老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

『老師と少年』➓ ときどき「ふと」思うこと

2020-08-31 07:51:07 | 老いびとの聲
熟した柿の如く人生を終えたいものだ


1653 『老師と少年』➓ ときどき「ふと」思うこと

『老師と少年』を読み終え
ラストの言葉 「生きる意味より死なない工夫」に思わず唸ってしまった。
多疾患を抱えている吾身だけに
病があっても「元気」と「健康」に過ごしていく
いまどう生きていくか


人間というのは悪い癖があり
(それは自分だけのことかもしれない・・・・)
物事を自分中心に考えてしまいがち

いま、自分は生きていて
眼に映るもの 
耳に聴こえるもの
肌に触れ感じるもの
舌で味を感じるもの
鼻で匂いを感じるもの

自分が
いま ここに 在るから
こうして生きている

自分は 他人と入れかわることはできない
また他人の心に入り込むこともできない

あくまで自分は自分であり
他人は他人である
自分は生きているから他人の存在を意識する
自分が死んだらもう他人のことを意識することはない

だから自分が死んだら「もうお終い」なのだ
死んだら思考することも感じることも「無く」なる
死は眠っている状態と同じなのか
そうならば生きているときの苦悩や痛みは消滅し
病からも解放される

死んだ後の自分はどうなっているのだろうか
自分という「存在」を意識することができるのだろうか
輪廻転生(りんねてんしょう)があり
またヒトに生まれ変わることができるのか
そうだとしたら海が見える家に生まれたい




探しものは見つかりました

2020-08-30 19:22:13 | 阿呆者


1652 探しものは見つかりました

昨日のブログで
「神(紙)」隠しにあった『竜の道』下巻 の文庫本
探し回ったが見つからなかった

井上陽水『夢の中へ』の詩のなかで
「探すのをやめたとき 見つかる事も よくある話で」

諦め、探すのをやめ
今日の朝 10時過ぎ
朝寝をしようと、何気なくかけ布団をめくったら
布団のなかから探しものが出てきた

うわ~ こんなところに探しものが隠れていたなんて
予想も考えもしなかった

職場の机に忘れてきた、という
思い込み 思い違い
怖ろしい

物がなくなったときは
思い込みに気をつけ注意しなくては

憂いが一つ減った


老師と少年 ➒ ~生きる意味より死なない工夫~

2020-08-30 06:45:58 | 老人と子ども

  夕暮れどきから暗闇前の阿武隈川 空はなぜか”明るい”

1651 老師と少年 ➒ ~生きる意味より死なない工夫~

後夜 

老師はまた旅に出て、庵にはいなかった。

「大切なのは答えではなく、答えがわからなくてもやっていけることだと
彼はどこかで感じたのだ」
(112頁)

やっていく方法は自分で見つけるしかない(112頁)

「生きる意味より死なない工夫だ」(112頁)

最後、少年に残したこれらの言葉は、”自分で考えて、自分自身が決めることだ”。
若い頃は世の中の矛盾のせいにし、齢を重ねるにつれ流され生きてきた自分。
結果や答えを求めてしまいがちであり、答えが出ない、とそこで諦めてしまう。
「答えがわからなくてもやっていける」ような自分の器を作っていけるかどうか。

老いに入ると 老親や友人の死に遭遇し 大切な人がいなくなり 「死」を考えざるを得なくなる。 
その自分も死ぬ。
自分は 今本当に生きている、といえるのか。

それでも「人は自ら死ぬべきではない」
「生きることが死ぬことよりはるかに辛いことだとわかっていても、
自ら死ぬべきではなない」
(19頁~20頁)
人は、死ではなく生きていくことを選んでいく。


※ 九話にわたり『老師と少年』の話に
お付き合いいただきありがとうございました。






「神」隠し

2020-08-29 20:54:57 | 阿呆者
1650 「神」隠し

読みかけの文庫本 『竜の道』下巻(白川道 幻冬舎文庫)を
どこに置いたのか忘れ
自宅そして職場のデスク、キャンバスのなかを探し回っても
見つからない

「神」隠しならぬ「紙」隠し
あと100頁読めば、読了するはずだったのに
いったいどこへ消えたのか

夢の中で、文庫本『竜の道』の置き場所が
見つかるといいのだが

あちこち探し回ったが
見つからないので 諦めることにした

忘れたころに出て来るのだろか
それにしても見つからないのが気になる

置忘れを「神(紙)」隠しのせいにするのは
認知症のはじまりか・・・・・


老師と少年 ➑ ~自分という器をつくれ!~

2020-08-29 07:37:09 | 老人と子ども
1649 老師と少年 ➑ ~自分という器をつくれ!~


第七夜 
三日月の夜 庵の前に坐って話をするのも最後となった老師と少年の話

月明りに照らされた老師は少年に話す。
「自分が存在するのではない。存在するのだ。
自分が生きているのではない。生きているのだ。
問いはそこから始まる。『自分』からではない」(96頁)

自分が存在するから、自分が生きているから、
人は自分とは何かを問い、なぜ生きているのかを問い、答えを欲してしまう。

『自分とは自分ではない』として捉え、自分は何者でもない。

「水を飲むには器がいる。生という水を飲むにも」器がいる。(96頁)
注; “水でも器に盛られた瞬間から料理になる” 韓国ドラマ『宮廷女官 チャングムの誓い』第4話参照

「『自分は自分ではない』、ならば『自分』を作らねばならない。
水を飲む器を作らねばならない。人が生きるとはそのことだ。
人が水を飲むとはそういうことだ。その重荷を引き受ける。
生きることが尊いのではない。生きることを引き受けることが尊いのだ」(101頁)

水を汲む器、その器を作り、水を器に汲み飲むことに、尊さがある。
老師は少年に熱く語る。
友よ、器を作れ。困難な仕事だ。それを何度も磨く。
一度打ち割って、作り直さねばならぬときもある。
割れた器で飲まねばならぬときもある。それでも、
最後まで生を飲み干せ
(103頁)

人が生きるには水を飲まねばならない。
水を飲む器を作らねばならない。
生きるとはそのことなのだ。
水を汲む器を作る、という重荷を引き受け背負い生きることが尊いのだ。

振り返ってみると、壁にぶち当たったとき
器を一度打ち割って、作り直す勇気もなく
老いを迎えてしまった「自分」

砂の器にならぬよう
老いた器を作り
器に水を汲み
渇いた咽喉を癒していきたい。



552 “水でも器に盛られた瞬間から料理になること”
《再掲》
韓国ドラマ『宮廷女官 チャングムの誓い』(韓国原題 大長今)(全54話)
第4話「母の教え」の一場面を紹介ます。


「最高尚宮(チェゴサングン)になりたい」というチャングムに
ハン尚宮は「飲み水をもってきて」と・・・。
チャングムは、お湯、冷たい水、木の葉を浮かべたり、といろいろ工夫をしますが
何度もやり直しを命じられます。

ハン尚宮は、チャングムが最近、
泥水を沸かし洗濯をしたのは・・・と問いかけると、
チャングムは母の教きえを想い出した。
母親は水をあげるときに、
「お腹が痛くありませんか?」「今日お通じは?」「のどが痛いことは?」と、細かく聴いてから、
冷たい水や温かいお湯、甘い水を下さいました。


ハン尚宮は、「そうよ、細かく聴くこと」。
そこに気づいて欲しかったの。
料理を出す前に食べる人の体調や好物、体が受けつける物。
それを考えるのが料理の心得だと教えたかった。
でもお母様からもう教わっていたのね。
お母様は立派な方ね。
水でも器に盛られた瞬間から料理になること。
食べる人への配慮が一番だということ。
“料理は人への気持ち”だとご存じだったのね」。

介護においても同じようなことが言えるのではないか、と私自身も教えられました。
食事や排泄、入浴などの介助を行うとき、
老人からどうしていただきたいのか、
「細かく聴くこと」と同時に
配慮(気遣い)していくこと、
それが重要なことであることに気づかされました。

老師と少年 ❼ ~欲 望~

2020-08-28 16:03:32 | 老人と子ども
1648 老師と少年 ❼ ~欲 望~

第六夜 
神も虚無も受け容れることができず悶々としている少年
第六夜は(道の人)がどこからともなく、いつの間にか人々の中に現れた。

人は、死とは?、自分は誰か?などと
答えを欲している
答えがないことに耐えられない

道の人は話す。
「その答えとは何か? 何に対する答えか?
自分とは何か、なぜ生きるのかという問いかけの答えか?
違う。それはたった一つの欲望に対する答えだ」
(86頁)

「欲望だけが、生きていることの苦しみなのだ」(86頁)

自分であること、生きていることに苦しむ人は多くはない。
人間の欲は財産や地位や名誉であったりするのがほとんどだ。
何故か、人はそれを欲する。
他人に認められたいからだ、欲するものを身に抱えたいからだ。

欲望は持てないから苦しむが、持てたとしても苦しみはやまない。

「財産も地位も名誉も、人が生まれてくるときに一緒についてこない。
それは人が後からつくり出したものにすぎない。
つくり出したものは壊れ、得たものは失われる。
死は平等にすべてを奪う」
(88頁)

認知症老人になると、寝たきりになると
地位や名誉は関係なくなり
呆けて(惚けて)いくと立場(境遇)は同じになる。

棺に入ったときは財産を持っていくことはできない。
「死は平等にすべてを奪う」、その言葉通りである。
人間、死するときに何を遺してゆくのか。



内村鑑三著「後世への最大遺物 」岩波文庫に
興味深い話が書かれてある。


道の人は、
人間の欲望の先にあるものは、壊れ失われない永遠に存在するものを欲する。
答えを求めることも、『断念する』ことだ、と少年に語りかける。

少年は「ぼくにはわからない」、と。










お互い様

2020-08-28 07:34:10 | 老い楽の詩
1647 お互い様

一人の介護従事者は 
百人の老人を介護している
つもりでいるけれど

百人の老人から
あなたは見られていることに
気がついているだろうか

好きな言葉ではないがよく使われる
「介護する人」は
「介護される人」をどう見ているのだろうか
「介護される人」は
「介護する人」をどう思っているのだろうか

「介護される人」は
いつも心のなかで 呟いている
いつもお世話になり 申し訳ないのです
あなたに返すものがなく 心苦しく思います

あなたは 隣に住む人から
「お土産です」「旬のものです」と
頂いてばかりいると 
本当に申し訳ないと思い
あなたは隣の人に お返しをするでしょう
それは お互い様だから

一方的に頂いているばかりいると
心苦しく思うのです

「介護される人」は
介護受けるばかりで申し訳思っています
「介護する人」は
気がついているのだろうか

介護する人は
すべてしてあげることが
優しいことだと思っているのだろうか

寝たきり老人は何もできない
認知症老人は何もわからない
本当にそうだろうか

穏やかな老人 忍従老人 捻くれ老人 我儘老人 
いろいろいるけれど
どんな老人でも
“よいところ” “できるところ”を
見つけ それを褒めるところから
介護が始まる

ベッドやトイレなどで
老人がつかまり立ちができたら
介護する人は
「立つことができて 助かるよ」
「介護が楽になったよ」と
褒めること
その一言で老人は
「私も役に立つ」と
心のなかで嬉しくなり
あなたに「お返しすることができた」と

記憶が忘れ どうしていいかわからないが
いつもあなたから頂いた親切は忘れない
息子の名前は忘れたけど
息子はお腹を空かして
学校から帰ってはいないかと心配している
言葉は失ったけれど
介護する人の心はよく見える

記憶が薄れても
体で覚えたことはいまも上手にできる
(昔とった杵柄)
できることを お願いされることで
私は心が落ち着き 居心地がよくなる
あなたから「ありがとう」と言われ
あなたの役に立てて 嬉しいです

人生も 介護も お互い様
助けたり 助けられたリ

あなたが居ることで
心の支えになる

誰か傍らにいて欲しい

2020-08-27 10:22:39 | 老い楽の詩
1646 誰か傍らにいて欲しい

人間生まれるとき
おぎゃ~と泣き
ひとりではなく
抱きあげ微笑んでくれる。
母親の胸に抱かれているだけで
至福の境地にあった。

いまは老いびとなった。
幾多の老人の棺に手をあわせるたび
吾身にもやがて死は訪れる。

誰かが話していた
金持ちになることはできるが
幸せになることは容易ではない。

最期の瞬間
生まれたきたときのように
誰か傍らにいて欲しいものだ。

犬の気持ち

2020-08-26 20:07:49 | 犬と人間
1645 犬の気持ち



昨日のことである
路面(車道)の真ん中で
beagle genkiは
路面に顎をつけ腹這いになり伏せる
鼻が長く、膨らんだ頬の容態は
先頭車両の新幹線に映る

昨日の早朝散歩のとき
家を出て 腹這いになってしまう
何度起こしても、またすぐ伏せてしまった

「俺は早朝散歩に行かない」、と抵抗している。
「散歩行くよ」、と声をかけるも
なかなか重い腰をあげようとしない。

最後は、立ち上がり45分ほど散歩に付き合ってくれた。

今日の朝 5時過ぎ
「散歩に行こう」と声をかけ 首輪をしても
まったく行く気がなく、ゲージのなかでうつ伏せのままでいる。
wifeが歩き方がおかしいよ
左の前足が着いていない感じ、と言われ

左足の裏をみたら
赤くミミズ腫れのようになっていた
気になり昨日から左足の裏を舐めまわしていた
犬の舌は「雑菌」「黴菌」でいっぱい
左足の傷口に黴菌が入り感染症を起こしたのか

今日 15時過ぎ出かけ
郡山市にあるペットクリニックに受診
抗生剤の注射を背中に一本「ブッス」と注す
genkiは泣かずに我慢していた

2,3日散歩はお休みとなる
犬も「犬語」で話すこともあるが
人間の言葉を話すことができないだけに
痛みや苦痛を訴えることができない

なんだかおかしい、というサインや仕草(動作)には表れる
それを感じ取り、痛み、病気を早期発見することが大切

犬も家族だけに
家族みんなが元気であることが一番

今日は忙しく仕事で139キロほどキャンバスで走った
その後、往復60キロ余り genkiの受診で走行した
皆様のブログ訪問できず
明日にお邪魔することにします、すいませんです


老師と少年 ❻ ~本当は何もない、幻なのだ(虚無なのだ‼)~

2020-08-25 04:39:26 | 老人と子ども
黒い雲からこぼれる陽光は幻なのか

1644 老師と少年 ❻ ~本当は何もない、幻なのだ(虚無なのだ‼)~

第五夜 / 第九夜 
第四夜同様,第五夜の話も、自分にとり「わかる」ような、「わからない」ような感じにある。
第五夜で『老師と少年』の話は、前半部分を終える。

少年は神殿に行き、聖者の教えを
信じることができなかった。
人はなぜ死ぬのか、自分は何者か
そのことを理解したかった。

理解できないことは信じればいいのか。
信じることと理解することは違うのか。

少年と同じ悩みを抱えた別の少年が
少年に言葉をかけた。

別の少年は森の奥、川上の上流にある岩山の陰にあ洞窟に住む隠者の処へ
少年を連れて行った。

灰色の髪が背中まで流れる老人が座っていた。
老人は浅黒く痩せこけ、幾重にも皴に囲まれた眼は
何かを照らすがごとく強く見開かれていた。

隠者は少年に語りかけた。

「お前は神殿の聖者にたずねただろう。人はなぜ死ぬのか。私とは何か」
「その答えはない! 人は理由も意味なく生まれ、死ぬ。私とは何か・・・・・、
何ものでもない! その問いの答えは、すべて錯覚だ。・・・・・(中略)・・・・・。本当は何もない。
・・・・・(中略)・・・・・。何もかもが虚無」なのだ
(72頁)

しかし、少年は隠者から「虚無だ!」、と話されても、その虚無が苦しかった。
少年は更に苦しみ隠者にたずねた。

「隠者よ。すでに私は生き、世界はここにあります。すべて虚無ならば、
私はこの世界で、どうしたらよいのですか。すべて無意味なら、死んでしまえば
よいのですか」
(73頁)

隠者は「自ら死ぬ意味もない」と憐れむように少年に話す。

老師は涙ぐむ少年の肩に手を触れた。

「虚無とは(神)の別の名で、虚無を悟りすべてを捨てるとは、
神を信じて従うことと変わらぬのではないか」
(73頁)

老師は少年にやさしい眼差しで語りかける。
「問うべきことは問うのだ」
「理解できないことが許せないとき、人は信じる。
信じていることを忘れたとき、人は理解する」
(75頁)

パスカルの有名な言葉を思い出した。
「人間は考える葦である」
人間はそこらに生えている葦のように弱い存在であるけれども
人間には「考える」ことが出来る分だけ葦よりも強い。

少年は、パスカルのように問いつづけ悩み、考え、苦しむ。
「人は理由も意味なく生まれ、死ぬ。私は何ものでもない。」、と
言われたら、生きる意味を失い、自分という存在が否定されることほど、苦しいものはない。

「生死」と「存在」は、無関係ではなく、深いかかわりあいを持っている。
それは第六夜、第七夜の話にツナガッテいく。

いずれは 誰もが老人になるのだろう

2020-08-24 04:31:20 | 老い楽の詩
1643 いずれは 誰もが老人になるのだろう

健康な老人は
よぼよぼ歩いて老人を
どう見ているのだろうか

よぼよぼ歩いている老人は
車いすに乗っている老人を
どう見ているのだろうか

車いすに乗っている老人は
介護ベッドでねたきりでいる老人を
どう見ているのだろうか

定年になり公園のベンチで時間をつぶす
行き先のない男は
ひなたぼっこをしている老人を
どう見ているのだろうか        

いずれは誰もが
老人になるのだろう
それなのに
老人が増えて困ったと騒ぐのは
介護を知らない政治家たち

通りすがり的に老人ホームを
ただ視察するのではなく
政治家たちも紙ぱんつをはき
一泊二日 介護ベッドの上で(紙ぱんつの中に)オシッコをするがいい
そうすれば
寝たきり老人の気持ちが少しはわかるだろう

財布がない いくら探し回ってもない
コロナウイルス感染よりも
いまいちばん気になっているのは
財布がないことだ

財布が見つからないときは
「嫁が盗った!」、と
誰かのせいにしないと落ち着かない
認知症老人がここにいる

いまは 財布がないことも忘れ
ご飯を食べている
ご飯を食べ終わり
三分もしないうちに「ご飯たべていない」、と
話す認知症老人がここにいる

天井と壁を見ているだけのベッド生活であっても
おむつを取り換えてくれたときの解放感と
ねたままで入るお風呂は極楽湯の気分は最高さ
朽ちた古い家で寝ていても
生活の音や雨音や風を感じるときがいい

いずれは誰もが
老人になるのだろう


 

人間観察の日

2020-08-23 20:24:34 | 阿呆者
1642 人間観察の日

明日は4時に起き beagle genkiの散歩を行い
 5時30分頃に我家を出る
 wifeが運転する車に乗り片道110㎞余り走る
 
 明日は自治医科大学附属病院外来受診の日で
 7時30分に受付をし採血・採尿・心電図検査を行い
 循環器内科、腎臓外科、皮膚科、感染症科の4つも受診となる
 
 大学病院の廊下ですれ違う外来患者予約者2600人余り
 それぞれの病や表情はいろいろであり
 長椅子に座りながら人間観察したりされたりの待ち時間
 マスクもいろいろであり マスク星人の世界に映る
 コロナウイルスだけが元気に
 地球という惑星のなかで繁殖し続け 
 人間を不安と恐怖に陥れている

 コロナウイルスに負けるな
 病に負けるな
 帰りのお土産は 
 袋がはちきれるほどの薬を手にして・・・・
 
 


老師と少年 ❺ ~神を信じるのだ?~

2020-08-23 06:27:45 | 老人と子ども


1641老師と少年 ❺ ~神を信じるのだ?~

【第四夜】
老師は、殺されるネズミを見て以来
不安がとりつき、不安の意味や正体がわからなかった。

大人にネズミの話をすれば忘れろと言われ、
死ぬとはどういうことかと聞けば、あの世や空の星の話になる。

少年の父は、こう言った。

「お前のように(死ぬこと、自分誰か等と)考え悩むのは苦労がないからだ。
楽をして暮らしているからだ。飢えや病に苦しむ人たちにくらべれば、実に
くだらない、贅沢な悩みだ」と。
(54頁)

確かに飢えや病は苦しいだろう。
しかし、ぼくも苦しいのです。
二つの苦しみは比べられないし、比べても意味がない。
二つの苦しみはそれぞれ「違い」、人により苦しみは個別的なものである。

老師は、「生きていくことの苦しさと、生きていることの苦しみは違うのだ」(55頁)
生は、困難な生であり、苦しい生だと思うが故に、生きていくことを選ぶ。


少年は見知らぬ人から手紙が届き、苦しみを救う神殿の聖者を紹介された。
少年は神殿に行った。
少年『聖者よ。人はなぜ死ぬのか。私とは何か』
聖者『お前は生まれる以前にすべてを知っていた。教えられたからだ』
少年『誰が⁉ 誰が教えたのです?』
聖者『(神)だ』
少年『生まれる前の私とは誰です?』
聖者『(神)の子だ。それが本当のお前だ』
少年『しかし・・・・・』
聖者『理解できまい』
少年『はい』
聖者『そうだ、これは理解することではない。信じるのだ。
   理解できないから受け容れられない。(神)はそれを罰する。
   ・・・・・(中略)・・・・(神)を受け容れず、その傲慢ゆえに
   (神)に罰せられたのだ。今お前が死の意味を知らず、真の自己
   を知らないのは、その罰ゆえなのだ』(59~60頁)

少年と聖者の問答を読むと、自分も少年と同様に
死の意味や私は誰であるか、を理解したかったが、それはできず、いまも苦しみが続いている。
神を信じることができない自分は寂しかった。

神を信じ受け容れることができない自分が在る。
他方では、困ったときに「神頼み」をする自分がいて、
頼みごと(お願いごと)は叶えられることは余りない。











しばらくぶりの雷雨

2020-08-22 16:08:14 | 阿呆者
1640 しばらくぶりの雷雨


7歳 beagle genki 雷が怖い


15時過ぎ 南陸奥の空は
雷がゴロゴロ、ピカッ、バリバリ、ドスンと鳴りだした

家の中にいても雷が苦手なbeagle genkiは
トレイに大失禁
不安な顔し、うろうろし助けを求めている
傍にいき顔や背中を撫でてあげる

雷のあとは窓に横殴りの雨、雨、雨

昔は「地震雷火事親父」という言葉があったが
いまは、「地震雷家事コロナ」であろうか



老師と少年 ❹ ~人間とは何か~

2020-08-22 05:01:24 | 老人と子ども

阿武隈川


1639 老師と少年❹ ~人間とは何か~

九夜に渡る『老師と少年』の会話は、第三夜に入った。
❹回目は「人間とは何か」について考えたが、自分にとり難解であった感がする。

老師はベッドに横たわっていた。
老師は話す。「君はある人間がどのように苦しむのかを見るのだ」(41頁)
相手の心をわかろうとするのではなく、苦しみを共感することなのだ。

老師は、幼い頃の出来事を少年に語る(引用が長くなります 42頁)
「私は小川に沿った道を歩いていた。すると、先の方で、ある老人が道ばたに
腰をおろし、片手を小川の中に入れていた。何をしているのかと近づいてみる
と、竹籠に捕らえたネズミを、水に浸けて殺していたのだ。たぶん、家の貯え
でも荒されたのだろう。」

「キーッ、キーッと何かを刺すようにネズミは鳴き、小さく鋭い爪で籠を掻き
むしっていた。私は老人の大きな背中の後ろにたちすくんだまま、ただその音
を聞いていた。
すると、気配を察したのか、突然老人は肩越しに振り返った。そして私の目を
見上げて、顔中の皴を撓(たわ)めて、にやっと笑った」



「そのとき、私のどこかが裂けた。それまで、どういうこともなかった世界の
何かが、突然欠けた
註:青字は筆者が記した

上記の出来事は、幼い頃の老師にとり衝撃的な事であった。
老師は、「私ではない『私』に出会い、そして新しい『世界』が現れた。
その『世界』には、大人という『他人』がいた。

その『他人』は何者か。残虐にネズミを殺せる人であり、その人は『人間』であった。

その出来事から、老師は「人間とは何ですか」(45頁)と問い
「人間とは、裂けたもの、欠けたものだ」とし、「人はそれを探して、苦し」んでいく。

第三夜の最後の行に、老師の言葉がある。
「色々な病み方がある。治りはしないが、生きてはいける。それでいいのだ」(48頁)
自分は多疾患の持ち主であるだけに、この老師の言葉に元気づけられ、胸底に深く滲みた(沁みた)。
人それぞれ色々な病み方があり、治らないけれども、病と仲良く生きていく。
そのことが「欠けた」ことであり、ときには苦しみながら生きていく私なのだ、と。


第三夜は、自分以外の存在である「他人」の世界を知り
残虐にネズミを殺せる「大人」がいて、それは(自分ではない)他人であり、
その人も人間であったことに、「人間とは何か」を考えさせられた。