老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

寒い朝

2023-01-04 21:23:14 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1924 夜明け前から早朝散歩



道路の右端は阿武隈川が流れている

東北の冬空は日によっては、鉛色のような重たい空が目に映る
そんなときは憂鬱な朝に感じてしまう

雪で覆われた散歩路を歩くのは気持ちがいい
振り返ると酔っ払いが歩いたような蛇行の足跡
人生の足跡も雪路のようにはっきりとしていたらいいのだけれど

白髪一路の如く
一つの路を最後まで貫き通すことは偉大である
自分自身 人生の足跡はあったりなかったりの感じ

最後だけでもしっかりと雪を踏みつけ歩きたい

beagle元気に連れられ、雨の日以外は朝夕 散歩をと決めている
朝夕で8000歩を歩くのは大変
達成したりしなかったりの繰り返し

杖をつきながらでもよいから
一日も長く歩き続けたいものだ
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死ぬまで歩く 97才の婆さん [2]

2023-01-03 12:47:46 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1923 半人前。



(2)
幼児のオムツが外れると、幼児の行動が束縛されず自由になる。
それは、同時に母親もオムツの世話がなくなり、自由な時間が増えてくる。
子どもの成長により身体の世話が解放される。

それに対し老人は様々な理由から歩くなくなると、紙オムツになってしまう。
介護のかかわり方、介護の仕方によって、老人のオムツを外す可能性がある。

老人は「オムツをするくらいなら死んだ方がましだ」、という言葉を耳にする。
なかにはオムツにされたことで、生きる意欲をなくし、いつの間にか眼は虚ろになり
ベッド上で死を待つだけの時間になってしまう。

何故、オムツにされた老人は生きる希望をなくすのか。
それは、オムツをしている赤ん坊(幼児)と同じになった自分、
他人の世話を受けなければ、排泄の処理ができなくなった自分は
「半人前」の大人だと思ってしまうのかもしれない。



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死ぬまで歩く 97才の婆さん [1]

2023-01-02 11:03:32 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1922 小さな「大人」



(1)
哺乳類動物の大半は前足と後ろ足を使い歩く。
人間は「直立歩行」が出来たことで、「前足」は「手」となり自由になった。
手は石を掴み、石に棒をつけることで、金槌の機能を果たし武器にもなった。
手はさまざまな道具を作りだし、労働を行うことで「ヒト」から「人」へと成長した。

人間にとり「歩く」「歩ける」ことは、大きな自由(解放)をもたらした。
オギャーと産声をあげた赤ん坊は、首が座り、寝返りができるようになると、
頭を上げ、周囲(まわり)を見渡すようになると、赤ん坊にとり世界観は大きく変わる。

目の前にある物に興味を抱き、這い這いを始める。
這い這いは高這いに変わり、高這いから椅子の座面に両手をつき、「立ち上がり」をする。
立ち上がりから「立ち(立位保持)」、自由になった両手で手を叩きながら満面の笑顔になる。
月面に降り立ち上がったアメリカの宇宙飛行士と同じ位、
幼児の立ち上がり立位したことは、その人の人生上における偉大な行動を意味する。

立つ行動を繰り返すなかで、第一歩を踏み出し歩けた時には、両親は大喜び、歓喜の聲に包まれ、
生まれた時と同じく忘れられない記念日となる。
歩けるようになると、行きたいところに行ける。
行動は拡大され、見知らぬ世界に遭遇する。

歩ける、と次にはオムツが外れ、パンツになる。
トイレに向かって歩き、洋式便器でオシッコができるようになる。
まだ、見守りやズボン、パンツの上げ下げに若干手はかかるが、
やがて一人でできるようになり、小さな「大人」になり、
僕は赤ちゃんではない、というプライドが出てくる。








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初日の出

2023-01-01 09:24:00 | 老いの光影 第10章 老いの旅人たち
1921 初日の出



2023,1,1 ;6;55 関東平野から筑波山を眺め初日の出を拝む。

毎日 陽は昇り 陽が沈む。
自分は数え71の齢を迎えた。

加齢性難聴と診断され、
歯が欠けたような感じで
人間の聲を一部聴き取ることが出来なくなった。
補聴器でもつけようかどうか迷ってる。

今年は訪問介護ー通院等乗降介助(介護タクシー)により
透析患者や一人暮らし老人、老老介護家族等の通院支援を始めていく。

自分自身は70の手習いで 国家試験 運行管理者の取得に挑む。

介護タクシーも旅客運送事業のひとつであり
『いのち』を運ぶという大切な使命を持ち
安全運転が求められます。
その自覚を持つために運行管理者として
責務を果たしていければと・・・・

虫食いのような物忘れが出始め
wifeから 惚けてきた 、小言を頂戴する
ボケ防止の目的を兼ね運行管理者の試験に挑むもうひとつの目的である。
ぶ厚い『自動車六法』を開くと
耳慣れない用語に頭の中は大混乱。。

取得するまで何度も何度も何度も受験するしかない。

十指余る疾病はいまは平穏を保っている。
多病息災で残り少ない時間、と思いながらも
いつまでも時間はある、と思ってしまう。
脆弱怠惰の病気が一番厄介である。

今年も途切れ途切れのブログ
よろしくお願いします

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