1649 老師と少年 ➑ ~自分という器をつくれ!~
第七夜
三日月の夜 庵の前に坐って話をするのも最後となった老師と少年の話
月明りに照らされた老師は少年に話す。
「自分が存在するのではない。存在するのだ。
自分が生きているのではない。生きているのだ。
問いはそこから始まる。『自分』からではない」(96頁)
自分が存在するから、自分が生きているから、
人は自分とは何かを問い、なぜ生きているのかを問い、答えを欲してしまう。
『自分とは自分ではない』として捉え、自分は何者でもない。
「水を飲むには器がいる。生という水を飲むにも」器がいる。(96頁)
注; “水でも器に盛られた瞬間から料理になる” 韓国ドラマ『宮廷女官 チャングムの誓い』第4話参照
「『自分は自分ではない』、ならば『自分』を作らねばならない。
水を飲む器を作らねばならない。人が生きるとはそのことだ。
人が水を飲むとはそういうことだ。その重荷を引き受ける。
生きることが尊いのではない。生きることを引き受けることが尊いのだ」(101頁)
水を汲む器、その器を作り、水を器に汲み飲むことに、尊さがある。
老師は少年に熱く語る。
「友よ、器を作れ。困難な仕事だ。それを何度も磨く。
一度打ち割って、作り直さねばならぬときもある。
割れた器で飲まねばならぬときもある。それでも、
最後まで生を飲み干せ」(103頁)
人が生きるには水を飲まねばならない。
水を飲む器を作らねばならない。
生きるとはそのことなのだ。
水を汲む器を作る、という重荷を引き受け背負い生きることが尊いのだ。
振り返ってみると、壁にぶち当たったとき
器を一度打ち割って、作り直す勇気もなく
老いを迎えてしまった「自分」
砂の器にならぬよう
老いた器を作り
器に水を汲み
渇いた咽喉を癒していきたい。
552 “水でも器に盛られた瞬間から料理になること”
《再掲》
韓国ドラマ『宮廷女官 チャングムの誓い』(韓国原題 大長今)(全54話)
第4話「母の教え」の一場面を紹介ます。
「最高尚宮(チェゴサングン)になりたい」というチャングムに
ハン尚宮は「飲み水をもってきて」と・・・。
チャングムは、お湯、冷たい水、木の葉を浮かべたり、といろいろ工夫をしますが
何度もやり直しを命じられます。
ハン尚宮は、チャングムが最近、
泥水を沸かし洗濯をしたのは・・・と問いかけると、
チャングムは母の教きえを想い出した。
母親は水をあげるときに、
「お腹が痛くありませんか?」「今日お通じは?」「のどが痛いことは?」と、細かく聴いてから、
冷たい水や温かいお湯、甘い水を下さいました。
ハン尚宮は、「そうよ、細かく聴くこと」。
そこに気づいて欲しかったの。
料理を出す前に食べる人の体調や好物、体が受けつける物。
それを考えるのが料理の心得だと教えたかった。
でもお母様からもう教わっていたのね。
お母様は立派な方ね。
水でも器に盛られた瞬間から料理になること。
食べる人への配慮が一番だということ。
“料理は人への気持ち”だとご存じだったのね」。
介護においても同じようなことが言えるのではないか、と私自身も教えられました。
食事や排泄、入浴などの介助を行うとき、
老人からどうしていただきたいのか、
「細かく聴くこと」と同時に
配慮(気遣い)していくこと、
それが重要なことであることに気づかされました。