老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

突然のくも膜下出血

2022-05-07 16:24:52 | 生老病死
 

1879 思いがけない・・・

今日、赤いアルトのハンドルを握り
在宅訪問に向かっていた。

普通ならばスマホが鳴り響かない日(土曜日である)なのに
バッグの中からスマホが鳴った。
アルトを停車しスマホをとった。
「昨日義母が入浴中、突然くも膜下出血に遭い 亡くなった」、と長男嫁の言葉に吃驚。
93才であった。

1軒目の在宅訪問を終え、急いで向かった。
お祈りし、臥床している彼女に合掌した。
眠るように穏やかな表情であった。
手で白髪を撫でながら、「ありがとう」と呟いた。

夕方、仲良しだったデイサービスの3人の婆さんが会いに行かれる。

1473;「風景」としての死

2022-03-07 04:44:14 | 生老病死
「風景」としての死

『臨死のまなざし』から教えられたこと(6)最終回


           『臨死のまなざし』195頁

昭和初期までの日本は、病人の部屋があった。
大正昭和に一世を風靡した抒情画家竹久夢二の
デッサン『病むおじいちゃん』が『臨死のまなざし』
でみることができた。

病気で伏しているおじいちゃん
枕許の薬瓶と薬袋
そして病気のおじいちゃんに付き添い
何か声をかけようとする孫娘。

もしかしたら、この伏しているおじいちゃんこそ
竹久夢二だったのではないか・・・・。

こうした『病むおじいちゃん』のような風景は
かつてはどこの家庭でもみられた在宅介護の原風景であった。

昭和30年代からの高度経済成長のなかで
核家族化が進み、家庭の電化普及
(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫は三種の神器と言われた)
教育の過熱やマイホームの所有により、女性就労が増え、
日本の家族風景は一変した。

出産や病人の看護は、排せつや食事の世話、洗濯など、
いちばん大変な仕事でありからだを使う労働であった。
それらは、高度経済成長が進むなかで、出産と死は
在宅から病院に移り変わっていった。家族皆がそろい
見守るなかで「おぎゃあ」と赤ん坊の泣き声や老衰で
亡くなっていくときの生死の体験の機会が日常的にあ
った。

歌人 斎藤茂吉は母の死が近いことを知り、郷里山形へ
帰り、母の蒲団の傍らで添寝をし母の死に寄り添った。

 死に近き母に添寝のしんしんと
 遠田のかはづ天に聞ゆる     (茂吉)


『臨死のまなざし』を読み終え、人の生き方、死に方を
考えさせられた。
「臨死」という言葉は、人が亡くなるまぎわのことをさし、
死に臨むことを意味する。

死に臨むのは、死にゆく当の本人であるが、
同時に、死に臨む人を見送る人も
また、大切な人の「死を臨む」のである。

最後にどんな風景をみるのか
どんなかたちで大切な人を見送るのか

90歳を超え日々躰や脚(足)が弱くなりだしたとき
老人やその家族に尋ねてきた。
「どこで亡くなっていきたいか」
「どう亡くなっていきたいか」

住み慣れた家で死んでいきたい、と話されたときは
本人やその家族(介護者)を真ん中に置きながら
かかりつけ医、訪問看護師、訪問介護員、福祉用具専門相談員、
介護支援専門員などの支援の体制をとっていくことを説明する。

夜間でも夜明けでも「ちょっとした不安や症状の変化があった」
ときは、訪問看護師や介護支援専門員にいつ電話をかけてもいい、と
話をする。

夜間の急変時に電話の指示だけで終える訪問看護事業所もあるが、
夜間でも夜明けでもかけつけてくれる訪問看護事業所を選択する。

家族の見守りのなかで、本人が生きていこう、生きつづけていこうとする、
その気持ちを持ち、ひとりの死にゆく姿をみつめていくことだと思う。

みつめるのはまなざし(眼)であり、どんな視点で死をみつめながら生きてゆくのか。
死は他人事ではなく自分の事でもある。



















ジッと死に向かって生きる

2020-10-03 09:50:23 | 生老病死


1702 ジッと死に向かって生きる(再掲 2018年6月3日のブログ)


昨日
キャンバスで約2時間をかけ
83歳の素敵なお婆ちゃんに会いに行って来た
(介護相談を担当させて頂いているひとりの女性)
悪性の外陰部癌
疼痛に耐え
ジッと生きている

いまは
サービス付き高齢者向け住宅に棲む

彼女は寂しく話してくれた
「神様は私には幸せをもたらしてくれなかった」
「人生の最後まで癌に苦しみ いまは死を待つだけ」

癌の痛みは本人だけしかわからない痛み
手足は痩せ細り 棒のよう
両脚を動かすと激痛が走り
その痛みが顔に現れ
いたたまれない

彼女は「痛く」ても顔には出さず
笑顔で「(会いに来てくれて)ありがとう」と話される
後、数日の生命かもしれない・・・・
ジッと死に対峙し生きている

医師、看護師そしてケアスタッフが
彼女の居室を訪れる


彼女との出会いのきっかけは
私の妻の父親と
従弟の関係にある

20代のときに
両親を見送り
かけがえのない妹と弟がいた

妹は妻子ある男性と交際
騙され海で入水自殺

彼女が定年になり退職となり
その退職金の全てが
弟のサラ金に消えた
その弟を恨むこともなかった彼女

弟は手遅れの肝硬変を患い他界した

それ以来家族はなく
独りで暮らしてきた

昨年の今頃
外陰部に腫瘍ができ
場所が場所だけに
受診が遅れに遅れた

彼女は自分の生命はそう長くはないと悟り
自分の亡き後
家の取り壊しと葬式と墓を賄うだけの僅かな貯金を
妻の父親に託した

彼女は話す
天涯孤独の身ではない
こうして妻の母親が毎日のように来てくれ独りではないことを・・・・

彼女は
苦労の連続
耐えて生きてきた
いままた疼痛にジッと耐え生きている

何もできない私
痩せ細り手を握り返してきただけの自分
 

1472;死に寄り添う(下)~兄嫁の見送り 勘助~

2020-03-27 15:48:16 | 生老病死
死に寄り添う(下)~兄嫁の見送り 勘助~


『臨死のまなざし』から教えられたこと(5)



1991年2月17日、中勘助の『蜜蜂・余生』に出会い、「蜜蜂」を読み終えた。
今回、立川昭二さんの『臨死のまなざし』を読み、『蜜蜂』を思い出した。
蜜蜂は、働きづめに働いて死ぬ生き物であることを、
稲垣栄洋さんの『生き物の死にざま』で深く知ることができた。

勘助の嫂(あによめ)にあった末子の人生は、
蜜蜂のように命ある限りただひたすら
「家」のために働きづめに働き死んでいった、数え年60歳であった。
昭和17年4月3日 脳溢血で亡くなる。

勘助は『蜜蜂』の23頁~24頁に
「自分には些(いささか)の興味もないこうした面倒を何十年も
つづけながら感謝らしい感謝も、同情らしい同情もうけず、何ら
報いられることなく老い疲れて草の凋(しお)れるように死んで
いったあなたが気の毒でなりません。

詩人的作家である勘助は
 雨も悲し
 風も悲し
 照る日もまた悲しかりけり
 ・・・・・・
 (『蜜蜂』32頁)
9月3日の日記に
 あなたのいないことしの秋
 きものは人に頼みもしよう
 わたしの胸のほころびを
 誰が 誰が 縫ってくれる
(『蜜蜂』137頁)
と書き、嫂の死の悲しみを乗り越えるには時間がかかった。

火葬の様子は、『蜜蜂』87頁~88頁に書かれている。
親しい人、大切な人を骨にしたときの思いは、だれも同じである。
四十年苦楽を共にしてきた嫂に対し、
勘助は「記憶」ではなく「体温」として生き残っているのだ」、と
日記に感動的な言葉を綴っていた。

末子は、夫である金一は脳溢血で倒れて以後、33年間夫の介護を続け、
その長年の労苦は心身ともに病みつかれた彼女は、昭和15年、クモ膜
下出血で倒れた。

そのときの勘助の看病日記『氷を割る』を読むと、嫂末子さんの蜜蜂
のような苦労が伝わってくる。

    氷を割る

 宿命か
 げに宿命か
 三十年の月日を
 半痴半狂の人のみとりに
 心身ともに病み疲れて
 朽木のごとく倒れし人
 その比いなき善良さを思い
 いいようもない不幸の一生をおもい
 わが更生の恩をおもい
 ながしにぽとぽと涙を落としながら
 夜ふけの厨に
 かちかちと氷をわる

勘助は、家人が寝静まった夜ふけの台所で、錐で氷を割り
嫂の水枕と氷嚢を取り替えるのが日毎夜毎の仕事であった。
兄の看病で疲れた嫂の身の上を思いながら、「かちかち」
と氷を割れば、その氷の上に「ぽとぽと」と勘助の涙が落
ちる情景が浮かび、自分も切なくなってくる。

勘助は、「このつぎに出す本は『蜜蜂』という表題にしようと
思っています。あなたのことですよ、蜜蜂が働き死にに死ぬよ
うにあなたは死んだから。かわいそうな蜜蜂!(『蜜蜂』52頁)


戦前は、いまと違い介護サービスもなく、在宅医療も皆無に近かった。
紙おむつはなく、冬であっても手が凍えちぎれそうになる川の水で
布おむつや下着を洗っていた。末子だけでなく90歳を超えた老人
たちも同じような辛い労苦を乗り越えてきた過去の時代があった。




 




1469;死に寄り添う(中)~母の見送り 中勘助~

2020-03-25 18:28:16 | 生老病死
死に寄り添う(中)~母の見送り 中勘助~



「臨死のまなざし」から教えられたこと(4)

妹を見送った中勘助は、23年後の昭和9年(数え50歳)に母(86歳)の死にあう。
「妹の死から二十幾年を経て・・・・私は母を失う悲しみに
くずれおれてしまいそう」になりながら、最後の息をつく母に語りかける勘助。(『脳のまなざし』60頁)

「夜。冷っこくなった母はこの世につくべき息の残りをしずかについている」(前掲書60頁)
臨終の前日「冷たい手を自分の温い手のあいだに挟んでたらなにかいいたい様子なので
耳をよせる。あした というだけがやっとききとれた。あした死ぬというのかもしれない」
ーのであった。(前掲書60頁)

勘助は、母の最後の言葉を聴き取るだけでなく
母の最後の「ひと息」を引き取るさまをしっかりとみつめていた。

勘助自身、「生まれつき虚弱」で「病身者」であったからこそ、
妹そして母の死に寄り添い、弱い生き物をひたすらみつめてきた。

母は老衰して命を終え、「母を失う悲しみくずれおれてしまいそう」と表現する
彼の言葉は胸に迫り、死に寄り添う姿に涙腺が緩んでしまった。

1468; 「臨死のまなざし」から教えられたこと(3)

2020-03-25 05:09:33 | 生老病死
「臨死のまなざし」から教えられたこと(3)



死に寄り添う(上)

最近書店で、中勘助の『銀の匙』が積本にされ
静かなブームをよんでいる。

中勘助が生まれたのは明治18(1885)年
彼は生まれつき虚弱で、病身者であった。
腎臓病、神経症、脚気、胆石症などを患っていた。

病身者でありながら彼は80年の生涯において、
親しい人たちの死に寄り添ってきた(介護、看取りをしてきた)。

最初に死に寄り添ったのは、5つ違いの妹だった。
妹は22歳、勘助は27歳のとき

{幼い子を残して死んでいった妹の最期を、『妹の死』のなかで勘助は書き留めている。
 妹はは目をとじたままでそのせつない、頼りない・・・・・
「いくら息をしようと思ってもできなくなってしまう。・・・・・」
 そういううちに幾度も息がとまりかける、・・・・。
「誰か息をこしらえてちょうだい」といった。}『臨死のまなざし』57頁~58頁

息することも本当に苦しく「誰か息をこしらえてちょうだい」の言葉がせつなく胸に詰まる。

妹の最後の息は「それでもなにかいうらしく唇をうごかして
自分の顔のまえにかきさぐるような手つきをした。が、間もなく
息をひきとった。最後の息というものはいくたび見ても最後らし
く、そしてよそ目にはせつなそうなものである。」『臨死のまなざし』58頁

妹は病院のベッドで、肺結核で亡くなった。
大正元年の頃の病院は、こんにちのような医療機器はなく延命処置が施されるような
ことはなかった。

本当に勘助の妹のように最後家族の人たちに見送られ、「息をひきとる」さまは、
こんにちの病室で見られることは稀である。

自分も含め、大切な家族とどのような死に方(息をひきとるさま)をしてゆくのか
勘助の妹の死を通し、あらためて考えさせられた。



1467; 「臨死のまなざし」から教えられたこと(2)

2020-03-24 16:53:14 | 生老病死
「臨死のまなざし」から教えられたこと(2)

「老い」と「病い」

筆者(立川昭二さん)は、『臨死のまなざし』39頁に
「老いには本来、病いと違って自覚症状がない。
人はふつう他人の目のなかで老いはじめる」

80歳後半や90歳を過ぎても、「老い」を認めていない人もいる。
法的には65歳の誕生日をむかえると「老人」になり、介護保険被保険者証が届く。
自分は67歳、老人とは思ってはいない。
ブログには自分のことを「老いびと」と表現することはあるが・・・・。

他の人も同じで、65歳を過ぎても、まだ自分はその年齢よりも
「若い年齢」と思い込み、老いを自覚することはない。

齢を嵩ね往き 親族や友人の葬式の機会が増え
従兄弟姉妹や友人の顔をみて、「老けたな」と思ったりし、
自宅に帰り、鏡の前に立ち、自分の顔をみて、老いを知る。

筆者は、{多くの人は、「老人」よりも「病人」になりたがる}(40頁)と述べ、
「病い」は、引き返す見込みのない不安であり
「老い」は進み、その先には「死」がある。

吉田兼好は『徒然草』第93段のなかで
「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし、存命の喜び、日々に楽しまざらんや」(48頁)

世阿弥は『風姿花伝』に
「一方の花を極めたらん人は、萎れたる所をも知る事あるべし。
しかれば、この萎れたのこそ、その萎れたると申すこと、
花よりも猶上の事に申しべつ」

「花の咲かない草木が萎れたところで、何の面白いこともない。
しかし、花の萎れたのこそ、その花の咲いている時よりも面白いのである」(50頁)

萎れた花を捨てることはあっても、
萎れた花のなかに面白みや美しさを楽しむ、というようことを考えもしなかった自分。

老いは、萎れた人であると表現するものではないけれど、
老い嵩ねゆくなかで、「花の咲いている時より」も、
存命していることに喜び、老いを楽しんでいく。

幸福の尺度(価値観)は人それぞれ違うけれども
ささやかな暮らしのなかで老いを楽しでいくことなのかもしれない。
よりよき死を迎えるために老い生きて往く、
そんなことを「臨死のまなざし」から教えられた。


1466; 「臨死のまなざし」から教えられたこと(1)

2020-03-23 21:11:09 | 生老病死
「臨死のまなざし」から教えられたこと(1)


先日、古本屋200円コーナーで立川昭二さんの『臨死のまなざし』を見つけた.
平成8年6月に出版され、22年前の古い本である。
目次を見て、興味をそそられ、200円を支払いmy bookとなった。

重い病いの床や死に臨んだ床に
自分を置いたとき、はじめて自分が見えてくる。

漱石、賢治、鷗外などの文学を通し、死の情景や臨死のまなざしから
生老病死を見つめていく

何回になるかわからないが、
著者の言葉を引用しながら、老いや病い、そして生死のことを
ふれていきたい。

99歳の登喜子婆さんは
肺炎を再々発し先週の土曜日に入院した。
今日、長男から電話が入り、脳梗塞を発症し意識不明となった。

夕方,病室を訪れた。
小脳梗塞の診断であり、酸素療法と点滴が施行されていた。
彼女の耳元に近づき「登喜子さん」、と大きな声で呼んだら、
「はい」と返事をしてくれた。

神様は意地悪なのか
それとも白寿の婆さんに試練を与えたのか
右肺炎だけでなく小脳梗塞の病気まで抱えてしまった彼女

奇跡的に快復することを祈るだけである

1338;「老い」そして「病み」、その先は・・・・

2019-12-31 15:11:39 | 生老病死
今年は故郷に帰省した 生まれ育った処から羊蹄山を懐かしむ
「老い」そして「病み」、その先は・・・・

平成31年から令和元年へ
平成元年から平成31年まで
介護にかかわり続けてきたが
まだまだ「介護とは」何であるか

自分にとり介護について
他者に語れるものはなく
30年介護を続け
介護実践の集大成は何もない。

多くの老人やその家族の出会い
死別による別離も多かった。
枕もとで合掌し
安らかな死顔を拝見させていただいた。

自分も同じく安らかな顔で眠りにつきたい、と
いつも思う。


「老人」という言葉は
印象が暗く嫌がられますが
自分は「老人」という言葉が好き
「老人」の「老」は
長年の人生の苦労を躰に背負い続け
躰は曲がり杖をつきながら生きている姿を連想する。

「老人」に代わり「高齢者」という言葉のほうが
確かに受ける印象はよいかもしれないが、
齢(とし)が嵩んだ人、という意味にとれますが、
そこには生きてきた老人の姿が感じられない。

でも呼び方は人それぞれで、反対するものではない。


そして「老い」てくると
人それぞれ違い健康な老人もいれば
ひとりで「病」を数多く抱えている老人もいる。
自分も介護保険法上では「老人」の範疇にあるけど
気持ち(こころ)は、まだまだ「青年」だと思い込んでいる。

そうは言っても今年は
病気が次から次から見つかり
「病」を抱え「病」と生きていくことを
改めて知らされた。

慢性腎不全が自分の病気の元であり、20年以上のつきあい
今年は大動脈弁不全閉塞症、血栓がわかり循環器内科の受診が増えた
非結核性抗酸菌症の「菌」もしぶとく、自分の躰のなかで生息している
その菌が内蔵または頭部に巣食う、と命が危ない、とされ医師より話されるも
まだ深刻には捉えていない自分

貧血症、骨粗鬆症もあり、転倒は自分も気をつけねばならない


颯爽と病棟内を動き回る医療スタッフの姿をみて
つくづく「健康っていいな~」と
入院していてつくづく実感した

自分には健康な躰は望めないけれど
「病」と仲良く生き
躰に少しでも異変を感じたら受診する

躰をいたわりながらも 気持ちが退化することなく
2020(令和2)年を生きていく

多くの人に助けられながら
在宅老人の生きる後ろ姿から
老い病み生きていくこと
そして死をみつめていきたい

それは自分のことでもあるから

ブログ訪問していただいた方々
本当にありがとうございました






1271; 黴菌人(バイキンマン)

2019-11-05 19:33:41 | 生老病死
自治医科大学附属 正面玄関


黴菌人(バイキンマン)

右足膝周辺と左前腕に発症した赤い結節
結節は増え
数えてみたら十数個もあろだろうか
擦れたり圧迫したりすると「痛い」

昨日、 37.8℃の熱があり、9時過ぎ
自治医科大学附属病院救急外来を受診
循環器科と皮膚科の医師が診察して頂き
翌日皮膚科に再度受診となった

今日13:20 皮膚科受診
診察室に十人の皮膚科医師が入れ替わり診察
その後十人の医師が集まり診療方針を決定した

左肘近くにできた結節の一つをメスで摘出
それを培養し何の菌かを特定した上で治療を行っていく
急ぎで培養した結果、特定された黴菌は非結核性抗酸菌

来週の12日に菌が特定する
一月以上の入院治療が必要であると、皮膚科医から話された
12月1日から二人のケアマネジャー が出勤するし
在宅訪問、介護請求等々あり
頭のなかが混乱

wifeは「バイキンマンだね。私はドキンチャンかな」と話しかけてくる。

入院を一週間先に延ばしてもらい
その期間に新任のケアマネジャーと一緒に座板訪問と書類の引継ぎ
嗚呼 黴菌が恨めしい

wifeにも負担をかけるし
wifeの「健康」も気がかり

病院と職場が近ければ日帰り外出もできるのだが
ほんとうに「どこでもドア」が欲しい

赤い結節が増えるばかり
入院し治療を受ける、と腹をくくるしかないのか


※ この頃のブログは私的なことばかり
※ 老けた証拠(あかし)なのかな・・・・





1266; 存在が「失くなる」

2019-11-02 03:16:03 | 生老病死
存在が「失くなる」

にんげんは「死」を怖れる
この世の生物は「死」を避けることができない
にんげんも自分も同じく「死」ぬ

にんげん「死んだら」どうなるのか
「現在(いま“在る”、と読める)」生きているにんげんは
死後の世界は逝った(行った)ことがない
どんな世界なのか想像してみても
未知の世界

にんげん死んだらどうなるのか
にんげん死んだらどこへゆくのか
死んだときに「わかる」のだろうか

「死」の怖れよりも「失くなる」ことの怖さ

いままで四ヶ所の火葬場に行ったことがある
下野國に在る火葬場での体験は
死を「悼む」気持ちが感じられない火葬場の運営に憤りを覚えた

火葬場の釜で焼かれたご遺体の骨が
熾(おき、熾火)のように真っ赤なまま出てくる
骨が白く冷めないうち真っ赤なままでご遺族に引き渡す
ご遺族の気持ちを想うと遣る瀬なくなる

余りにも熱い骨なので
骨壷に入れることもままならず
火葬場の職員は作業のように手馴れた動作で
シャベルのようなもので骨壷に入れてしまう
そこには別離の儀式もない

常総國の火葬場では
骨が冷め白くなる状態にしてからご遺族を呼ぶ
立ち合った火葬場職員は合掌をしご遺族に悼みの言葉をかける


骨になったあなたを見ながら
骨壷に骨を入れる悲しみ、せつなさ、辛さを知る

もうあなたは「いない(存在が“ない“)
一緒に喜んだり哀しんだり楽しんだりすることもできない
あなたを失った気持ちはかんたんには癒えない

にんげん亡くなると
時間が経過するにつれ
過去の人となり忘れてしまう

自分が生きていた、という「存在そのもの」が消滅し
忘れ去られてしまうことに
にんげんは辛さやせつなさ、悲しさなど
複雑な感情を抱き
死ぬことを怖れる


医療施設や介護施設にいると
他人の「死」に慣れてしまいがち

死の「看取り」や「死後」の顔に対面の機会を
他者よりも多く持つ自分
死を悼む気持ちを忘れてはならない、と戒めている

もうあなたが存在しない(いない)
生きている時間(あいだ)に
できることをしていきたい

あなたに対しても
自分も
生きているうちに・・・・・









1246; 感染症が原因か

2019-10-21 05:38:38 | 生老病死
感染症が原因か

循環器科医師が待機してくれて
すぐに診察をしてくれた

右足の膝周辺から右足底までにかけ
チョット圧迫しただけで
痛みが走る
右足の他に
左肘から左肘の下あたりに赤い発疹ができ小さな瘤に

その小さな瘤は右足膝にも発症
その瘤に触れると痛い

医師からは 血栓が悪化していることはない
感染症が原因か
採血することになった

結果炎症反応の数値が高かった
皮膚科受診を勧められた

10月24日は自治医大附属病院の腎臓外科 定期受診日
そのとき主治医に相談し
皮膚科がいいのか、整形外科がいいのか、相談してみる
過去に抗酸菌の病いに罹り整形外科で抗酸菌の切除を行ったことがある
抗酸菌の再発か

痛み止めと抗生物質の薬を処方してもらい
服用すると
嘘のように痛みは半減、緩やかになり
白杖無しで歩けるようになった

その夜38度まで熱は上がった
いまは平熱に戻り、ホッとしている

自由に歩けないほど
不自由なものはない

白杖は用意してあった

1245; 悪 夢

2019-10-21 04:56:31 | 生老病死
悪 夢

昨日10月20日は、wifeの誕生日であった
両親と姉夫婦、甥姪とで外で夕食会を予定していた

自分の右足底は一昨日の夜から痛みが出現
SNOOPYの図柄が入った白杖を使い歩行できた
昨日の朝 起きたら 右足底は痛みが増し
白杖を使いようやく歩行できる状態で、症状は悪化

嗚呼!wifeの誕生日に右足がいうことをきかない
この先 wifeに言われそう
「わたしの誕生日に・・・・・」

血栓症が悪さしているのか
明日は担当の循環器科医師だから
明日自治医大附属病院受診するよ、とwifeに話す

それでは手遅れになると大変、取り返しのつかないことになるとwifeは
心配して怒る

wifeの誕生日に
急遽 自治医大附属病院救急外来へ向かった
車で90分余り

1244;「告知」は 死の宣告ではない

2019-10-17 04:32:25 | 生老病死
「告知」は 死の宣告ではない

同僚のお母様(81歳)が 
「検査結果について話したいことがある」と
かかりつけ医の総合病院から電話が入った

翌々日に受診した
老母と長女は
医師から
「膵臓癌です」
「てのほどこしがなく、手術もできない状態にあります」
と。、告知された。

いまは癌を患うと
本人同席のもとで
癌告知される

wifeの父も
「前立腺癌です」と告知され
「転移はあるかどうか、検査が必要です」
幸い 転移はなかったのでホッとした。


癌告知をするのは「簡単」

確かに今後癌治療を進めていく上で
肝心の本人が癌治療を知る必要がある

告知されることは
本人にとり「死の宣告」を告げられた思い込んでしまう

これからどう癌に立ち向かい
残された時間を生きていくのか
癌治療と並行しながら
告知後、メンタルな部分での支えも必要だと思う






1110;死の恐怖

2019-05-16 09:03:14 | 生老病死
の恐怖

90才を越えた木舟婆さんは
在宅訪問をするたび
「早く死にたい~」と話すも
翌日、クリニックを受診し薬をもらってくる。

老い そして病み
その先は “死”が待つ。

にんげん穏やかに死んで逝きたい、と思う。
死を考えるとき
志賀直哉の小説『城崎温泉にて』を思い浮かぶ

生きている、死の迎え方
生死は裏表にあり、生死は一つになる。

志賀直哉は城崎温泉で、三つの死に遭遇した。
蜂は、寂しいが静かな死であった。
鼠は、首に串が刺さり、石を投げられて必死に逃げ 惑っている。
イモリは、筆者が驚かしてやろうと、小毱ほどの石を手に取り投げた。
その石がイモリに当たり死んだ。

最期は蜂のように静かな死でありたい。
イモリは予期せぬ死であり、死ぬときは心の準備が欲しい。
鼠は悲惨な死だけに、余計に死の恐怖が募る。

いずれの死に方であっても、
死んだら自分という存在は無くなる。
時間が過ぎ行くにつれ
自分という人間は忘れ去られる。
そのこと自体が、死に対する恐怖なのかもしれない。

いま、生きている
存在している自分に〝感謝〟する。
小さな三つの生命(蜂、鼠、イモリ)から
生死を考えさせられた。

死は他人事ではなく、
極めて個人的な事なのかもしれない。