくださいませ



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1376;「不自由」からの解放

2020-01-26 05:42:44 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
眼下に水戸市 / 茨城空港まもなく着陸

「不自由」からの解放

自由はかけがえのないもの

封建社会から近代社会へと発展させたものは
「不自由」からの解放
つまり、人間は自由を求め闘ってきた。
しかし、人間は身分差別、職業、住む処などの自由を得た一方、
他方では失業、貧困などを得ることにもなった。


それは現代においても変わりなく
人は仕事を終え、家に帰れば「自由」な時空間が待っている。
自分の家は、何しようと自由である。
他人に気兼ねする必要もなく、自由に手足を伸ばせる。
肘をつき煎餅を齧りながらテレビを見たり
昼近くまで蒲団のなかで寝ていたり
ゆっくりお風呂に浸かったりなど自由である。

人間にとり自由はかけがえのないもの
それは、不自由になってはじめて「自由」のありがたさや尊さがわかる。

自由を奪う「介護」

日々、ベッドで臥床されている寝たきり老人や
認知症老人の介護をなされているご家族にとり
いま欲しておられるのは、
「蒲団に入りぐっすりと眠りたい、ただそれだけ」、という声をよく聞かれる。

気が付けば、小学1年の孫がもう6年になり、6年の介護が経つ。
この先いつまで続くかわからない介護、老いてゆく我が身。
認知症老人を抱える家族もまた深刻である。
時間も家も人の名前・顔も忘れ、忘れたことも忘れ、できないことが増え
手をかけることも増えてくる老人の世話に疲れ果て(疲労困憊)、
ストレスも溜まり、介護者の心は悲鳴寸前に置かれている。

実の親或いは義父母の介護であるだけに
やはり介護は家族が行うべきものだと、
偉い人たちは話される。

介護者にとり介護疲れやストレスが溜まり大変と思うのは、
自分の時間が無くなり、親の介護に時間を奪われている。
介護により「不自由」な状況にある自分。

いつまで続くかわからない介護(=不自由)
自分も齢を重ね老いてゆくのでは、という不安や葛藤。
疲れてくると怒らなくてもいいところで叱ったり怒ったりする自分に
嫌悪し反省したりしてしまう。

介護の「不自由」さから解放されたい

介護が「嫌だ」とか、「したくない」とか、というのではない。
ただ、介護の「不自由」さから解放され、
「ぐっすり眠りたい」「介護を忘れ、ぼんやりとしたい」
「どこかへ行きたい」「お風呂(温泉)に浸かりたい」
そう思いながらも、
終わりのない介護がある、と脳裏をよぎると
それらの望みは無理なことか、とあきらめてしまう。

















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1375;犬には「曜日」は関係ない

2020-01-25 15:17:18 | 犬と人間
毎朝5時頃になると「ワン」と吠え 「散歩の時間だよ」と知らせる

犬には「曜日」は関係ない


我が家の長男 beagle元気は、
よく食べ よく眠る
寝ながら留守番の役割を果たしている。

毎朝の散歩を待ち焦がれ
5時頃になると「ワン」と吠える。

散歩では匂活が大好き
犬は、風の匂いも嗅ぐ

今日は日曜日なので、ゆっくり寝たい
元気には曜日は関係なく
もう散歩に行く時間だよ、と吠える

まだ外は暗いから 待ってね、と
蒲団から声かけるも
元気は「ワン、ワン」と起きろの催促

wifeは一人蒲団のなか
自分が起きだすと 元気満足し散歩を待つ

今日のブログは、詩的ではなく「私的」な内容でした


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1374;ひこうき雲

2020-01-25 14:43:58 | 歌は世につれ・・・・


死を悼む詩・曲なのに
死を感じさせない明るいメロディーに聴こえてくる
早すぎた(若すぎた)死だったけれど 幸せだった
あの子の命は 空をかけてゆく ひこうき雲

空を見上げ あの子を偲ぶ
青い空に ひこうき雲 
夜空に 名もない小さな星の輝き

ひこうき雲

作詞:荒井由実
作曲:荒井由実

白い坂道が 空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰も気づかず ただひとり
あの子は 昇っていく
何もおそれない そして舞い上がる

空に 憧れて 空を かけてゆく
あの子の命は ひこうき雲

高いあの窓で あの子は死ぬ前も
空を見ていたの 今はわからない
ほかの人には わからない
あまりにも 若すぎたと
ただ思うだけ けれどしあわせ

空に 憧れて 空を かけてゆく
あの子の命は ひこうき雲

空に 憧れて 空を かけてゆく
あの子の命は ひこうき雲


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1373;「土」に帰る {3}

2020-01-25 06:12:43 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
「土」に帰る {3}

死期が近づいたとき(死ぬとき)
人間は、何を思うのであろうか

「後悔か」それとも「感謝か」
それはその人の心の内でしかわからない

89歳で幕を閉じた老女にも
ひとつの人生史があった。
生命の重さに変わりはない(何人も生命の重さは平等である)、と同じように
何人の死もまた悲しみに差や違いはない。

大切な人やかけがえのない人の死は
悲嘆にくれ
喪失を乗り越えるにも時間がかかる。

人間は感情の動物であり
「傷み」「痛み」「悼み」を感じる

どれも「いたみ」と読む
自分の「いたみ」はわかるが
他人の「いたみ」には気づきにくい

リンゴ(林檎)は「傷む」と腐りはじめる
屋根が古くない「傷み」だし雨漏りがしてきた
物であっても手や想いをかけ修復しないと〔重症〕に陥り、
物にも心はある

しかし、「心の傷(こころのきず)」はそう簡単に修復はできない
何気なく発した言葉が、相手の「心を傷」つけてしまい
取り返しのつかないことになる。
「心の傷」が深いほど癒されないこともある。

「痛み」は
老いてくると、腰の痛み、膝の痛み、胸の痛みなど
「体の痛み」があちこちに出現する。
「体の痛み」は死ねば痛みは消失する。

「体の痛み」は〔体痛〕とは表現しないが
「心の痛み」は「心痛な思い」になり
相手の「心の痛み」を思い遣り、無言のまま手を握ったりすることもある。
「心の痛み」は、
自分の場合もあるだろうし、他者の場合もある。

「心の痛み」は「心の叫び(心の悲鳴)」のときすらある。
体の痛みとは違い
「心の痛み」は無形であるだけにわかりにくく
治癒するのは薬ではなく時間なのかもしれない。

「悼む」という言葉
よく「哀悼の意を表する」と使われ、それは「哀しみ悼む」という言葉になる。
愛する人、大切な人の「死」を「悼む」という言葉であり
白い煙となって青い空に消えっていったときの悲しさ、辛さ。
その人の名前を呼んでも、もうこの世に存在していない。
そう想うと寂しくせつない、喪失感をいつまでもひきずる。

老い逝き、老人が最期の呼吸(いき)をされるとき
言葉に遺したいことは何だろうか・・・・。
言葉は生命そのものであり
それは人間だけでなく
犬や猫、そして花にも生命の言葉をもっている。

「傷み」「痛み」「悼み」は、2017年11月のブログから再掲載(一部書き直し)








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1372; 「土」に帰る {2}

2020-01-24 10:50:10 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
棲家の窓から見える枯木

「土」に帰る {2}

孤独死

誰もが、最期は穏やかに、安らかに、眠るように逝きたい、と思う
予期せぬ不慮の死は、家族に言葉を遺すことも出来ない。

一人暮らし老人の「孤独死」が、よく問題視される。
子ども夫婦と同じ屋根の下に暮らしていても、「孤独死」する老親もある。

遠くに住む子どもの世話にならず
伴侶と築きあげてきた棲家は、
老親にとり自分の躰の一部でもある。
住み慣れた家の壁や襖、柱には家族の思い出が刻まれている。

陽に焼けた畳の上で死にたい、と思う一人暮らし老人は
自分の亡き骸など諸々の処分について
仏壇に書き遺し「死の準備」を行う老親。

一人暮らし老人は、自宅で「死ぬ覚悟」(死ぬ準備)を決め
“ひとり死ぬ”ことを「孤独死」とは思ってもいない。
自分の身の始末は、自分でつける、という
一人暮らし老人の思いがある。
「孤独死」は、寂しく、可哀想であると、同情や憐れみの言葉はいらない。

*******

二階に長男夫婦が暮らす階下で
89歳の老母は深夜息を引き取った。
彼女が最後に交わした言葉は何であろうか

駆けつけたとき
彼女は電気敷き毛布も無い煎餅蒲団の上で
右側臥いの状態で冷たくなっていた。
窓のカテーンは閉められておらず枯れた庭木が見え隠れしていた。

人間、死ぬ瞬間(とき)、何も感じないのであろうか
痛みはないのか、暗闇に入っていくのか
生きている者の想像でしかない

死ぬ間際に見る「最後の風景」は何であったのか。
凍える深夜の寒さに震え
意識朦朧としながらも掠れた聲で
息子の名を呼んだのであろうか。

自分は死期が近づいたとき
どんな風景を見るのか、ふと思ってしまう。







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1371;「土」に帰る {1}

2020-01-23 10:32:38 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
「土」に帰る {1}

我が家の畳の上で死にたい

人間産まれて来るとき
母は生まれ来る子のために
産着などの準備をする。

「おぎゃあ」と鳴き声をあげ
医師や助産師、そして母親に見守られながら
この世に生まれて来る。

「ヒト」から「人」へと成長し「人間」になる。

そして、人間は生まれた瞬間から「死」への旅路が始まる。
我が子が生まれたときに、その子の「死」を考える者はいない。

人間の一生は「長い」ようで「短い」
そう感じてしまうのは
自分は、いま、「老い」の時刻(とき)に在るからであろうか。

昨日亡くなった老女は「不慮の死」であったのか
それとも
生前本人が望んでいたように
亡き夫と建てた家の畳の上で死ねたことで
幸せだったのか・・・・

今回の老女の死と自分の生いと老いを重ね合わせながら
「死」を見つめていければ。と思っている。



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1370;万華鏡・家族模様・介護 {3}

2020-01-22 15:24:25 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
万華鏡・家族模様・介護 {3}

同じ屋根の下に
長男夫婦と暮らしていたが
夫婦とも仕事に出かけ、
89歳の婆さんが
冷たくなっていた。


昨夜から今日の朝にかけ
寒さは厳しかった。

迎えに行ったデイサービスのスタッフから
連絡が入った。

今日の在宅訪問の大半はキャンセルし
急いで駆けつけた。
119番通報をした。

彼女の顔を手で触れたら
硬い冷たさが伝わってきた。

安らかな顔で眠っていたことが
救いであった(合掌)

彼女の死をどう捉えるか
自分の中で整理せねばならない。

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1369;「在る」と「有る」

2020-01-22 07:50:12 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
「在る」と「有る」

過去は、過ぎ去りし いまは「無い」
未来は、未だ来ぬもので いまは「無い」
現在は、いま「在る」
自分は、いま「存在」している。

自分の生は、いま「有る」が、有限であり「無」となる。
時間と空間は、無限に「存在」し「有限」ではない。

自分が存在する限りは、内なる心は「無限」に「存在」する。

いま床に伏している老人、いま「存在」している。
いま、生きている。
いま、生きていることを大切にしていきたい。
いま、生きているあなたを想い愛しむ。

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1368; 生きる力

2020-01-21 15:59:58 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
自治医科大学附属病院感染症科受診の帰り路 壬生SA

生きる力

生きる力、と書くと
何だか仰々しい感じがしてしまう。

何故、生きる力、と出だしに書いたのか?
終戦後、夫と共に農業一筋に生きてきた85歳の婆さんを訪問した。
彼女は脳梗塞を患い左半身不全麻痺となった。

母屋に住む長女夫婦に迷惑かける訳にはいかない、と
老母は言葉少なに話す。
家のなかも外も歩行器につかまり歩く。

硬いソファに座っている時は
左大腿部を両手でつかみ、脚を上げたり下げたりしている。
彼女は多動でもいい、こうして左脚を動かすことで
歩くとき足の運びがちがう、と話す。

そうして左脚を持ち上げたりして頑張っていることは
車の乗り降りのとき、脚が容易に上がり
家族は助かるよ、と話しかけた。
傍で聞いていた長女は、「そうだよね」、と頷いていた。

生きているんだ、と言葉にせずとも
少しでも自分でできることをする
言うことがきかない左脚であっても
動く手で左脚を動かす。

生きるとは、動くこと
すなわち活動することなり。
老いた母親は
娘の手を煩わせることないよう
ままならぬ左脚を動かすことで
生きる力を得ている。
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1367;「食べれる」のに「食べなくなった」老人のサービス担当者会議

2020-01-20 04:18:20 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」


「食べれる」のに「食べなくなった」老人のサービス担当者会議

心臓や肺に水が溜まった92歳の老女は
3週間の入院治療で快復し退院となり家に帰った。

もう自分は「食べれない」と思い込み、
口から食べることを忘れてしまかったのように
食べなくなった。

介護に不慣れな長男(72歳)は、
エンシュア・リキッドを朝晩飲ませれば
食事は摂れる、と勘違い

老女は呼吸苦を訴え
先週の金曜から在宅酸素の導入となった。

今日から訪問看護を始めることになることから、サービス担当者会議を開催
寝返りもままならなくなり エアマットも導入した

かかりつけ医との調整は電話及び土曜日に老女の自宅で面談した

退院して2週間になる
ほとんど口から食べていないので
胃も縮み、食べ物を受け付けなくなってしまうのでは、と心配してしまう

人間、食べなくなり、水分も摂らなくなり、尿もでなくなると
死が近くなる

オー・ヘンリーの『最後の一葉』を思い出す
生きる気力さえ戻せば、食べることができるのに・・・・

みんながこうして、老女の家に集まり彼女のことを心配してくれている
そのことに気がつき なんでもいいから好きな食べ物を口にして欲しい

いまは「食べる」ことは「生きる」ことに繋がる






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